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稲穂の香る娘 櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)

稲穂の香る娘


櫛稲田姫は、自分が愛されていることを知っていた。


父の足名椎あしなづちも、母の手名椎てなづちも、姫のことを心から大切にしてくれている。だからこそ、その優しさが時に苦しかった。


秋の夕暮れだった。


山々は赤く染まり、黄金色に実った稲穂が風に揺れている。稲の甘い香りが里じゅうに広がり、空には帰りを急ぐ鳥たちの群れが飛んでいた。


櫛稲田姫は田んぼのあぜ道に立ち、その景色を見つめていた。


淡い若草色の小袖に、白い麻の帯。長い黒髪には小さな野菊を挿している。


美しい娘だった。


けれど、その瞳には深い悲しみが宿っていた。


「姫様、ここにいらしたのですね」


声をかけてきたのは母だった。


籠の中には炊きたての栗ご飯のおにぎりと、山菜の煮物が入っている。


「夕餉の前に少し食べませんか」


「ありがとう、お母様」


姫は微笑んだ。


だが、その笑顔はどこか寂しい。


母は娘の顔を見るなり、泣きそうな表情になった。


「そんな顔をしないでおくれ」


「お母様……」


二人の間に沈黙が落ちる。


遠くで虫が鳴いていた。


風が吹くたび、稲穂がさらさらと波のように揺れる。


その音はまるで誰かのすすり泣きのようだった。


櫛稲田姫には八人の姉がいた。


だが今は誰もいない。


毎年。


毎年。


八岐大蛇やまたのおろちがやって来る。


巨大な蛇の怪物は娘を一人ずつ奪い、食らっていった。


そして今年。


最後に残ったのが櫛稲田姫だった。


「怖いですか」


母が震える声で尋ねた。


姫はしばらく考えた。


怖くないわけがない。


夜になると眠れなくなる。


風の音を聞くだけで体が震える。


けれど。


「少しだけです」


そう答えた。


「本当は、お父様とお母様の方が心配なんです」


母はとうとう涙をこぼした。


「どうしてそんなことを言うの」


「だって、私はいなくなっても終わりです。でも、お二人は残ってしまうでしょう」


母は娘を抱き締めた。


温かかった。


長年、田畑を耕してきた手の感触があった。


櫛稲田姫は目を閉じる。


この温もりを失うのが怖かった。


死ぬことよりも。


大好きな人たちと別れることの方がずっと怖かった。


その夜。


家族三人で夕餉を囲んだ。


栗ご飯。


川魚の塩焼き。


里芋の煮物。


大根の味噌汁。


いつもと同じ献立だった。


けれど誰も味を感じていなかった。


父は無理に明るく振る舞う。


「今年の稲は出来がいいぞ」


「そうですね」


「祭りの酒も旨くなる」


「ええ」


会話は続かない。


箸の音だけが響く。


やがて父が俯いた。


肩が震えている。


櫛稲田姫は初めて見た。


大きな背中を持つ父が泣く姿を。


「すまん……」


父は絞り出すように言った。


「守れなくてすまん」


姫の胸が締め付けられた。


自分が死ぬことよりも。


父が自分を責めていることが苦しかった。


「お父様」


姫はそっと父の手を握った。


「私は幸せでした」


「姫……」


「お父様とお母様の娘になれて、本当に幸せでした」


父は顔を覆って泣いた。


母も泣いた。


櫛稲田姫も泣いた。


囲炉裏の火が揺れている。


味噌汁の湯気が立ち上る。


その温かな食卓の光景を、姫は一生忘れないだろうと思った。


翌朝。


空は青く晴れていた。


皮肉なほど美しい朝だった。


山の緑は鮮やかで、小川の水は透き通り、鳥たちは楽しそうに歌っている。


世界は何も変わらない。


自分が消えても。


そう思うと少し寂しかった。


だがその時だった。


里の入口から叫び声が聞こえた。


人々がざわめいている。


誰かが駆けてきた。


「大変だ!」


「旅の神様のようなお方が来られたぞ!」


父と母が顔を見合わせる。


櫛稲田姫も立ち上がった。


土埃の向こうから、一人の若者が歩いてくる。


肩まで届く黒髪。


鋭くも優しい瞳。


旅装束をまとい、腰には剣を差していた。


若者は泣いている足名椎と手名椎を見て足を止める。


「どうして泣いている」


その声は不思議と温かかった。


父は事情を話した。


八人の娘を失ったこと。


最後に残った姫も今日奪われること。


すべてを。


若者は静かに聞いていた。


やがて櫛稲田姫へ視線を向ける。


その瞬間だった。


姫の胸の奥で何かが揺れた。


恐怖に覆われていた心に、小さな灯火がともる。


若者は言った。


「その娘を私にくれるなら」


一呼吸置く。


風が吹いた。


黄金色の稲穂が揺れる。


「私が大蛇を退治しよう」


櫛稲田姫は息を呑んだ。


信じられなかった。


誰も勝てなかった怪物だ。


それなのに。


目の前の若者は当然のように言っている。


若者の瞳には恐れがなかった。


そこにあったのは強さだった。


そして不思議な優しさだった。


初めてだった。


死ではなく。


未来を想像したのは。


もしかしたら生きられるかもしれない。


もう一度春を見られるかもしれない。


父と母と笑えるかもしれない。


若者は名乗った。


「私は須佐之男命すさのおのみこと


櫛稲田姫はその名を胸の中で繰り返した。


風が吹く。


稲穂が揺れる。


黄金色の海のような田畑の中で、少女は初めて希望というものを知ったのだった。



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