15 箱を閉じる
喉がつぶれるまで叫んで、叫んで、叫ぶことすらできずに呆然としていたあきらは、誰かに抱きしめられていた。
古い本の匂いがした。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
声は泣いていた。
「わたくしが、わたくしが悪いの。わたくしが家族との時間をかえりみなかったから、あの子をちゃんと育てることができなかったから。だから――」
あきらは、大切な思い出を失った陽作をただ見ていた。
「どうして」
「どうして、こんなことに? わたくしは、ずっと世界のために、秩序のために尽くしてきたのに。それに」
「なぜ、この子がこんな目に合わなければならない」
「わたくしは、これほど苦しまなければならない」
声は、あきらの頭を上滑りしていく。
「そうだわ」
「間違っている」
「秩序を守るために魔法使いが消費される。それこそが間違っている」
「そうだ。なぜ今まで気が付かなかった。なぜわたくしたちのような魔法使いが、こんな目に合わなくてはいけない」
「幸福を、手放さなくてはいけない」
あは。
声が嗤う。
あははっ。
あははははははっ!
壊れた少女を抱きしめたまま、時季子は嗤い続けた。
「やり直すのよ。こんなのは、間違っている。わたくしたちは、幸せにならないといけないの。誰を代償にしてでも! 絶対に!」
夏の終わり、満ちた月の下で起きた出来事。
二人の平凡な魔法使いが死に、一人の少年が記憶を失ったこと。
一人の少女が優秀な魔法使いになり、一人の優秀な魔法使いが呪術師になったこと。
呪術師の瞳から、一粒の涙がこぼれた。
*
*
*
*
――冷たく、暗い世界を私は生きている。
彼を失って、時が過ぎて、私は優秀な魔法使いとして、日本中を飛び回り、呪術師を殺すようになった。
呪術師は、堕ちた魔法使いはいくらでもわいてくる。
老いた呪術師が『金が、欲しかった』と言った。
殺した。
若い呪術師が『天才のあいつが妬ましかった』と言った。
殺した。
幼い呪術師が『あたしのことを好きになってほしかったの』と言った。
殺した。
鏡を見ている。
〈結晶魔法〉。彼の記憶を代償にして手に入れた、最低最悪の魔法。
呪術は、他人の大事なものを代償にして行使される。
「なら、陽作の記憶を代償にした私も、呪術師と同じなんじゃないの?」
あの、醜い顔で笑っていた両親と、同じ。
憎い。呪術師が、憎い。呪術師と同じ私自身も、憎い。
呪術師を一人殺す度、私の心も死んでいく。
だって、初めて呪術師を殺した日。私はトイレで何度も吐いて、何日も眠れなくなった。二人目の時も同じ。
でも三人、四人と殺していくうちに、トイレで吐くことはなくなった。夜、ベッドでぐっすり眠れるようになった。
人は慣れる。私は正しい魔法使い。機械的に呪術師を殺し、機械的に犠牲者に祈りを捧げる。
手首を切って血を代償に捧げることにも慣れて、楽しかった記憶を捧げることにも慣れて、人を殺すことにも、慣れてしまった。何も感じなくなってしまった。
彼を失ってから、私は一度も泣いていない。
胸から伸びる糸は、うっすら残る彼とのつながり。冷たくて暗い世界の中で、ただ一つ温かいもの。
彼が生きている。
そう思うだけで、この冷たい世界を生きていける気がした。彼が初めてほめてくれた黒髪を大事にすることで、また彼の言葉を聞ける気がした。
糸を通じて、祈りを、彼に魔法の力を送り続けた。彼が健康に、せめて幸せな日々を送れますようにと。
いろんなことに慣れてしまった。でも、握りしめた手にあのぬくもりがないことだけは、まだ慣れない。
死にかけたことは何度もあった。
私が死ねば、彼が死んでしまう。分かっていてもなお、契約を終わらせることができないのは、きっとそのせい。
秋、呪術師を探す調査の中で、初々しい高校生のカップルを見た。二人は幸せそうに笑って、手をつないで歩いていた。
足が止まった。目を離すことができなくて、二人が見えなくなってから、私は自分の手のひらを眺めた。
空っぽの、手のひらを
