第31話
今日が水曜日であると、自分のどの部分が覚えているのだろう。自然と目が覚めると、洗面台の鏡に向かって目元を黒く塗り始めている。そうして、遅れて覚醒した頭が今日は水曜日なのだと知る。この10年間、ただの一度もその感覚は狂ったことがなかった。
部屋を出る前に、ベッドで眠るリジンを見つめる。
絞った火の光にぼんやりと照らし出されるリジンの頬には、カンファーが誤ってつけてしまった傷があった。
そっと撫でると、くすぐったそうに寝返りをうつリジンを抱き締めたくなる。ぎゅうぎゅうと抱き締めて、そして抱きしめ返して欲しくなる。でも、そんなことをしてしまうとリジンが起きてしまうから我慢をした。
いつかリジンも、水曜日に目が覚めるようになるのだろうか。
リジンが認識するよりも先に、リジンの体が水曜日だと気付いて死者が蘇るように動き出してしまうのだろうか。
「……ごめんね」
自分は、なにを謝ったのか。
傷を付けてしまったことか。
いつかくるかもしれない水曜日の知覚のことか。
一緒にいたいと望んでしまったことか。
だが、何度謝っても手放せる気はしない。
ふと、視線を感じた。ボルネオだった。眠気眼と目が合うと、彼もやはり、遅れて水曜日を知ったようだ。瞳の奥に同情のような、謝罪のような、そんな色が浮かんだのが見えた。
そう。今日は水曜日。
水曜日なのだ。
カンファーが装束に着替えて家を出るとき、リジンとボルネオのふたりが見送ってくれた。ボルネオがリジンを起こしてくれたのだろう。そんなことはしなくていいのに、とも思うし、ふたりの姿を見られて安心する、とも思う。
寝間着姿にカーディガンを羽織ったボルネオは、リジンが買ってきた薬でだいぶ改善してきたものの、まだ咳が残っているのと顔色が悪いのとで本調子ではなさそうだった。水のように薄めたスープばかりを飲んでいたから、この一週間ですっかり痩せてしまった。もちろん、リジンの傷だけでなく兄の症状も自分のせいであると、罪悪感を覚える。
ただ、なにかあったとき、こんな体調であっても兄ならば絶対にリジンを守り抜いてくれるだろうと信頼を置いている。
戦い、勝たなくても構わない。
どこかに逃げて、隠れて、息を潜めて、生き延びてくれる術を駆使して、守り抜いてくれればいい。
そうしたらぼくが行く。
カンファーが外に出ると、強い風が装束をぶわりと膨らませた。
快晴である。
屋敷中を覆う金網がなければ、さぞや空は青いだろう。なにもない青を見たのは、いつだったか。思い出せない。
鉄柵の向こうに『処刑人の右腕』と呼ばれる護衛が既に待っていた。
明るい橙赤色の髪に、引き締まった表情。全方位に警戒の意識を向ける護衛の名をカンファーは知らない。ずっと前に聞いた気がするのだけれど、名前は重要ではないと覚えようとしなかった。
「本日もよろしくお願いします。全力でお守りいたします」
「……? ああ、よろしく」
彼が話し掛けてくるのは珍しかった。いつもは無言で先導してくれるだけだった。なにか契機があったのかもしれないが、敢えて聞かなくてもいいだろう。帰りにでもリジンの母のことを聞けばいい。
処刑場は人が多くいる。
処刑されるのが女だったりすると、その集客力は目を見張るものがあった。集まる人の大抵は、処刑される囚人の親族や友人など、関係者が見届ける。他にも囚人による罪の被害者だったり、恨みを持つものだったりが処刑を見てやろうじゃないかと集まる。そして暇人が寄ってくる。だから処刑場には、常に人が多くいた。
今日も例外ではなかった。
カンファーが処刑台に登壇すると、ヤジが飛ぶ。早く殺せだの、早くしろだの、早くやれだの。とにかく皆は人の死を急かす傾向にあった。
けれど、なぜか首を斬るその瞬間は無音になる。
何人、何十人とその場にいようとも、その瞬間だけは静寂以外に許されていないみたいに音が途切れるのだ。
今日も今日とて衆人から見守られながらの仕事を終え、拘束具から、頭のない体を放す。遺体の回収まではカンファーの仕事ではないのだ。だからこの遺体がどこでどうやって葬られるのかはわからない。
普段なら、血に濡れた刃を拭いて背負い、帰宅をする。
──だが、今日は風が吹いた。
その風が乗せてきたものは、カンファーの習慣を途絶えさせた。
ふわりと、一瞬だけ鼻腔に触れて消え去っていく香り。
──この、香りは
動かない遺体を片手に持ったまま、おもむろに顔を上げる。
