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第6章 権力の構造と、静かな覚悟

◆ 手書き勤怠表 ― 権力の象徴

冷却技術開発部署には、奇妙なルールがあった。


毎日、勤怠表を手書きで書き、

正社員からサインをもらわなければならない。


このルールが最悪なのは、

サインをする側が“権力者”になることだった。

入先災人は、わざと遅くサインする。

吉口は機嫌で態度を変える。


派遣社員は毎日「お願いします」と頭を下げる。

サインをもらえなければ、

その日の勤務は無効になる。


つまり――派遣の生活は、正社員に握られている。

これは完全な マウント構造。

派遣は「下」。 正社員は「上」。

加藤は勤怠表を差し出しながら、静かに思った。

(……この会社は、構造そのものが歪んでいる)


◆ ミーティングルーム4日間貸し切り ―

形だけのSolidWorks講習会


ミーティングルームは4日間まるごと貸し切りになり、

SolidWorksの講習会が開催された。

講師は代理店から派遣された2名。

参加者は正社員の入先、吉口、坂野、そして他3名。

派遣の加藤は当然呼ばれていない。


◆ 教育を受ける前から上機嫌の入先

講習会初日。

入先災人が妙に上機嫌で加藤に話しかけてきた。

「いやぁ加藤くん、OCX HR620の件、

本当に助かったよ。  レシーバータンクの設置、

アキュムレータの内蔵容量拡大……  

いや〜、ありがたいねぇ」

(……あなた、ほとんど何もしていないのに)


入先はOCX HR620の担当に決まっただけだった。

実際に設計を進め、図面を描き、3Dデータを作り、

量産を見据えた改善を続けていたのは加藤である。


それなのに、

入先はまるで自分の成果であるかのように振る舞っていた。

加藤は思い出していた。

入先は鷲世と同じで、

納期が近づくと休みが増える傾向があった。

重要な仕事や責任が発生しそうになると姿を消し、

状況が落ち着く頃に戻ってくる。


しかし最近は様子が違っていた。

OCX HR620が順調に進み、

成功する可能性が高くなった途端、

会社を休むことが極端に少なくなったのだ。


加藤には、その理由が分かる気がした。

成功したものは自分の手柄。

失敗したものは派遣の責任。

そうして生き残ってきたのだろう。


会社へ来るようにはなったが、

だからといって仕事をしているわけではない。

CAD端末の前に座ることもほとんどなく、

時間があればゲームばかりしている。


それでも担当者として扱われる。

(ずいぶん都合の良い立場だな……)

加藤は心の中でそう呟き、黙って自分の作業へ戻った。


◆ 業務はすでに始まっているのに、今さら教育?

加藤は心の中で苦笑した。

(試作機の仕様も固まりつつあるのに……

今さら基礎講習?)


講習会のテキストを見せてもらったが――

•四角い箱形モデルの作成練習

•単純モデルへの寸法付け練習

•簡易アセンブリの練習


どれも実務とはかけ離れた内容だった。

(これでOCX HR620の図面が描けると思っているのか……)

加藤は呆れを通り越し、

この会社の“教育の形だけ感”を痛感した。


◆ 坂野 ― 教育を受けても本質が分からない正社員

講習会が終わったあと、

坂野は内村が使っていたCAD端末に座り、

業務を始めていた。


しかし、その“業務”は大した内容ではなかった。

形状は同じ。 塩害処理を施した塗装仕様が違うだけ。


本来なら、3Dデータを二つ作る必要はない。

加藤なら、ひとつの3Dデータにプロパティを持たせ、

切り替えで二種類の図面を出力する。

それが正しいやり方であり、データ管理の基本だ。


だが坂野は、それを知らない。

そして加藤に一切聞いてこない。

結果として、同じ形状の3Dデータが二つ混在し、

どちらが正しいデータか分からなくなる。

加藤は画面を見て、静かに思った。

(……これが“教育を受けた正社員”の実力か)


後日、加藤が3Dデータの修正をすることになり、

坂野はそれ以降、CAD端末に座ることはなくなった。


◆ 夜の駐車場 ― 部長への違和感

夜遅く。 加藤は駐車場で倉田部長の車を見かけた。

いつもの女性ドライバー――

奥様だ。 その様子から、30分は待たされているようだった。

(……この人は、奥様の心情が分からないんだな)


加藤は倉田部長に、

言葉にできない違和感を覚えた。


◆ CAD端末が“空席”の部署

別の日。 加藤はオフィスを見渡した。

誰も、CAD端末の前に座っていない。


吉口はコーヒーを飲みながら言った。

「今日もCAD触る気にならないな」

入先も笑いながら続けた。

「SolidWorksは“そのうち”やるよ。今は忙しいからさ」

(忙しい? 講習会の4日間は暇だったのに)


加藤は心の中でため息をついた。

教育を受けた正社員が業務をしない。

教育を受けていない派遣社員が業務をする。


結局、OCX HR620の図面を進めるのは――

講習会に呼ばれなかった加藤だけ。

吉口は加藤の席を見ながら、

聞こえるように小声で言った。

「こういうのは派遣にやらせておけばいいんだよ」

(……予想はしていたけど)

加藤は静かに、しかし確実に“会社の闇”を感じていた。


教育は形だけ。 難しい仕事は派遣に押しつける。

成功すれば正社員の実績。 失敗すれば派遣の責任。

正社員の手は汚れない。


そして災厄の中心には、入先と吉口がいる。

さらに関根が加わり、三人になった。


彼らは仕事をしていない時間の長さを自慢し合っていた。

「今日は半日仕事してないぜ」

「入先なんて一か月以上仕事してないぞ」


声は小さいが、加藤にはすべて聞こえていた。

(CADの操作を覚えて、図面の数を自慢してほしいな……)


加藤は深く息を吐いた。

「手書き勤怠表ルールより、

正社員の行動を監視してくれ、倉田部長」だが、


奥様の心情すら読めない部長には、 それは無理だと加藤は悟った。


◆ 都内の病院 ― 手術の説明

病院の窓から、東京タワーが見えていた。

加藤、姉、母親の三人は、都内の専門病院で手術の説明を受けていた。


担当は女性医師だった。

「足首の手術は、それほど時間はかかりません。  

ただ、気を付ける点は多いです」


加藤は静かに質問した。

「手術的には……難しい内容なのでしょうか」


医師は落ち着いた声で答えた。

「それほど難しくはありません。  

ただ、手術後に炎症することがありますのでご了承ください。  

器具は万全に消毒していますが、どうしても起こり得ます」

母は静かにうなずいた。


「足首は固定することになります。  

生活が大変になります……

……私が手術を担当します」


加藤は深く息を吸った。

母の手術。 冷却機部署の闇。

派遣としての立場。 そして、これから始まる戦い。

静かに、しかし確かに―― 加藤の心の中で覚悟が固まっていった。


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