潮騒の約束 豊玉姫
潮騒の約束
豊玉姫は、その朝、胸の奥に小さな痛みを抱えていた。
海の底にある龍宮は、いつもと変わらず美しかった。真珠で飾られた柱は柔らかな光を放ち、珊瑚の回廊には色鮮やかな魚たちが群れをなして泳いでいる。けれど、その美しさを見ても心は晴れなかった。
窓辺に立つ豊玉姫は、揺れる海藻の向こうを見つめながら、深く息を吐いた。
「姉上、またそんな顔をしているのですか」
背後から声がした。
振り返ると、妹の玉依姫が立っていた。淡い青色の衣をまとい、黒髪を長く垂らしている。
「そんな顔って?」
豊玉姫が笑おうとすると、玉依姫は少し困ったように首を傾げた。
「悲しそうなお顔です」
その言葉に、豊玉姫は思わず目を伏せた。
自分では隠しているつもりだった。
けれど妹には分かってしまうらしい。
「悲しいわけではないのです」
「では寂しいのですね」
図星だった。
豊玉姫は苦笑した。
「あなたには敵いませんね」
龍宮の侍女たちが朝食の支度を整えていた。
白い貝殻の皿には焼いた魚。
海藻の和え物。
貝の出汁が香る温かな汁物。
甘く煮た果実。
海の国の食卓は豊かだった。
だが豊玉姫はあまり箸が進まなかった。
数日前から父である海神が話していた。
地上の世界へ行く時が来たのだと。
運命の人に会うために。
海神の娘として生まれた以上、それは避けられないことだった。
けれど。
豊玉姫は龍宮が好きだった。
父が好きだった。
妹が好きだった。
海の静かな青も好きだった。
それらを置いて行く日が近づいている。
そのことを考えるたび胸が苦しくなった。
「姉上」
玉依姫がそっと手を握る。
「大丈夫です」
「何が?」
「姉上は幸せになります」
豊玉姫は思わず笑った。
「まだ何も始まっていないのに」
「それでもです」
妹は真剣な顔だった。
豊玉姫はその手の温もりを感じながら、少しだけ心が軽くなるのを感じた。
その日の午後。
豊玉姫は海面近くまで泳いでいた。
海の上から差し込む陽光が、水中に金色の筋を描いている。
魚たちが光の間を縫うように泳ぎ、波が静かに揺れていた。
美しい景色だった。
けれど今日は何故か胸がざわつく。
まるで何かが始まろうとしているような感覚。
その時だった。
岸辺に人影が見えた。
若い男だった。
岩の上に腰を下ろし、遠くの海を眺めている。
豊玉姫は思わず足を止めた。
地上の人間を見るのは初めてではない。
けれど何故だろう。
目が離せなかった。
男の横顔には不思議な寂しさがあった。
誰かを探しているような。
何かを失ったような。
豊玉姫は胸が締め付けられるのを感じた。
「どうして……」
自分でも分からない。
ただ、その表情を見ていると近づきたくなった。
話しかけたくなった。
笑ってほしくなった。
豊玉姫は海面から顔を出した。
波がきらりと光る。
男がこちらを見た。
目が合った。
その瞬間だった。
豊玉姫の胸が大きく鳴った。
まるで嵐の日の海のように。
男も驚いた顔をしている。
けれど目を逸らさなかった。
夕陽が二人を照らしていた。
赤く染まった海。
潮の香り。
遠くで鳴く海鳥の声。
世界が急に鮮やかになったような気がした。
男が立ち上がる。
「あなたは……誰ですか」
優しい声だった。
豊玉姫は思わず微笑んだ。
「私は豊玉姫」
男は目を見開いた。
「美しい名前ですね」
その一言に頬が熱くなる。
龍宮では何度も褒められたことがある。
けれど今日ほど嬉しかったことはなかった。
不思議だった。
初めて会った人なのに。
初めて聞いた声なのに。
ずっと前から知っていたような気がする。
潮風が吹いた。
男の黒髪が揺れる。
豊玉姫はその姿を見つめながら思った。
ああ。
私はこの人に会うためにここへ来たのだと。
龍宮を離れることが怖かった。
家族と別れることが寂しかった。
けれど今なら分かる。
別れは終わりではない。
新しい出会いの始まりなのだ。
夕陽はゆっくりと海へ沈んでいく。
空は茜色から紫色へ変わり始めていた。
豊玉姫はその美しい景色の中で、静かに微笑んだ。
胸の痛みはもうなかった。
代わりに、小さな希望が灯っていた。
波の音が優しく響く。
まるで海そのものが、二人の出会いを祝福しているかのようだった。




