雨の匂いを聞く巫女 卑弥呼
雨の匂いを聞く巫女
卑弥呼は、人々の不安が自分の胸に流れ込んでくるような気がしていた。
春だというのに雨が降らない。
田はひび割れ、若い稲は黄色く変色し始めている。
村人たちの顔から笑顔が消えていた。
邪馬台国の丘の上に建つ祭殿から見下ろす景色も、どこか色褪せて見える。
卑弥呼は長い黒髪を背に流しながら、静かに空を見上げた。
雲はない。
どこまでも青い空だった。
本来なら美しいはずの空なのに、今は恐ろしく感じる。
「女王様」
背後から声がした。
弟の彦が心配そうな顔で立っている。
「民が集まっています」
卑弥呼は目を閉じた。
分かっていた。
皆が何を求めているのか。
神の声。
雨の知らせ。
希望。
それを自分に求めている。
「行きましょう」
祭殿の外へ出ると、たくさんの人々が頭を下げた。
老人もいる。
若い母親もいる。
幼い子供を抱えた女性もいた。
皆、疲れた顔をしている。
卑弥呼の胸が締め付けられた。
人々は自分を神に近い存在だと思っている。
だが卑弥呼自身は知っていた。
自分も同じ人間だということを。
不安もある。
迷いもある。
夜になると眠れない日もある。
それでも。
誰かが希望にならなければならない。
「女王様」
一人の老人が進み出た。
「雨は降るのでしょうか」
震える声だった。
卑弥呼は老人の顔を見た。
日に焼けた顔。
土にまみれた手。
長い年月を生きてきた人の顔だった。
その目には恐れがある。
飢えへの恐れ。
家族を守れない恐れ。
卑弥呼は静かに答えた。
「祈りましょう」
老人は目を伏せた。
望んでいた答えではなかったのかもしれない。
けれど卑弥呼は嘘を言えなかった。
その夜。
祭殿では祈りの儀式が行われた。
香木が焚かれ、甘く深い香りが漂う。
炎が揺れ、赤い光が柱を照らしていた。
卑弥呼は白い麻の衣をまとい、首には翡翠の勾玉を下げている。
太鼓の音が響く。
ドン。
ドン。
低く重い音が胸に伝わる。
人々の祈りが空へ昇っていくようだった。
卑弥呼は舞った。
静かに。
ゆっくりと。
足の裏で大地を感じながら。
祖先たちの声を聞こうとするように。
神々の気配を探すように。
やがて意識が遠くなった。
香り。
炎。
太鼓。
全てが混ざり合う。
その時だった。
乾いた土の匂いの向こうに、微かな湿り気を感じた。
まるで遠い場所から風が運んできたような。
雨の匂い。
卑弥呼は目を開いた。
頬を涙が伝っている。
どうして泣いているのか分からなかった。
けれど胸の奥に確かな感覚があった。
「来る」
誰かが息を呑んだ。
「女王様?」
卑弥呼は震える声で言った。
「雨が来ます」
ざわめきが広がる。
だが卑弥呼は続けた。
「三日のうちに」
その言葉を口にした瞬間、自分でも驚いていた。
確信があった。
理由は説明できない。
それでも分かる。
雨は来る。
祭殿を出ると夜風が吹いていた。
弟の彦が駆け寄ってくる。
「本当ですか」
「分かりません」
卑弥呼は苦笑した。
「でも、そう感じたのです」
彦は少し黙ったあと、小さく笑った。
「姉上らしい」
「頼りないでしょう?」
「いいえ」
彦は首を振った。
「私は知っています」
「何を?」
「姉上は民を騙したことがない」
その言葉に卑弥呼は胸が熱くなった。
人々は神の声を聞く女王を見る。
けれど彦だけは違った。
弱い自分を知っている。
迷う自分を知っている。
それでも信じてくれている。
翌朝。
空は曇っていた。
厚い雲が西から流れてくる。
人々が空を見上げている。
昼になると風が強くなった。
木々が揺れる。
草が波のようになびく。
そして夕方。
ぽつり。
一滴の雨が落ちた。
土の上に小さな染みができる。
次の瞬間。
歓声が上がった。
ぽつり。
ぽつり。
やがて雨粒は数を増し、大地を濡らし始めた。
子供たちが駆け回る。
老人が空を仰ぐ。
母親たちが泣きながら笑う。
卑弥呼は祭殿の軒下からその光景を見ていた。
雨の匂いが広がる。
乾いていた土が潤っていく。
人々の心も潤っていくようだった。
「女王様!」
村人たちが叫ぶ。
「ありがとうございます!」
卑弥呼は首を横に振った。
「私ではありません」
だが歓声は止まらない。
人々は笑っている。
久しぶりの笑顔だった。
それを見ているうちに、卑弥呼も微笑んだ。
神の声が本当に聞こえるのか。
そんなことは分からない。
けれど一つだけ確かなことがあった。
人は希望がなければ生きられない。
そして自分は、その希望を守りたい。
たとえ不完全な人間であったとしても。
雨は静かに降り続いていた。
祭殿の屋根を叩く優しい音を聞きながら、卑弥呼はそっと目を閉じた。
冷たい風が頬を撫でる。
どこかで炊き立ての粟飯の匂いがした。
囲炉裏では川魚が焼かれているのだろう。
その香ばしい匂いに混じって、雨の匂いが漂う。
卑弥呼は深く息を吸った。
人々が笑っている。
今はそれだけで十分だった。




