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錦の波、うつつの風

錦の波、うつつの風


胸を刺すのは、ただただ冷え切った焦燥だった。夫である仲哀天皇が崩御したという現実は、気高き息長帯比売おきながたらしひめ――後の神功皇后の五臓六腑を、容赦なく凍らせていく。悲しみよりも先に、背筋を駆け上がるような強烈な危機感が彼女の肌を粟立たせていた。筑紫の夜風は、松脂の燃える匂いと、どこか塩辛い海の息吹を運んでくる。周囲の重臣たちの、言葉にできない怯えや戸惑いの気配が、肌を刺すように伝わってきた。ここで自分が崩れ落ちれば、この国は拠り所を失って瓦解する。彼女の胸中で、恐怖を覆い隠すようにして、苛烈なまでの決意が燃え上がった。


暗い帳のなかで、皇后は自らの内に語りかけてくる神託の重みにじっと耐えていた。耳の奥で鳴り響くのは、波の音か、それとも神の眷属の叫びか。視界の端で揺れる松明の炎が、彼女の瞳を赤々と濡らしている。


武内宿禰たけしうちのすくね、そこにいるか」


皇后は静かに、しかし低く響く声で呼びかけた。その声は震えていなかったが、唇は寒さと緊張で引き結ばれ、血の気が失せている。


「ははっ、ここに。皇后様、どうか御身を第一に……。夜風が身に沁みまする」


宿禰は、暗がりのなかで深く頭を垂れた。彼の声には、主を失った動揺と、目の前の女性が背負おうとしているものの巨大さに対する畏怖が混じっている。


「ぬるいことを申すな。神の教えは明白だ。この海の向こう、宝に満ちた新羅の国を求めよと、我が耳底で風が絶えず吼えている。これをただの幻聴と切り捨てるか」


皇后は、自らの衣服の袖を強く握りしめた。彼女が身にまとっているのは、上質な白い絹の小袖に、幾重にも重ねられた緋色のである。動くたびに擦れ合う絹の擦過音が、静まり返った室内に衣擦れとなって寂しく響く。胸元には、鈍い光を放つ翡翠の勾玉が触れ合って、微かに冷たい音を立てていた。衣服に染み込ませた薫物の香りが、焦燥の汗とともに薄く漂う。


「しかし、畏れながら……。天皇が崩御されたばかりの今、軍を動かすなど、諸臣の動揺は量り知れません。海の向こうなど、目に見えぬ国に命を懸けよと言われても、兵らは怯えましょう」


宿禰の言葉は尤もだった。彼は現実を見つめていたが、皇后の視線はすでにここではない、遠く荒れ狂う大海原の先へと向けられていた。


「怯えなど、戦の熱が消し去る。宿禰、私には見えるのだ。黄金や白銀が満ち満ち、眩いばかりの光を放つ国が。この手でそれを掴めと、神が背を押し続けている。この疼きが、お前には分からぬか」


彼女の掌には、じっとりと冷たい汗がにじんでいた。神意を感じるたび、全身の血が沸騰するような熱さと、指先が凍りつくような寒気が同時に押し寄せてくる。それは狂気にも似た高揚感だった。


翌朝、皇后は兵たちの前に立つため、身支度を整えさせた。供された朝の食事は、乾いた米を蒸したしとぎと、塩漬けにされた堅魚かつお、そして身を清めるための冷たい清水だけだった。口に含むと、粢はパサパサと乾いており、喉を通りにくい。堅魚の強い塩辛さが舌を刺し、辛うじて自分がまだ生きていることを実感させる。食事の味など、今の彼女には砂を噛むようだったが、身体を動かすための燃料として機械的に飲み込んだ。


表に出ると、筑紫の朝日は残酷なほどに眩しかった。波止場に並ぶ軍船が、朝の光を浴びて黒い影を海面に落としている。潮の満ち引きの匂いが鼻腔を突き、波が船べりを叩くザザン、ザザンという重い音が、まるで巨大な生き物の鼓動のように地響きを立てていた。


「皆、聞け」


皇后は、集まった兵たちを見下ろしながら声を張り上げた。その身体には、先ほどまでの絹の衣の上から、鉄の小札を革紐で綴った、ずっしりと重い大鎧が着せられている。肩に食い込む鎧の重みは、そのままこの国の運命の重さだった。男装の麗人となった彼女の姿に、ざわついていた兵たちが一瞬で静まり返る。


「我が夫、天皇は崩御された。だが、嘆いている暇はない。神は我が内にあり、この海の向こうにある、金銀財宝に溢れた新羅の国を我らに与えると約束された。これは神命である」


兵たちの間に、冷たい風が吹き抜けるような沈黙が流れた。目に見えない国への遠征、しかも女性の指揮である。疑念と恐怖が、男たちの顔を曇らせていくのが皇后の目にはっきりと見えた。


「皇后様、我らは海の向こうの異国など見たこともございませぬ。荒波に飲まれて死ぬのは御免です」


最前列の兵の一人が、恐怖に顔を歪めながら叫んだ。その声に同調するように、周囲からも不安の呟きが漏れ聞こえる。


皇后は、その兵を真っ直ぐに見据えた。彼女の心を満たしたのは、怒りではなく、彼らを従えねばならぬという絶対的な支配欲と、神への絶対的な盲信だった。彼女は自らの髪を解き、海の風にさらした。長い黒髪が、潮風に煽られて生き物のように舞う。


「ならば、この海の神に誓おう。もし我が言葉が偽りなら、私はこの海に飲み込まれて消える。だが、神が私と共にいるならば、波は静まり、道は開かれるはずだ」


彼女は傍らにあった木櫛を手に取り、それを自らの手で海へと投げ入れた。木の櫛はプカリと波間に浮かび、朝日に照らされてきらめいた。その瞬間、不思議なことに、それまで荒々しく船を揺らしていた白波が、すっと引いて鏡のような凪へと変わった。


「おお……。波が、波が静まったぞ」


兵たちの間に、今度は驚愕と畏怖の地鳴りのような声が広がった。彼らの瞳に宿っていた猜疑心は消え去り、目の前の女性を「神の依り代」として崇める熱狂へと塗り替えられていく。


皇后は、その光栄と熱気の渦の真ん中で、冷徹に微笑んだ。腹の底から湧き上がるのは、すべてを意のままに動かしているという全能感と、もう後戻りはできないという底知れぬ孤独だった。お腹の中に宿る新たな命が、鎧の帯の下で微かに動いたような気がした。その柔らかな感触だけが、彼女をかろうじて人間の世界に繋ぎ止めていた。


「船を出せ。波は我らの味方だ。神の国へ、我らを導く風が吹いている」


皇后の鋭い号令とともに、何百もの櫂が一斉に海水を掻いた。ザァッと上がる水飛沫が、彼女の頬を濡らし、塩辛い味が唇に残る。錦の御旗が風に翻る音を聞きながら、神功皇后はただひたすらに、未知なる水平線の先を見つめ続けていた。



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