そして、じっくりと衆人達を見回した。
観客の中にリジンの母親がいないことは、登壇する前にはもうわかっていた。彼女はとても特徴的な顔をしていたから、見分けはすぐにつく。今日はいなかった。
そうではない。
カンファーが探しているのは、この香りの持ち主だ。
衆人達は、いつもと違うカンファーの動きに「お?」と意識を向けた。楽しみを終えて放心状態に近かった彼らは、帰ろうとする足を止めてカンファーを見上げる。まだショーの続きがあるのかと、目が爛々と輝き出した。カンファーは、その輝きほど醜い光はないと思っている。
ごとりと遺体をそこに置き、軽やかに処刑台から飛び降りる。
処刑台からでは匂いの源を辿るのが難しかったのだ。
自然と人がカンファーを避けた。
歩き進めると、さざなみのように人が道を作る。護衛の"右腕"が慌てて駆け寄ってくるのが視界の端に見えた。
きょろきょろ。
誰だ。
この香りの持ち主は誰なのだ。
柄を握り直すと、巻き付けている革がぎしぎしと軋んだ。そんなに掴んでくれるなという意味だ。
また風が吹いた。
それが決定的だった。
水曜日と同じだ。頭が認識するよりも先に、体が勝手に動く。知らぬ間に、体が動く。
反射的に伸びた腕は、ひとりの女の首を鷲掴みにしていた。
フード付きのマントを頭から羽織って隠れていたつもりかもしれないが、香りだけは隠せていなかった。
女は目を剥いて、カンファーの瞳を見返してくる。
「おまえか」
リジンの罪を膨れ上がらせ、死の淵に立たせた悪女、モルファイン。お前か。お前だな。
ぎしぎしと、今度は女の首が鳴った。
女がえづく。おえっ、と口を大きく開けたあと、ようやく声を出した。
むしろ、よく声を上げたと感心さえした。喉を潰されているのに。男であってもパニックになって喋れないものはたくさんいる。
「なんなのよ、あんた!!」
「おやめください! 越権行為に当たります!!」
右腕が制止に入る。だが、それよりも先にカンファーがモルファインのマントを引っぺがした。
無意識に首の太さを確かめてやろうとしたのだ。マントを剥がされたモルファインは、これはこれは美しいドレスを身に着けていた。真紅のレースだらけのドレスだ。そして──
カラン、カラン──……。
落ちたのはネックレスでもイヤリングでも指輪でもない。敷き詰められた石畳に落ちたものは、なんなのか。誰もがそちらに目を向けた。
そこには宝石で華美なくらいに装飾された短剣が転がっている。しかも、鞘から抜かれ、刀身が剥き出しのものだ。
処刑場への武器の持ち込みは禁止されている。
"右腕"もその条文を思い出したのか、すべてを瞬時に察し、カンファーの強行を止めようとしていた腕をさっと降ろした。そして、邪魔にならぬようにと脇にどいた。
(いい判断だ)
カンファーは他人に対して、珍しくそう思った。
息を呑んだのは周囲にいた民間人だ。
処刑場に武器を持ち込む意味を理解している彼らは、モルファインの未来を察したらしかった。愚か者だと呆れるものもいたし、若い芽が摘み取られることに嘆くものもいただろう。だが、思い描く顛末は皆同じだ。鞘から抜いた刃物を持ち歩くなど、誰がどう見ても処刑人への襲撃である。あるいは、その準備的行為。
カンファーはモルファインの首を掴んだまま、仕留めた猪や熊をそうするみたいに処刑台へと歩き出した。ずるずると引きずられるモルファインは、足を懸命にバタつかせてみるけれど靴が脱げて裸足になっただけで、カンファーにとって反抗にもならない。顔の周りを飛ぶ蝿の鬱陶しさにさえ匹敵しない、ちっぽけな力だった。
「なんなの!? なんなの、あんた!! わたくしにこんなことしていいと思ってるわけ!? 公爵家のひとり娘のモルファインよ!?」
登壇したカンファーは、投げ捨てるようにしてモルファインを放った。そして間髪入れずに、暴れるモルファインの頭を拘束具で固定する。腕は、もはや構わない。
首さえ固定されていればいい。
1歩、2歩。間合いをとって振り返る。
俯くようにして動けないでいるモルファインの後頭部に言った。
「お前、処刑人の家に脅迫文を送り、刺客も送ったな」
「……なんのことよ。いいから外しなさいよ。こんなことが許されると思ってるの!? モルファインよ!? 公爵家のひとり娘よ!? パパに言いつけて、あんたなんかぶっ殺してもらうんだから!!」
あの女は馬鹿なのか?
