第11章 鷲世さちよ ― 寄生先を失った女
◆ 寄生先を失った瞬間
内村が退職し、課長も鷲世から距離を取り始めた。
その日から、彼女の様子は明らかに変わった。
声は小さくなり、視線は落ち着かず、誰とも目を合わせない。
あれほど強気だった態度は影も形もなく、
まるで別人のように縮こまっていた。
(寄生先がなくなると……こうも変わるのか)
加藤は静かにそう思った。
◆ 会社の重鎮・佐久間が動く
そんな中、佐久間が静かに立ち上がり、
鷲世の席へ向かった。
「鷲世さん、ちょっと頼みたい仕事がある」
その声は低く、静かだが、誰も逆らえない重みがあった。
派手なキャリアではないが、
会社では“最強のベテラン”として知られている人物だ。
部長ですら彼の判断に口を挟まない。
鷲世は一瞬だけ笑顔を作った。
「えっ、あ、あの……今ちょっと手がいっぱいで……」
いつもの“すり抜ける技”が発動した。
彼女はこれまで、面倒な業務を巧妙に避け続けてきた。
だが――
「鷲世さん。これは君に頼みたいんだ」
佐久間の声が重なった瞬間、 鷲世の表情が固まった。
佐久間の依頼だけは、誰も断れない。
断った瞬間、その社員の評価は“終わる”。
◆ 鷲世の本質 ― 五年間逃げ続けた女
佐久間が任せた業務は、
決して難しいものではなかった。
CAD要員なら誰でもこなせる、
単純な作業だ。
だが、鷲世にとっては致命的だった。
•上司には必要以上の笑顔で体をくねらせて媚びる
•任された業務の納期当日に平然と休む
•責任が自分に来るのを避けるため、あえて当日休む
•難しい依頼は、相手が諦めるまで説明させて逃げる
•間違いを指摘されても謝らない
•訂正すらしないのに、対等の位置だけは必死に守る
•付加価値のない人には挨拶すらしない
その生き方で、五年間も仕事らしい仕事をせずに生き延びてきた。
(よくまあ、ここまで逃げ切れたものだ……)
加藤は皮肉ではなく、本気で感心していた。
しかし今回は違う。
相手は会社の重鎮・佐久間。 逃げ場はない。
◆ 鷲世、初めての“実務”
翌日、鷲世は仕事を始めた。
加藤は遠目に図面を見た。
簡単なASSY図。 フレア接続の図面だ。
使用していたフレアナットが変更になり、
新しいナットに入れ替えるだけの改正図面。
図面枚数は8枚。 2日あれば十分だが、
与えられた工数は5日。
5年務めている人には贅沢すぎる内容だった。
(しかし決めたルールを守らないと痛い目見るよ!)
旧I DEAXのフレアナットは使用禁止。
SolidWorksで作成したナットに置き換えれば問題ない。
◆ 納期前日 ― そして突然の退職
4日後、納期前日。
朝早く、鷲世は佐久間と二人で話していた。
その日、彼女は突然退職することになった。
誰も聞いたことのない“持病”だった。
だが、彼女はそのまま戻ってこなかった。
周囲の社員は驚き、惜しむ声すら上がった。
「えっ、あの優秀な鷲世さんが……?」
「いなくなると困るよなあ……」
加藤はその声を聞きながら心の中でつぶやいた。
(……あの人がいなくても困ることは、
なに一つないな
ここの職員は本当になにも
見えていなかったんだな)
◆ 退職直前の鷲世
退職前、鷲世は加藤に向かって言った。
「……加藤さん!」
「あなたみたいに真面目に働く人は
……損するだけですよ!!」
吐き捨てるように言った。
「バカを見るんです。 この会社じゃ、
真面目な人ほど大バカを見るのです!!!」
その言葉には、
五年間“仕事をしないで生き延びてきた
”彼女だからこそ知っている、
この職場の歪んだ現実が詰まっていた。
加藤は静かに答えた。
「……それでも、このプロジェクトだけは完成させる。
一人でもやりきるよ」
鷲世は一瞬だけ目を見開き、
何かを言いかけたが、
結局そのまま口を閉じた。
そして、踵を返して出口へ向かう。
背中は小さく、
五年間の虚勢がすべて剥がれ落ちたように見えた。
扉が閉まる音だけが、静かに響いた。
◆ 加藤の独白
(真面目な人が損をする職場……か)
加藤はその言葉を胸の奥で反芻しながら、
ゆっくりとCADエリアへ戻っていった。
だが彼は知っていた。
真面目な人が損をする職場。
言われなくても知っている。
世の中そんなものだから。
◆ 残された仕事は、いつも加藤が完成させる
鷲世、内村、入先。 三人とも仕事は途中まで。
完成まで持っていくのは、
いつも加藤だった。
後日、3Dモデルを確認すると、
フレアナットの置き換えは一つもできていなかった。
(……やっぱりな)
寸法だけを入れる作業なら間違えても
3Dモデルを作成した人の責任にできる
今回は自分で置き換えて
3Dモデルの作成をすることになる
つまり 責任をすり替えられない。
しかし佐久間の業務は断れない。
“仮病”が悪化し―― いや、
仮病が悪化とは笑える話だが――
鷲世は体調不良を理由に業務停止となり、
そのまま退職した。




