第32話 境界
ぶどう園を離れて、2日が過ぎていた。
夕暮れ時に一向は焚き火を囲んでいる。
馬車道沿いにあった絹布のような小川では、小さな魚が跳ねていた。
「川魚の煮込みも美味いな! 特にスープが美味い!」
カルランは自身の腹を叩くとニカっと笑う。
既に鍋の底は見えており、小さな香りが余韻を彩っていた。
続いてビリスも椀を置く。
「たまには野宿も良いものね〜。傷む前に野菜も使いきれたし〜」
そんな温和な雰囲気の中で、シヴァだけはソワソワと小刻みに足を揺らしていた。
そして、執拗に鼻を鳴らしている。
「シヴァちゃんよ〜。今は耳だけで充分だぜ〜」
砕けた口調でカルランが言うと、ワーウルフの瞳が彼に向く。
「わかってるけど、落ち着かない気持ちもわかるだろ?」
「いいや〜」
そう言って彼はチラッと川をみる。対岸には青々とした草花が風に靡き、夕陽を全身で浴びている。
しかし、穏やかな水流を境界に、こちら側では茶色が目立つ。草地は禿げて、その代わりと言わんばかりに、無数の馬蹄と靴の跡が凹凸を作っている。
「国境付近なんだぜ? 数百人規模の軍隊なんて、そこら辺にうろちょろしてるさ」
すると、食器を重ねながらネルが言う。
「だからこそ、解せないのは鳥人の行動です。空からなら容易く、軍隊の多さに気づくはず……」
ビリスは空の鍋を持って立ち上がる。
「愛のある行動には、思えないわね〜」
そのまま二人は川へと歩いて行ってしまった。
その背中を見つめながら、シヴァは些細な疑問をカルランに投げる。
「なぁ、どうしてエルフやドワーフは人間の枠に入らないんだ?」
シヴァは視線を彼に移すと、その顔をじっと見る。
「質問の意味がわからん」
瞼を上げるカルランを見て、シヴァはもう一度2人の背中に視線を移す。
「俺の目には些細な差しか無いように見えるよ」
すると、少し間を置いて兵士の気の抜けるようなため息がする。
「シヴァちゃんさ〜。それを絶対に2人には言うなよ〜」
「そうかもしれないと思って、まずカルランに聞いたんだよ」
突然、一陣の風が吹いた。
冷たく痛さを覚える突風だった。
にもかかわらず、周りの草木は揺れてはいない。焚き火に変化は見られない。
それでも、彼の毛だけが逆立っている。
「いいか、シヴァ」
そんな重い声色に、自然とワーウルフの目がカルランに向く。
彼の橙色の瞳がすわっている。影を思わせるように深みを帯びる。
「境ってのは自然にできたりしないんだよ。少なくとも俺は、この国境の向こうの奴らを人間だなんて思っていない」
その奥にあるのは憎しみと怒り。
だけじゃない、別の何かもシヴァは感じ取っていた。
拳を握りきれていない。心臓の鼓動が少し早い。
「線じゃないんだよ……。境なんだ……。言っている意味がわかるか?」
その問いにシヴァが答える前に、カルランは吹き出して笑いはじめた。
紐を解くように、彼の目が元に戻る。
「こんな風に、国境付近の人間は難しい。ぶどう園のおじさんみたいに単独での接触は禁止な」
「ああ、指示に従うよ」
シヴァはそう言うことしかできなかった。
夕陽が間もなく地平線に沈む。
その夜はとても静か。
だからこそ、人間の匂いが鼻に詰まる。




