最終話
「奥様に、お母様はお元気であるとお伝えください。いつも笑っておられる、素敵な方であると」
カンファーが屋敷の鉄柵を開けようとしたとき、ふと声を掛けられた。
振り返れば、若い護衛がいる。あの優秀な"右腕"だ。
そういえば母のことを聞いてやるとリジンと約束していた。あの珍事のせいですっかり忘れていた。なぜ報告をしてくれる気になったのかはわからないけれど、約束を破らずに済んで助かった。
「……わかった」
「お手紙、喜んでおられたそうです」
「わかった」
「では、失礼致します」
「わかった」
そこで思い留まって、もう一度、"右腕"を見た。
「いつもありがとう」
そういえば、これまで言ったことがなかった。
家族以外は皆、いつか裏切る信用ならない人間達で、自ら言葉を交わそうとはしてこなかった。
だが、彼は今日、カンファーの目を見た。
たったの数秒ではあったものの、交わされた視線には多くの情報があって、少なくともその目は、決して処刑人を厭う目ではなく、守るべき人に向けた輝きがあった。
礼を言わねばならない。
そう思えたのは、リジンに出会って人の気持ちを考えるようになったことも大きな要因だろう。そして、右腕と揶揄されるこの男がそうさせた。彼からは陽しか感じない。負の気配がまったくないからか、ふんわりとした白いクッションのように好感が得られた。
言うと、右腕は唇を震わせ、だが気を引き締めてカンファーの視線に応えた。
「ロイと申します。私が戦えなくなるその日まで、命を懸けてお守りいたします」
気持ちのいい青年に出会えた。もしも友人を作れるのだとしたら、彼ならば、そういう関係になれるかもしれない。
清々しい気持ちで家に入ると、ボルネオとリジンが待っていた。相も変わらずボルネオは気怠そうだが、リジンがいるから出迎えてやろうというついで感がありありとある。
兄はそういう人だからと思うと、自然と頬が緩んだ。
「おかえりなさい、カンファー様。お風呂は用意しておきました。お着替えも、タオルも」
「ありがとう、リジン。一緒に入る?」
「えっ……いえ、その、あの、えっと」
「冗談だよ」
困っているリジンを見ていると、胸がきゅっと鳴って抱き締めてしまいたくなる。そして、もっとからかいたくなる。そして、誰にも見せたくなくなる。
けれど、この血塗れの処刑人の服のままでは、それはできない。
法の執行者といえど、生き血を浴びるのはやはりそれなりに精神的に傷が付く。カンファーはこれまで、罪の代償に命を処刑するたびに、自分の人としての心が削られていると感じた。リジンはそれを溢れるほど満たしてくれる。
間違いではなかった。
一緒にいたいと、心が叫んでいたのだ。
そして、ずっと考えていたことを打ち明ける。
「ねえ、リジン」
「はい、なんでしょう」
「ぼく、子どもはいらない」
言うと、少し遠くにいたボルネオがさっと歩み寄ってきた。よもやリジンに傷付くようなことを言うのではないかと危惧をしたのだろう。リジンのすぐ後ろについて、カンファーに牽制の意味を込めた視線を向けてくる。しかもリジンの肩まで抱いている。なにかあれば、すぐに割って入ってくるつもりなのだろう。
それは兄としてなのだろうかと思いつつ、傷付けるつもりじゃないんだと、首を振ってから言った。
「ぼく、リジンが大好きだよ。でも、誰にも処刑人を継いでほしくないんだ。子どもになんて、尚更、継がせたくない。首の切り方や人の殺し方なんて、知ってほしくない。けれど、世間は処刑は処刑人一家が代々引き継いでいくことを重要視する。だから、子どもはいらない。
ぼくで終わらせる。
すべて、なにもかも、僕で終わらせる。それでもいい?」
リジンはほっと微笑んだ。胸を撫で下ろして、やはりまた笑う。
「素晴らしいお考えです。そうしましょう」
怒られなかった。泣かれなかった。鞭で打たれたり、熱湯を浴びせられたり。出来るまで同じことを何度も何度も何度も何度も何度も繰り返させられたり、しない。
そんなことは異常だったのだ。
そんなことは、あってはいけないのだ。
リジンが来てくれたから、気付けた。自分はあまりにも狭い世界にいすぎた。
ボルネオもほっとした顔をして、リジンの頭を使って頬杖をついた。なんだかふたりのほうが仲がいい気してムカつく。
「俺はてっきりリジンじゃあっちのほうが無理なのかと」
「し、し、しししし失礼な! そんなこと──……!! ……痩せたほうがいいんでしょうか」
しょんぼりした顔でリジンが言うと、ボルネオの目がぱちくりと瞬いた。
「は。はあ!? いや、そういう意味じゃねえよ、冗談だから! むしろ太れよ! つーかそのまんまでいいから!」
「そうですよね」
「は……? お前、人のからかいかたが上手くなったじゃねえか。あ?」
