鏡の宿る熱、祈りの灯火
鏡の宿る熱、祈りの灯火
胸を焦がすような焦燥感と、逃れようのない重圧が、卑弥呼の細い肩にのしかかっていた。薄暗い神殿の奥、彼女は冷え切った自らの指先をぎゅっと握り締め、ただじっと、闇の向こうから聞こえる民のざわめきに耳を澄ませていた。
外の世界では、長雨による飢饉と、隣国との争いの足音がすぐそこまで迫っている。女王という名の生贄として、国すべての命運を背負わされているかのような孤独が、彼女の心を容赦なく蝕んでいた。
「なぜ、神の声はこれほどまでに遠いのだろう」
ぽつりと溢れた呟きは、祭壇に灯された松脂の煙に巻かれて消えていく。卑弥呼が静かに息を吸い込むと、煤けた匂いと、おしろいの甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる。神と対話する存在でありながら、自分の中にあるのは、ただの人間としての脆さと、いつ見放されるかわからないという恐怖ばかりだった。
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赤き文様と青銅の鏡
胸の動揺を覆い隠すように、卑弥呼はゆっくりと立ち上がった。
彼女が身にまとっているのは、この日のために仕立てられた、目の詰まった白い麻の衣。胸元と袖口には、茜草の根で鮮やかに染め上げられた、燃えるような赤の文様が刺繍されている。歩くたびに、目の粗い麻が擦れ合う衣擦れの音が、静まり返った神殿に寂しく響き渡った。
「お姉様、そんなに強張っていては、神様も依り代に降りづらくなりますよ」
物陰からそっと姿を現したのは、彼女の言葉を民に伝える唯一の存在であり、実の弟である壱与の父親代わりでもある、頼もしい男。
卑弥呼は鏡のように磨き上げられた青銅器の前に立ち、無理に息を整えた。
「わかっています。けれど、民の飢えた声が、地を這う地鳴りのように私の耳に届くのです。彼らの絶望が、私の肌を刺すように痛い」
「あなたが怯えれば、邪馬台国は一瞬で崩壊します。神の威光を、その身にまとうのです」
弟の言葉は冷徹であったが、そこには深い身内への情愛が隠されていることを、卑弥呼は知っていた。
彼女は冷たい青銅の鏡に触れる。手のひらから伝わる金属の拒絶するような冷たさが、かえって彼女の狂おしいほどの情熱を呼び覚ます。鏡の表面には、松明の炎に照らされて、青白く、しかし妖艶に輝く我が顔が映っていた。この顔で民を魅了し、畏怖させなければならない。それが、彼女に与えられた唯一の生きる道だった。
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義務の味、遠き日の記憶
日が天の真ん中に昇る頃、卑弥呼のための食事が運ばれてきた。
胸が塞がって吐き気さえ覚えていたが、この儀式を乗り切る体力を得るため、彼女は神に捧げられたお下がりを口に運ぶことにした。今日の膳に並んだのは、土器に盛られた温かい大麦の粥、川で獲れた鮎の塩焼き、そして塩漬けにされた野蒜と、山で採れた苦味のある木の実。
「香ばしいけれど、どこか血の匂いがする」
鮎の身を箸でむしり、口に含んだ。
じわりと広がる塩気と、内臓の苦味が、彼女の舌を強く刺激する。その独特の苦味が、かつて普通の少女として野山を駆け巡り、家族と笑いながら貧しい食事を分け合った遠い記憶を呼び起こした。
あの頃の食事はもっと美味しかった。今の食事は、どんなに贅沢であっても、神への供物という名の義務の味がする。喉を通る温かい粥が、冷え切った胃を満たしていくのを感じながら、彼女は自らの血がまだ通っていることを確かめるように、深く息を吐き出した。
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凄まじき覚悟
「女王様、国境の砦が破られたとの報が入りました。民が、神殿の周りに集まってきております。奇跡を、どうか奇跡を」
外から駆け込んできた兵の叫び声に、卑弥呼の心臓は激しく跳ね上がった。
恐怖が冷たい汗となって背中を伝い落ちる。しかし、それと同時に、彼女の腹の底から、ある種の開き直りにも似た、凄まじき覚悟が湧き上がってくるのを感じた。
「慌てるな。神は、私を見捨ててはいない」
彼女の声は、自分でも驚くほど低く、威厳に満ちていた。
卑弥呼は立ち上がり、さらに大ぶりな翡翠の首飾りを首にかけた。緑色の美しい石が互いにぶつかり合い、硬質な音を立てる。その音は、彼女の心の動揺を打ち消す、魔除けの響きでもあった。
「私は、この国の母。民の怨嗟も、悲しみも、すべて私が飲み込んでみせる」
自己を鼓舞するように呟くと、彼女は神殿の重い扉を開け放った。
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虚構を真実に変える光
一歩外へ出ると、むっとするような人間の熱気と、乾いた土埃の臭い、そして何千人もの民が放つ、絶望に満ちた呻き声が彼女を包み込んだ。
見上げる空は、分厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうなほど重苦しく垂れ込んでいる。その薄暗い光の中で、卑弥呼の白い衣と、胸の赤い文様が鮮烈に浮かび上がった。
「おお、卑弥呼様だ! 天の意思を、どうか我らに!」
民が地面に伏し、地を這うようにして祈りを捧げる。
その光景を見た瞬間、卑弥呼の心から恐怖が消え去り、代わりに神聖なトランス状態が訪れた。五感が研ぎ澄まされ、風のそよぎ、雲の動き、民の呼吸の一つひとつが、自らの身体と一体化していくような錯覚を覚える。
「天の神よ、地の霊よ、我が声を聴け」
卑弥呼は両腕を広げ、青銅の鏡を高く掲げた。
ちょうどその時、奇跡のように、分厚い雲の切れ間から、一筋の強烈な太陽の光が差し込んだ。光は青銅の鏡に反射し、集まった民の頭上を、まるで見えない龍が舞うかのように眩しく照らし出す。
「神の光だ! 卑弥呼様が、太陽を呼び戻された!」
割れんばかりの歓声が響き渡り、大地が揺れた。
民の顔に宿る希望の光を見て、卑弥呼の胸は、激しい達成感と、それ以上に深い哀れみで満たされた。彼らは、この鏡の反射が偶然の産物であることを知らない。けれど、この光が彼らを救うのであれば、私は何度でも嘘を真実に変えてみせよう。
「戦を止めよ。天は、和を求めている」
卑弥呼の放った言葉は、風に乗って国中に広がっていった。
民が涙を流して感謝する中、彼女は静かに神殿へと戻り、再び扉を閉めた。
薄暗い闇が戻った室内で、卑弥呼は崩れ落ちるように床に膝をついた。全身の力が抜け、激しい疲労感が押し寄せる。しかし、彼女の瞳には、先ほどまでの怯えはなく、ただ国を守り抜くという、冷徹で美しい女王の光が、静かに灯り続けているのだった。