誰しもがそんな感想を抱いて、他人同士だというのに互いに見合った。
殺してやる──処刑人に対する脅迫の現行犯だ。
カンファーは抑揚のない口調で続けた。
「処刑場への武器の持ち込みは、処刑人襲撃企図とみなされる。そして裁判所を経由せずとも、その場での処刑が許可されている」
「……は?」
「処刑人への脅迫は死罪」
「え?」
「処刑人一家への脅迫文の送付も死罪」
「うそ」
「処刑人一家へ刺客を送り付けることも死罪だ。知らなかったのか?」
一瞬、間が空いた。
そこからいきなり、モルファインが泣き叫び始めた。
拘束されていない手で木枠を押したり、引いたり、首の周りにある輪を引っ掻いてみたりして首を外そうとするも、頑丈に過ぎて叶わない。爪が何枚か剥がれて、木枠に突き刺さっただけだった。
モルファインの手が赤く染まっていく。
そうだとも、染まれ。
お前の手は、既に真っ赤なはずだ。ただ見えていなかっただけで。
「待って! 待ってよ!! 嘘でしょ!? 知らなかった、知らなかったのよ! もう二度としないから、許して! 約束するから! なんでもするから!」
「罪は罪だ。俺は法律に則って、妥当とされる刑を執行する」
「ふざけんじゃないわよ!! たかが一回、あのメイドに手紙を送り付けてやっただげじゃないの! あのホームレスだって、結局、メイドを殺し損ねてんだから死刑なんておかしいじゃないのよ!!」
「そんなことは知らない」
「はあ!?」
「法律を決めたのは貴族だ」
カンファーは大きな大きな剣を振り上げた。一度、既に他の首を斬ってしまったために、まだ血が刃についている。
振り上げると、その血が刃をつたって1滴、1滴と滴り落ちてきた。
空は青かった。
「なんだってするって言ってんでしょう!? 寝てあげたっていいわ!! 子どもも産んであげる!! お金もあげるから! 結婚してあげたっていいのよ!?」
がしゃがしゃと拘束具を揺らす音が、衆人には悲痛な叫びに聞こえたに違かった。
衆人達は固唾をのんで、一歩、あとずさる。
カンファーの雰囲気が一変したからだ。
あ、キレた。
全員の認識は一緒だった。
表情こそ巧みに隠されていて一切わからないが、処刑人がぶちギレたことだけは第六感で察したらしかった。
カンファーは囁いた。
「ぼくの妻は、リジン以外にありえない」
刃に反射した太陽の光が、切るべき項を一筋照らす。
ぎしぎしと柄が軋んだ。ぎしぎしと、耳障りなほどなにかがどこかで鳴っている。
真っ直ぐと首を切るその光を目掛けて、渾身の力を込めて刃を振り下ろした。
振り下ろされた剣は、カンファーの持ちうる実力のすべてを発揮した。
静まり返った処刑場に、悲鳴の余韻が轟く。
だが、それは悲鳴なのではなく、金属が骨を断ち切った残響だった。
◇◆◇◆◇◆
「大丈夫だから」
そう声がして、リジンはびくついて我に返った。ボルネオに頭を撫でられている。頭にあった掌がするりとおりてきて、頬を包み込む。その手は、儚い力だった。
「大丈夫だから、そんな顔すんな」
リジンは、自分がどんな顔をしているのかわからない。けれど、ボルネオがそう言うのだからひどい顔をしているのだろう。苦笑しながら、頬を包んでくれているボルネオの手に手を添える。
ふたりはベッドの上にいた。立っているのが辛いからと、ボルネオが横になりたがったのだ。けれど空腹で薬を飲むのもよくないだろうと思って、サンドイッチを持ってきて、枕を背凭れにしたボルネオが食べているのを見ているうちに、ぼーっとしていた。
カンファーは仕事中。
これから先、何回も何回も、リジンはこうしてカンファーを待たなければならない。
「カンファーが帰ってきたら、なにする?」
空になった皿をサイドテーブルに避けて、ボルネオが言う。今度は両手で頬を包んでくれた。だからリジンも、両手をそれぞれのボルネオの手に添えた。
「楽しいことしようぜ。げらげら笑えるやつ」
「まだ風邪が治ってないでしょう」
「だから動かないで遊べるの探そう。毎日、楽しいばっかりじゃいられねえ。水曜日は必ずくる。だから、そのぶん、あいつがいるときは思いきり楽しもうぜ。な?」
彼なりの優しさなのだとわかる。
彼がかつて乗り越えてきた水曜日のこの時間を、リジンも乗り越えられるように力を貸してくれているのだ。
リジンは泣き出しそうになるのを堪えて、笑った。
そうですね、と言いたいのに、言ったら泣いているとわかってしまうくらいに喉がひくついているから、うん、うん、とだけ頷いた。
するとボルネオはするりと背中に腕を回してくれて、抱き締めてくれた。子をあやすように、背をぽんぽんと軽く叩いてくれる。
「お前は俺の妹だ。絶対に、大丈夫だから」
うん、うん。
「俺は産まれたときから家族しか知らねえんだ。家族がすべてだ。だから、家族のためならなんでもする。リジンは家族になったんだから、俺が一緒に強くなってやるから、そんな顔すんなよ」
うん、うん。
私もきっと水曜日を繰り返して、強くなれるはず。リジンは涙を拭った。
「俺の服で拭くな!」
咎める声は、だが笑っていた。