「え。怒ってます?」
「怒ってねえけど!!」
ふたりの笑い声が屋敷に響く。
ああ、明るい。
この屋敷は、こんなに明るくなったのか。
カンファーは身震いした。壁から天井、床から自分へと振動が伝わる。ふたりの声だ。ふたりの楽しそうな声が、幸せが、肌を震わせてくる。
「ずっと、3人でいられるよね」
これからずっと。この先も。なにがあっても。
消えてしまいそうな小さい声で呟くと、リジンとボルネオが大きく目を見開いて言った。
「当たり前じゃねえか!」
「もちろんです!」
もしかすれば友人も。
それまでは家族3人で楽しく過ごそう。
「掃除をしていたらトランプを見つけたんです。ブラックジャックやりましょう」
「なにそれ」
「俺もさっき教えてもらったんだ。暇潰しにいいぜ」
ほら、だから早く風呂に入って来いと、ふたりに背中を押される。「やめてよ、転んじゃうよ」と言いながら、カンファーは笑っていた。
そして泣いていた。
生まれて初めて、生まれてきてよかったと思った。
生まれて初めて、明日が楽しみになった。
◇◆◇◆◇◆
カンファーはその花を見下ろしていた。
道端に咲く花の名を、カンファーは知らない。家の影に咲いてしまった花はどこか茶色っぽく、元気がなくて萎れている。花はもっと、ピンッとしていて、パアッとしている想像だったのだけれど、どうも違うらしかった。
それとも単に元気がないだけなのだろうか。
どうすれば、元気になるのだろう。
わからないから、ただひたすら見下ろしている。
世界の喧騒はどこか遠くにあって、カンファーには、カンファーとその花だけがあった。
今なら間に合うかもしれない。元気になるかも。──今なら。
「なに見てるの?」
そこへ、ひょっこりと顔を出した子がいた。茶色の髪をひとまとめにした、綺麗な女の子だ。着古した淡い黄色のワンピースを着ているけれど、どこかに気品が漂う。
カンファーは驚いた。
誰とも話してはいけないと、新しい母と父に日々教え込まれているからだ。
今日は父の仕事の日だ。
いつかはカンファーがその仕事をするからと、見学するように言われて付いてきたのだ。今は父の帰り支度を待っている。そんなところに、話してはいけないとする他人がきたから、カンファーは反射的に逃げてしまおうと踵を返した。
「あ、お花?」
その言葉に、足を止めてしまう。
振り返ると、女の子は花を指差してカンファーを見ていた。
「ここだと暗いから、元気がなくなっちゃうんだよ。明るいところで、お水をあげればすぐに元気になるよ」
明るいところ。
そんなものは、新しい家にはない。持って帰っても、きっと駄目にしてしまう。欲しがっては駄目だ。
帰ろう。
足を出そうとすると、やっぱり女の子の声がカンファーを引き留める。
「急いでるの? じゃあ、私がやっといてあげる! きっと明日には元気になってるよ!」
本当だろうか。
ただそれだけで、花はピンッとして、パアッとするのだろうか。振り返りたくなる衝動と、他者と関わってはならないという葛藤が幼いカンファーを戸惑わせる。
(花が咲くところ、見てたい。ピンッと、パアッと)
女の子に、また来週の水曜日、ここにくることを伝えて待っててもらおう。そうしたら、花が生き返るところを見られる気がする。
そうしたら、まだ間に合う気がする。
「カンファー、帰るぞ」
びくっとした。
新しい父が黒装束のまま、たくさんの騎士に囲まれているところだった。父に駆け寄りながら、ちらりと視界の端で女の子を見やる。土を掘り返しているのがわかった。
とうとう、カンファーは振り返った。
「大丈夫、すぐに元気になるよ。男の子に気付いてもらって、よかったね」
花に向けたその微笑みが、衝撃的だった。
カンファーの新しい家では、誰も、あんなふうに笑わない。
美しい。
いつか、あの笑顔といられるだろうか。
カンファーは父の馬に飛び乗った。
「あの子どもはなんだ? 話をしたのか?」
「……してない。にげて、きた」
「えらいぞ。世の中、全員、誰も信用ならないんだ。お前は一流の処刑人にならないといけない。話しかけるのも躊躇されるくらいの処刑人になるんだ。わかるな?」
「わかる」
まだ、間に合うだろうか。
あの女の子の手で、間に合うだろうか。
カンファーはもう振り返らなかった。
次の水曜日、花がピンッとしてパアッと咲いているのを見付けた。屋根のないところで、太陽の光が存分に当たっている。
(よかった……間に合ったんだ……)
持って帰らなくて、よかった。
(ぼくが持って帰るなんて、いけないことなんだ)
カンファーは返り血のついた頬を拭って、父のもとへ駆け戻って行った。
これは、ふたりが掌を合わせるよりも、ずっと前の話。
了




