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神託の風、海の向こうへ 神功皇后(じんぐうこうごう)

神託の風、海の向こうへ


神功皇后は、その夜どうしても眠ることができなかった。


窓の外では、春の終わりを告げる風が松の梢を揺らしている。遠くから聞こえる波の音は穏やかなはずなのに、なぜか胸の奥をざわつかせた。


夫である仲哀天皇が崩御してから、まだ日も浅い。


宮殿のどこを歩いても、夫の面影が残っていた。


廊下の柱。


庭の梅の木。


共に眺めた海。


どれもが思い出を連れてくる。


神功皇后は几帳の前に座り、膝の上で指を組んだ。


白絹の小袖の袖口を握る手に力が入る。


悲しみが消えない。


寂しさも消えない。


それでも涙ばかり流しているわけにはいかなかった。


彼女の腹には新しい命が宿っている。


未来の皇子。


この国を継ぐ子供。


母として強くならなければならなかった。


侍女の伊波比売が静かに入ってくる。


「皇后様、お休みになりませんとお身体に障ります」


神功皇后は小さく微笑んだ。


「心配をかけますね」


「皆が案じております」


「ありがとう」


伊波比売は温かな粟粥を差し出した。


粥には山菜が細かく刻まれ、ほのかな塩の香りが漂う。


神功皇后はひと口食べた。


優しい温かさが胃へ落ちていく。


不思議と少しだけ心が落ち着いた。


「この子のためにも食べなくてはなりませんね」


そう言って腹をそっと撫でる。


すると不思議な感覚が胸をよぎった。


まるで誰かが呼んでいるようだった。


神功皇后は思わず顔を上げる。


その瞬間だった。


海から吹いた風が御簾を大きく揺らした。


松明の炎が揺れる。


部屋の空気が変わった。


神功皇后は静かに目を閉じる。


耳元で誰かの声が聞こえた気がした。


『海の向こうへ向かえ』


神功皇后は息を呑んだ。


声は一瞬で消えた。


だが胸の奥には確かな響きだけが残っていた。


翌朝。


宮廷は騒然としていた。


重臣たちが集まり、神功皇后の前に座る。


誰もが不安そうな顔をしていた。


「皇后様」


老臣の武内宿禰が静かに口を開く。


「昨夜のお告げは真でございますか」


神功皇后は頷いた。


「確かに聞きました」


「海の向こうの国を治めよと」


部屋の空気が重くなる。


若い武人の一人が顔をしかめた。


「危険すぎます」


「天皇陛下を失ったばかりなのです」


「国を守るだけでも大変です」


反対の声が次々に上がった。


神功皇后は黙って聞いていた。


皆が国を思っている。


それはよく分かる。


だが彼女の胸には不思議な確信があった。


恐ろしい。


もちろん怖い。


夫を失ったばかりなのだ。


戦など望んでいない。


それでも。


何かが彼女を前へ進ませようとしていた。


神功皇后はゆっくり立ち上がる。


緋色の裳が床を流れる。


黒髪には真珠の髪飾り。


朝日を受けて輝いていた。


「皆の心配はよく分かります」


「ですが私は逃げたくありません」


重臣たちは顔を見合わせた。


神功皇后は続ける。


「私は一人の妻です」


「夫を失った悲しみもあります」


「一人の母でもあります」


「生まれてくる子が平和に暮らせる国を残したいのです」


静まり返った広間に彼女の声だけが響く。


「だからこそ私は神々の声を信じます」


武内宿禰が深く頭を下げた。


「ならば私もお供いたします」


「宿禰」


「皇后様がお一人で背負う必要はございません」


その言葉に神功皇后の胸が熱くなった。


人は弱い。


だが支え合える。


それを改めて感じた。


数日後。


港には数え切れない船が並んでいた。


海風が吹き抜ける。


帆が膨らみ、綱が鳴る。


兵たちは武具を整え、出航の準備に追われていた。


神功皇后も港へ向かう。


白い上衣に深紅の袴。


肩には薄紫の羽織をまとっていた。


潮の香りが鼻をくすぐる。


空には海鳥が舞う。


波は陽光を受けて銀色に輝いていた。


腹の子は静かだった。


まるで見守っているようだった。


伊波比売が不安そうに言う。


「本当に行かれるのですね」


神功皇后は微笑んだ。


「怖いですよ」


「ですが立ち止まる方がもっと怖いのです」


「皇后様……」


「誰だって恐れます」


「けれど恐れながら進むこともできるでしょう?」


伊波比売の目に涙が浮かんだ。


神功皇后はその肩に手を置く。


「大丈夫です」


「神々が見守ってくださいます」


港に太鼓の音が響いた。


出航の合図だった。


武内宿禰が船上から叫ぶ。


「皇后様!」


神功皇后は振り返る。


海はどこまでも青かった。


風は力強かった。


胸の奥で夫の声が聞こえた気がした。


『進みなさい』


神功皇后は静かに頷く。


「行きましょう」


船へ足を踏み出した。


木の甲板の感触が足裏に伝わる。


潮風が頬を撫でた。


その瞬間、不思議と恐れが薄れていく。


代わりに胸の奥に灯ったのは希望だった。


未来はまだ見えない。


海の向こうに何が待つのかも分からない。


それでも生まれてくる子供のために。


国のために。


そして亡き夫の想いのために。


神功皇后は青い海へ向かって進み始めた。


白い帆が風を受けて膨らむ。


船はゆっくりと岸を離れた。


遠ざかる故郷を見つめながら、神功皇后は腹に手を当てる。


「あなたが生まれる頃には、きっと新しい朝が来ていますよ」


波の音だけが答える。


だがその音は、どこか祝福の歌のように聞こえた。



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