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海原の碧、機織の糸

海原の碧、機織の糸


悲しみが、潮の満ち引きのように胸の奥底で渦巻く。豊玉姫トヨタマヒメは、手のひらに残るあたたかなぬくもりをそっとなぞり、ただ呆然と、寄せては返す波の音に耳を傾けていた。火折尊ホオリノミコトが去ってからの宮殿は、まるで魂を抜かれたように冷え切っている。肌をなでる潮風はいつもよりずっと冷たく、彼女の薄紅色の領巾ひれを小さく揺らした。


「あの方の瞳には、私の姿がどのように映っていたのだろう」


ぽつりと呟いた声は、波の泡に消えていく。豊玉姫は、自身の身に宿った新しき命の気配を感じるたび、愛おしさと、それ以上に深い孤独感に胸を締め付けられる。彼は人間、自分は海の神の娘。その境界線が、今さらながらに彼女の心を鋭く切り裂いていた。


---


### 心の嵐をなだめる糸


胸の痛みを紛らわせるように、豊玉姫は機織り部屋へと向かった。

部屋に満ちる、湿った木と生糸の匂いが、少しだけ彼女の心を落ち着かせる。今日身にまとっているのは、海の底の深い碧を映したような、なめらかな絹の小袖。袖口には白い波頭を模した刺繍が施されており、彼女が動くたびに、まるで本物の波が揺らめいているように見える。


「姫様、あまり根を詰めなさるな」


侍女の塩土しおつちの老婆が、心配そうに声をかけてくる。

豊玉姫は無理に微笑みを作って、機織り機の前に座った。


「いいえ、こうして手を動かしている方が、心の中の嵐が静まるのです」


トントン、カラリ、と機織り機の音が静かな部屋に響き始める。

指先で触れる糸はひんやりとして、まるで火折尊が置いていったあの清らかな水のようだった。彼女の目に映るのは、ただひたすらに美しく、どこまでも透き通った地上の光。あの方が生きていた世界の輝きを、この糸に織り込みたいと願う。しかし、どれほど美しい布を織り上げても、それを手にとって笑ってくれる人はもうここにはいない。視界が涙で滲み、せっかくの碧い糸が歪んで見えた。


「お腹のお子が、あの方に似て優しく強い目を持っていたら、私はどうすればよいのでしょう」


「それこそが、神々の祝福というものにございますよ、姫様」


塩土はそっと、豊玉姫の肩に手を置いた。その手のあたたかさに、彼女の頑なだった心が少しだけほどけていく。


---


### 記憶を呼び起こす海の恵み


昼下がり、豊玉姫のために食事が運ばれてきた。

食欲などまったくなかったが、お腹の子のためにと、彼女は箸を動かす。今日の献立は、新鮮な鯛の塩焼きと、海の恵みである昆布を細かく刻んでお酢で和えたもの、そしてふっくらと炊き上げられた赤米のご飯。


「香ばしい匂い。あの方も、この鯛を美味しいと召し上がってくださったわね」


一口、鯛の身を口に運ぶと、程よい塩気と、ふんわりとした白身の甘さが口いっぱいに広がる。

その味が、かつて二人で囲んだ賑やかな食卓の記憶を鮮烈に呼び起こす。あの時、火折尊は「海の幸はこれほどまでに旨いのか」と、目を輝かせて喜んでくれた。喉を通る食べ物は、彼女の冷え切った身体を少しずつ温めていったが、それと同時に、もう二度と戻らない日々への哀愁が、苦みとなって胸に残った。


---


### 決意の出立


「姫様、地上へ行く準備が進んでおります。波の背に乗って、出立の時を待つばかりでございます」


部屋に入ってきた使者の言葉に、豊玉姫は小さく頷いた。

彼女の心は、恐怖と期待で激しく揺れ動いていた。人間の世界で子を産むということ、それは海の眷属である彼女にとって、大いなる挑戦であり、何よりも火折尊との約束を果たすための神聖な儀式である。


「わかりました。すぐに向かいます」


豊玉姫は立ち上がり、姿見の前に立った。

碧い小袖の上から、さらに白い豪奢な羽織を重ねる。その白は、まるで荒れ狂う海の激しい波飛沫のようであり、彼女の決意の固さを表しているかのようだった。

鏡に映る自分の顔は、悲しみに沈んではいるものの、母親としての強い光を宿し始めていた。


「私は、あの方を信じています。けれど、もし私の真の姿を見られたら、その時、あの方はどう思われるかしら」


そんな不安が、胸の奥で黒いシミのように広がっていく。

彼女の身体は、出産の際、本来のわにの姿へと戻ってしまう。それは海の神としての真実の姿でありながら、地上の人間にとっては、恐るべき怪物の姿に映るに違いない。愛されたい、けれど、幻滅されたくない。その葛藤が、彼女の呼吸を浅くさせた。


「弱気になってはいけませんね。私は、あの方の妻なのだから」


自分に言い聞かせるように、彼女は深く息を吸い込んだ。


---


### 海を渡り、未完成の産屋へ


部屋を出ると、磯の強い香りと、轟々という波の音が彼女を迎える。

目の前に広がる海原は、今日の豊玉姫の心を映したかのように、少し荒れていた。灰色の雲が低く垂れ込め、波の頭が白く砕けている。その冷たい水飛沫が彼女の頬を濡らした。それはまるで、彼女の代わりに海が泣いているかのようだった。


「姫様、どうぞこちらへ」


差し出された舟に乗り込み、豊玉姫は地上を目指す。

水の中を進む感覚は、彼女にとって慣れ親しんだもののはずだったが、今日ばかりは、身体が重く、まるで引き留められているかのように感じられた。進むにつれて、徐々に水の青が薄れ、地上の太陽の光が水面を通して差し込んでくる。その光の眩しさに、彼女は思わず目を細めた。


「ああ、あの方のいる世界が、すぐそこに」


胸が高鳴ると同時に、張り裂けそうなほどの切なさがこみ上げてくる。


やがて、舟は静かな波打ち際へと辿り着いた。

そこに建てられた産屋は、まだかやき終えられておらず、剥き出しの木々が寂しげに立っている。鵜の羽を茅の代わりに使おうとした形跡があったが、まだ半分も終わっていない。


「間に合わなかったのですね」


豊玉姫は、その未完成の産屋を見て、火折尊がどれほど慌てて準備をしてくれたのかを察した。

その不器用な優しさが、彼女の心をじんわりと満たしていく。木の清々しい香りと、地上の乾いた土の匂いが混ざり合い、彼女の鼻腔をくすぐった。


---


### 開けられることのない扉


「火折尊様、私は参りました。あなたとの約束を守るために」


産屋の戸口に立ち、彼女は中を見つめた。

薄暗い室内は、波の音だけが響いている。ここで自分は、誰にも見られてはならない姿で、新たな命を紡ぐのだ。愛する人に本当の姿を見られたくないという恐怖と、無事に子を産み落行きたいという母としての願い。二つの感情が激しくぶつかり合い、彼女の身体を震わせた。


「決して、中を覗かないでください。それが、私たちの愛を繋ぎ止める唯一の絆なのですから」


彼女は静かに、産屋の戸を閉めた。

外から聞こえる風の音と、遠くで待つ火折尊の気配を感じながら、豊玉姫はただ一人、暗闇の中で自身の運命と向き合い始めるのだった。



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