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春を待つ少女 台与(とよ)

春を待つ少女


台与は、人の泣き顔を見るのが嫌いだった。


それは優しいからではない。


誰かが泣くたびに、自分の胸の奥まで痛くなるからだった。


その日もそうだった。


宮殿の廊下を歩いていると、女官たちがひそひそと話している声が聞こえた。


「また争いが起きたそうですよ」


「西の豪族たちが従わないとか」


「卑弥呼様がお隠れになってから、国中が落ち着きませんね」


声は小さかったが、台与の耳にははっきり届いた。


少女は立ち止まった。


木造の回廊の隙間から春の風が吹き込んでいる。


まだ冷たい風だった。


庭の梅は咲き始めているのに、人々の心は冬のままだった。


台与はそっと息を吐いた。


十三歳。


まだ子供だった。


けれど周囲はそう思っていない。


卑弥呼亡き後の倭国を救う存在として見ている。


それが苦しかった。


「私は、ただの娘なのに……」


小さく呟く。


誰にも聞こえないはずだった。


「その顔は良くないな」


突然声がした。


振り返ると、白髪の老臣が立っていた。


長年卑弥呼に仕えてきた男だった。


「また難しい顔をしておりますな」


「だって」


台与は俯く。


「皆が私に期待しているのです」


「それは悪いことですかな」


「怖いんです」


その言葉は自然にこぼれた。


老臣は驚いた顔をした。


台与は続ける。


「もし失敗したらどうしようと思うんです」


「皆をがっかりさせたら」


「国が滅んでしまったら」


春風が吹いた。


梅の香りが運ばれてくる。


老臣はしばらく黙っていた。


やがて優しく笑う。


「台与様」


「はい」


「皆が期待しているのは、完璧だからではありません」


「え?」


「優しいからです」


台与は目を瞬いた。


理解できなかった。


老臣は続ける。


「人の痛みを知る方だからです」


「それだけで十分ですよ」


少女は返事ができなかった。


胸の奥が少しだけ温かくなった。


その日の夕餉は宮殿の奥の広間だった。


低い机の上には粟飯。


鯛の塩焼き。


山芋。


菜の花のおひたし。


貝の汁物。


湯気が立ち上り、香ばしい匂いが漂う。


だが豪族たちの顔は険しかった。


会議が始まる。


「南の国境が不穏です」


「東の豪族が独立を口にしています」


「兵を出すべきです」


「いや、まず使者を送るべきだ」


意見が飛び交う。


空気は重い。


誰も笑っていない。


台与は黙って聞いていた。


やがて一人の武人が立ち上がった。


日に焼けた顔。


傷だらけの腕。


戦場を知る男だった。


「姫様」


「はい」


「どうお考えですか」


広間が静まり返る。


全員の視線が集まった。


台与の心臓が跳ねた。


怖い。


逃げ出したい。


でも。


彼女はゆっくり顔を上げた。


「私は」


声が震える。


それでも続けた。


「誰も死んでほしくありません」


武人たちは顔を見合わせた。


台与はさらに言う。


「戦えば、勝っても負けても誰かが悲しみます」


「だから、まず話し合いたいです」


沈黙が落ちた。


老臣が静かに頷く。


「よろしいかと思います」


「まず使者を送りましょう」


他の豪族たちも次々と賛同した。


気づけば反対する者はいなくなっていた。


会議が終わる頃には、張り詰めていた空気が少し和らいでいた。


その夜。


台与は一人で庭を歩いた。


月が美しい。


池の水面に銀色の光が揺れている。


遠くで蛙が鳴いていた。


まだ少し早い春の夜だった。


「眠れないのですか」


声がした。


振り返ると若い女官が立っている。


「少しだけ」


台与は微笑んだ。


女官は手に籠を持っていた。


中には夜食が入っている。


蒸した栗。


団子。


蜂蜜をかけた木の実。


「お腹が空くと眠れませんから」


「ありがとう」


二人は縁側に腰を下ろした。


月を見ながら栗を食べる。


ほくほくして甘い。


どこか懐かしい味だった。


「姫様は優しいですね」


女官が言った。


台与は首を振る。


「そんなことないわ」


「あります」


「ありません」


「あります」


思わず二人で笑った。


その笑い声が夜の庭に広がる。


久しぶりだった。


こんなふうに笑ったのは。


女官は空を見上げた。


「卑弥呼様もきっと見守っておられます」


台与も空を見た。


満月が輝いている。


遠い昔から変わらない月。


卑弥呼も見た月。


父も母も見た月。


そして今、自分も見ている。


不思議な気持ちになった。


自分一人ではない。


多くの人が支えてくれている。


だから少しずつ進めばいい。


完璧でなくても。


怖くても。


泣きたくても。


明日は来る。


春も来る。


台与は夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。


花の香りがした。


新しい季節の香りだった。


その香りに包まれながら、少女は静かに願う。


戦のない国になりますように。


誰も泣かない国になりますように。


そしていつの日か、人々が心から笑える春が訪れますようにと。


月は黙って輝いていた。


まるでその願いを聞いているかのように。



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