冬、寒空の下、私は同い年の呪術師を追いつめていた。四肢を砕かれ、地面に這いつくばる彼のことを、私は昔から知っていた。
勤勉で、優しい魔法使いだった。
彼が呪術師になるなんて、思ってもみなかった。
だから聞いた。
「どうして呪術師になったんですか?」
呪術師はまっすぐ私を見つめて言った。
「幸せに、なりたかったんだ」
……殺した。
死体になった彼の前で、私は胃の中が空っぽになるまで吐いた。
それでも、私は立ち上がり、彼に背を向けて歩き出した。
春風が、私の髪をたなびかせる。
私は、魔法使いとしてあの町に帰ってきた。
夕焼けに照らされた公園は思い出よりも小さくて、おんぼろだった。
懐かしくて、胸が張り裂けそうなくらいに痛くて、でも涙はこぼれない。思い出すのは、彼と遊んだ黄金色の日々。ブランコに揺られて、ザリガニを釣って、野菜を盗んで、いっぱい遊んだ。
たくさんのお話をした。大きくなってしまった私には、もう入ることができないあのドームの中で。
「もう、いかないと」
呪術師を見つけて、殺さないと。
名残惜しさを押し殺して、公園から視線を外す。その道の先に、一人の青年が立っていた。
びっくりするほど背が高くて、びっくりするほどたくましい。
でも、一番びっくりしたのは。
彼は私に視線を合わせて、口を開く。
「きれいな、黒髪だな」
『きれいな、黒髪だな』
彼の姿が、10年前と重なった。
時間が、止まったかと思った。
あんまりにも、たくさんのものが変わってしまったのに。
「あんたが、コミュニティから来たっていう魔法使いか?」
「あ……え?」
返事ができなかった。言葉にできないたくさんの感情が、私の中で渦巻いていたから。
「あれ? 人違いか? ごめん。だったら全部忘れてくれると嬉しんだけど」
彼は困った様子で頭をかく。
それがまた、10年前、涙を流す私を前にしたときと同じ仕草で、胸の奥底が熱くなる。体が芯から震えて、隠すのが大変だった。
私にこんな感情があるなんて。もうとっくに擦り切れてしまっていったと思っていたのに。
「いえ。私が、コミュニティから派遣されてきた魔法使いです」
どうにか言葉を絞り出す。
「そっか。よかった」
優しく笑う。その表情もまた、昔と変わらない。
「あなたは」
こんなにも変わってしまった私に、あのときと同じぬくもりをくれるんだね。
「そういえば、名乗ってなかったな。俺は向井陽作だ。えぇと、〈断罪者〉っていう魔法使いの弟子をしていて、いや俺は魔法使いじゃないんだけど――そうだ」
彼は――陽作は、私に手を差し出して言った。
「初めまして」
差し出された手を見て、私の胸は張り裂けるくらいに痛んだ。
私は全てを覚えていて、あなたは全てを忘れてしまった。
私が、奪ってしまったから。
熱くなったはずの胸が、凍えて、冷たくなっていく。
――違うでしょう?
「初めまして」
私は、陽作の手を取った。横から寄り添うのではなく、正面から握手をする形で。
「私は、重日あきらと言います」
10年ぶりの彼の手は、私の知らない固さをしていた。私は陽作に微笑みかける。
優しくて悲しい音色をオルゴールは奏でる。擦り切れるほどに再生し続けた大切な思い出。ねじを巻き続ける限り、何度も、何度も音色は鳴り続ける。
その箱を、私は閉じる。
「これから、よろしくお願いします」
手が離れる。春の茜色の下で、私は陽作の隣を、数歩分の距離を開けて歩き出す。
でも、一つだけ。
「どうして、最初に私の黒髪のことを言ったんですか?」
それだけは、教えてほしかった。
「なんでか俺もわからないんだけどさ」
陽作は、「あー」と気まずそうな顔をして、どこか恥ずかしそうな顔で言った。
「それだけは絶対、言わなくちゃって、思ったんだよ」
涙が、こぼれた。
――これは、私の物語。私だけの、私しか知らない昔むかしの物語。
幼さの代償として、世界から消えてしまった幸福のお話。
遠い、追憶の夏の日。私とあなたは夏の太陽の下で、手をつないで笑っていた。
私は、あなたに恋をしていた。
『手をつないだあの夏を、私だけは覚えている』 終
ここまで読んでいただきありがとうございました。




