鏡のなかの緋い糸
鏡のなかの緋い糸
胸の奥が、冷たい水に浸されたように重く沈んでいた。台与は自分の指先が、かすかに震えているのに気づく。卑弥呼という巨大な存在がこの世界から消え去ってから、周囲の人間が向けてくる視線は、ただの少女であったはずの彼女をじわじわと侵食していた。期待と、疑心と、そして得体の知れない恐怖。それらが混ざり合った視線を浴びるたび、台与の心は、まるで行き場を失って暗い部屋をさまよう迷子のように、心細さで震えるのだった。
「台与様、お召し替えの準備が整いました」
侍女の低い声が、静まり返った部屋に響いた。その声に弾かれたように、台与は小さく息を吐き出す。
台与の目の前に広げられたのは、真新しい絹の衣服だった。茜の根で鮮やかに染め上げられた、燃えるような緋色の裳と、雪のように白い上衣。その布地に触れると、指先にひんやりとした絹独特の滑らかさが伝わると同時に、繭から紡がれたばかりのような、わずかに青臭い生糸の匂いが鼻腔をくすぐった。これまでは地味な麻の衣ばかりを着ていた台与にとって、この艶やかな絹の重みは、そのまま「女王」という名の目に見えない鎖の重さのように感じられた。
「…綺麗ね。でも、なんだか私ではないみたい」
台与は、目の前にある衣装をじっと見つめながら、ぽつりと呟いた。
「何をおっしゃいますか。これからは、あなたがこの国の光となるのです。皆、あなたのそのお姿を待っております」
侍女は表情を変えずに淡々と答え、台与の体に衣服を巻き付けていく。帯が胸の下で強く締め上げられるたび、台与は呼吸が浅くなるのを感じた。苦しいのは物理的な締め付けのせいだけではない。自分の意志とは関係なく、周囲が自分を「特別な存在」へと仕立て上げていくことへの、言いようのない息苦しさがあった。
お召し替えが終わると、部屋の隅に置かれた大きな高坏に、食事が運ばれてきた。
運ばれてきたのは、新米を丸く蒸しあげた粢と、近くの川で獲れたばかりの鮎の塩焼き、そして若菜をあしらった澄んだ吸い物だった。香ばしい川魚の焦げた匂いと、湯気とともに立ち上る米の甘い香りが部屋を満たす。しかし、台与の胃の腑は、まるで硬い石でも詰め込まれたかのようにきつく収縮していて、食欲など微塵も湧かなかった。
「少しでもお口になさってください。これから長丁場の儀式が始まります。お体が持ちませぬ」
そう促され、台与は気が進まないまま、箸で鮎の身を少しだけ毟って口に運んだ。
舌の上に広がったのは、塩の強い塩辛さと、鮎の内臓が持つ独特の苦味だった。その苦味が喉の奥に張り付くようで、台与は思わず顔をしかめる。吸い物を一口すすると、昆布の出汁の温かさが喉を通り、ようやく強張っていた胸のあたりが少しだけ緩んだ。けれど、食べ物を飲み込むたびに、自分が生きるためにこの役割を受け入れようとしている現実を突きつけられるようで、胸の奥がちくちくと痛んだ。
食事を終え、いよいよ儀式の場へと向かう時間が近づく。
部屋の外からは、すでに集まり始めている民たちの、地鳴りのようなざわめきが聞こえていた。何千、何万という人間が、自分の言葉一つ、一挙手一投足に注目している。その事実を想像するだけで、台与の肌には粟が立ち、冷たい汗が背中を伝い落ちた。
「怖いのですか」
背後から、低く落ち着いた声がした。台与が振り返ると、そこには一人の老臣が佇んでいた。かつて卑弥呼を近くで支え、今は台与の後見人となっている男だ。彼の目は、すべてを見透かすように鋭く、それでいてどこか慈悲深い光を湛えていた。
「…はい。怖くて、足がすくんでしまいそうなのです。あの鏡の前に立つとき、私は本当に、神の声を聞くことができるのでしょうか。もし、何も聞こえなかったら。もし、私がただの騙し屋だと見破られたら、この国はどうなってしまうのでしょう」
台与は、胸に手を当てて、堰を切ったように本音を吐露した。緋色の衣の袖が、彼女の震えに合わせて細かく揺れる。
「台与様、神の声とは、空から降ってくる雷のようなものではございませぬ。それは、あなたの心の奥底にある、民を想う優しさと、この国を平穏に導きたいという強い願いそのものです。あなたが鏡に向き合うとき、そこに映るのは神ではなく、あなた自身の覚悟でございます」
老臣は、台与の前に静かに膝をつき、その濁りのない目で彼女を見上げた。
「私の、覚悟…」
台与はその言葉を、口の中で何度も反芻した。
窓から差し込む朝の光が、彼女の着ている緋色の衣をいっそう鮮やかに照らし出す。その眩しさに目を細めながら、台与は深呼吸をした。冷たい朝の空気が肺を満たし、少しだけ頭が冴えていく。
自分のなかの恐怖が完全に消え去ったわけではない。むしろ、恐怖はさらに大きく膨らんでいる。けれど、その恐怖から逃げ出すことはできないのだと、彼女は悟っていた。卑弥呼が残したこの国を、争いの渦に引き戻してはならない。そのためなら、自分という存在がどれほど小さくとも、この緋色の衣に身を包み、女王としての仮面を被ってみせよう。
「行きましょう。皆が待っています」
台与は、自分の声が先ほどよりも低く、力強くなっていることに驚いた。
彼女はゆっくりと歩き出す。一歩進むごとに、絹の擦れ合う衣擦れの音が、静かな部屋にさらさらと響いた。その音はまるで、彼女の新しい運命の始まりを告げる、微かな拍手のようだった。




