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八岐大蛇の生贄――櫛稲田姫命、涙の河に浮かぶ花

八岐大蛇の生贄――櫛稲田姫命、涙の河に浮かぶ花


胸の奥が、ぎりぎりと鳴るように痛かった。

恐怖という名の冷たい水が、足元からじわじわと這い上がり、心臓を凍らせていく。

明日の今頃には、私はこの世にいない。

その冷徹な事実が、櫛稲田姫の全身を、容赦のない震えで支配していた。

ただ生きていたい、それだけを願うことが、どうしてこれほどまでに罪深く、叶わぬことなのだろうか。


「稲田姫、せめてこれを召し上がりなさい」

母の、葦那豆地あしなづちの声が震えていた。

差し出されたのは、土鍋でじっくりと炊き上げられたひえと山芋の粥。

湯気とともに、ほのかに甘い米糠のような香りが鼻腔をくすぐる。

いつもなら、胃の腑を温めてくれる優しい匂い。

けれど今の稲田姫にとっては、まるで己の葬列に供えられた香のようにしか感じられなかった。

木匙で掬い、そっと唇に触れさせる。

どろりとした粥は、驚くほど味がしなかった。

舌が死んでしまったかのように、ただ熱い塊が喉を通り過ぎていくだけだ。

喉の奥が狭まり、一口を飲み込むのすら、まるで小石を飲み込むような苦痛を伴った。


「母上、申し訳ありません。

喉を通りませぬ」

稲田姫は匙を置き、うつむいた。

涙が一滴、粥の表面に落ちて小さな輪を描いた。


「無理をさせてすまぬ。

すまぬな、稲田姫。

お前を、八人の娘の中で、最後の一人まで守ってやれぬとは……」

父の手名椎てなづちが、床に拳を打ち付け、声を殺して泣き崩れた。

部屋を優しく照らしているはずの、油灯の薄黄色の光が、今はひどく恨めしい。

夜の闇がすぐそこまで迫っていることを、否応なしに突きつけてくるからだ。


稲田姫は、己の身を包む着物の袖をぎゅっと握りしめた。

それは、母がこの日のためにと、麻の糸を丹念に紡いで染め上げた、鮮やかな茜色の小袖だった。

夕焼けの空のような、命の輝きを象徴するような美しい赤。

けれど、指先に触れる麻の生地は、どこまでもざらざらと硬く、彼女の肌に容赦のない現実の冷たさを伝えてくる。

この美しい衣服も、明日の朝には大蛇の血で汚れ、引き裂かれてしまうのだろうか。

外からは、夜風が木々を揺らす、ざわざわという不穏な音が聞こえてくる。

それがまるで、怪物の飢えた足音のように聞こえて、稲田姫は思わず耳を塞いだ。


「あの禍々しい息の臭いが、今も鼻の奥に残っております。

お姉様方が連れ去られたときの、あの、血と腐った泥の混ざったような臭いが」

稲田姫は、恐怖に歯の根を合わないまま、絞り出すように言った。


「神よ、我が祖神よ、何故これほどまでに過酷な試練を我らに与えるのですか」

手名椎が天を仰ぎ、声を荒らげる。

しかし、茅葺きの天井からは、何の答えも降ってこない。


そのときだった。

じっとりとした夜の空気を切り裂くように、力強い、しかしどこか異質な足音が近付いてきた。

ずしり、ずしりと、大地を踏みしめる音が床を伝って稲田姫の身体を揺らす。

両親が息を呑み、稲田姫は恐怖のあまり身を縮こまらせた。

大蛇が、約束の時間を待たずにやってきたのではないか。

そう思った瞬間、荒々しく戸が押し開けられた。


流れ込んできたのは、夜の冷気と、それまでに嗅いだことのない、強烈な潮の香りと野獣のような荒々しい匂い。

そこに立っていたのは、ぼさぼさと伸びた髪に、異国の風を帯びた青い衣を纏った、体躯の大きな男だった。

洞察力のある瞳が、部屋の中を鋭い眼光で射抜く。


「ここで泣き喚いているのは、誰だ」

男の声は、低く、地鳴りのように響いた。

手名椎が慌てて平伏し、来訪者の正体を尋ねる。

男は自らを、高天原を追われた神、須佐之男命すさのおのみことと名乗った。


須佐之男の視線が、部屋の隅で震える稲田姫に留まった。

稲田姫は、その強い眼差しに射すくめられ、息をすることさえ忘れてしまった。

彼の体からは、みなぎるような熱気と、圧倒的な生命の力が放たれている。

それは、死を待つだけのこの家に、あまりにも不釣り合いな、燃えるような輝きだった。


「お前が、次に大蛇に差し出されるという娘か」

須佐之男が、稲田姫の前に歩み寄り、屈み込んだ。

間近で見る彼の顔には、数々の戦い、あるいは放浪の旅で刻まれたのであろう、無数の微小な傷跡があった。

しかし、その瞳は驚くほどに澄んでおり、奥底に激しい怒りと、それ以上の深い慈悲を宿しているように見えた。


「はい……。

櫛稲田姫と申します。

私は、もう、生きて明日を迎えることは叶わぬと、諦めておりました」

稲田姫は、不思議と、先ほどまでの震えが少しだけ収まるのを感じていた。

この男の放つ熱が、己の凍りついた心を、わずかに溶かし始めている。


「諦めるな。

お前のその美しい髪も、茜色の衣も、大蛇の泥に汚させるわけにはいかん。

俺がお前を救ってやる」

須佐之男の言葉は、尊大ではあったが、不思議な説得力を持っていた。

彼の大きな、節くれ立った手が、稲田姫の頬に触れた。

その手は驚くほど熱く、そして硬かった。

多くの命を奪い、あるいは守ってきた、戦士の手だ。


「本当に……本当に、あの怪物を倒せるのですか。

山を越え、谷を埋めるほどの大きさの、あの八岐大蛇を」

母の葦那豆地が、縋るように問いかける。


「倒すのではない。

お前たちを守るために、俺が奴を切り裂いてやるのだ。

ただし、条件がある」

須佐之男は、稲田姫を真っ直ぐに見つめ返した。


「条件、とは何でしょうか」

稲田姫は、乾いた声で尋ねた。

己の命が助かるのであれば、どんな代償でも支払う覚悟はできていた。


「大蛇を退治した暁には、この娘を俺の妻として差し出せ。

それが条件だ」

須佐之男の宣言に、部屋の中が静まり返った。

外の虫の音が、急に大きく聞こえる。

妻に。

その言葉が、稲田姫の耳の中で何度も反響した。

大蛇に喰われて消えるはずだった我が身が、この見知らぬ、嵐のような神の妻になる。

それは、死の恐怖から一転して、未知の運命へと放り出されるような、激しい心の揺らぎを伴うものだった。

しかし、その胸に湧き上がったのは、嫌悪ではなかった。

彼の持つ圧倒的な温もりと、生への執着が、彼女の眠っていた生命力を呼び覚ましていた。


「もし、あなたが本当に私を、そして我が父母を救ってくださるのなら……。

私は喜んで、あなた様の妻となります」

稲田姫は、しっかりと須佐之男の目を視線で見つめ、答えた。

その声は、もう震えていなかった。


「よし、約束は成った。

手名椎、葦那豆地よ、すぐに準備に取りかかるぞ。

何度も繰り返して精した、強い酒を用意しろ。

垣根を巡らせ、八つの門を作り、そこに酒を満たした樽を置くのだ」

須佐之男は立ち上がり、テキパキと指示を出し始めた。

彼の背中を見つめながら、稲田姫は、自分の運命が大きく動き出したのを、肌で、匂いで、音で、確かに感じていた。


夜が更けるにつれ、家の中は慌ただしくなった。

強い酒の、鼻を突くような発酵した甘酸っぱい匂いが、部屋いっぱいに広がる。

それは、死の匂いを消し去るような、力強い生の匂いだった。

須佐之男は、稲田姫の側へ寄ると、彼女の髪に手を触れた。


「少しの間、不自由を強いるぞ」

そう言うと、彼は呪術を唱え、稲田姫の身体を、一つの小さな、目の粗い、しかし美しい爪櫛つめくしへと変えてしまった。

衣服も、肉体も、すべてが小さな木製の櫛へと凝縮される。

稲田姫の意識は、その櫛の中にあった。

視界は失われたが、感覚は研ぎ澄まされていた。

須佐之男が、その櫛を己のみづら(髪を左右に結った部分)にそっと挿し込む。


彼の髪の毛の、頭皮の熱が、ダイレクトに伝わってくる。

彼が動くたびに、髪が擦れ合うカサカサという音が、脳裏に響く。

そして、彼が深く息を吸い、吐き出すたびに、その胸の鼓動が、髪を通じて稲田姫に伝わってきた。

ドクン、ドクン、と、力強く規則正しい鼓動。

それは、これまでに感じた何よりも、稲田姫を安心させる音だった。

私は生きている。

この方の髪の中で、確かに守られている。


「行くぞ、櫛稲田姫。

奴の気配が近付いてきた」

須佐之男の低い声が、骨を通じて響く。

外の空気が、急激に冷え込んでいくのが分かった。

あの、お姉様方を奪っていった、忌まわしい泥と血の臭いが、風に乗って漂ってくる。

大地が、怒号のような地鳴りを立てて震え始めた。

八岐大蛇が、やってきたのだ。


しかし、稲田姫の心に、先ほどまでの絶望的な恐怖はなかった。

あるのは、須佐之男の熱い体温と、彼と共にこの苦難を乗り越えるのだという、静かな、しかし確固たる決意だけだった。

闇の向こうから聞こえる怪物の咆哮を、稲田姫は、須佐之男の髪の中で、じっと息を潜めて聞き続けていた。



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