第四章 ヨッシイ、切れる
翌日の金曜日。
意気揚々と朝練習に臨んだ智子は、トス・ワンターンを上手にこなすことができた。
しかし、この日、最後の種目であるシングル・エクスチェンジの練習がはじまった。この技は、向かい合った人と、バトンを投げ合って交換しながらバトンを操る演技である。
智子はどうなったか……言うまでもない。何度もバトンを受け損なって落としたり、相手が受け取りにくいところに投げたりしてしまっていた。
◇ ◇ ◇
その日の放課後。
今日から授業は午前中のみの短縮になり、午後になると運動会の準備をする先生や、練習をする児童たちだけが残っていた。来週土曜日の運動会まで、平日は毎日この日程になる。
クラス対抗リレーの選手である吉清と伸行は、トラックで練習をしていた。
他のランナーは、佐藤悠馬、由良拓海、那波将司のサッカー部トリオ、そして小兵で無口のスポーツ万能選手、稲葉大翔の四人だった。
運動会本番まであと一週間である。だから、リレーチームは以前より練習の回数を増やすことにしていた。
アンカーの伸行は、順番待ちをしている間、フィールド内のバトン部の練習を見ていた。
バトンを落とした智子が、六年生らしいパートナーに何度も頭を下げているのが見えた。
伸行は頭に手をやりながら独り言を言った。
「トモコのやつ、えんぎが変わったとたん、これだもんな……」
トップ(第一走者)を走り終わった吉清が、伸行の側にやってきた。
二人の目に、また智子がバトンを落としている様子が見えた。
「まただ……」
「うんどうのけいけんが足りてないんだろうね。トモちゃんは」
伸行が吉清に目配せをした。
「どうやら、またでばんだな」
「うん。とろうか、また」
伸行は、第三走者を走り終えた佐藤悠馬が、智子の方をチラチラと見ながらこっちに歩いてくることに気づいた。
……みんな智子を気にしてくれてるんだな……。伸行は少し嬉しくなった。
セミアンカーの稲葉大翔が走り出したのを見て、伸行はテイクオーバーゾーンに歩いて行った。
音楽室から吹奏楽部の景気のいいマーチが聴こえてくる。
屋上からは応援団の練習の掛け声も聞こえてきた。
◇ ◇ ◇
クラス対抗リレーの練習を終えた六人のメンバーは教室に戻った。
教室に残っている者は他にいなかった。
時計が一時半少し前を指していた。
稲葉大翔は、体操着のままランドセルを背負い、無言のまま手を振ると教室を出ていった。「いいやつだけど、本当に無口なやつだな」と伸行は思った。
伸行の隣では、吉清が手提げ袋をそっと広げ、ドローンの準備をはじめていた。
そのとき伸行は、少し離れたところで佐藤悠馬、那波将司、由良拓海のサッカー部トリオが話しているのを聞いた。
「なあ、長尾って、きょうもおとしてばっかだったな」
「はたふりの方がにあってんのに、なんでバトン役なんかにしてもらえたんだ?」
将司と拓海が意地悪く笑っている。そこに悠馬が混ざった。
「……だよなあ。あいつ、うんどうしんけいわるいし、なんかドジっ子っていうかさ。見ててあぶなっかしいんだよなあ。おとなしく絵でもかいてりゃいいのに、バトンなんかやるからだよな」
その言葉に、将司と拓海がまたニヤニヤと笑った。
「……おい、佐藤」
低い声で伸行が呼びかける。
振り返った悠馬を、伸行が正面から睨みつけた。
「トモコ、がんばってるんだぞ。本人のいるところでいじるならともかく、いないところでわらいものにするなんて、おかしいだろ」
「なんだよ……きゅうに。べつに、ちょっと言っただけじゃねえか」
悠馬が気まずそうに言い返す。
「トモコのこと、そんなふうに言うなよな」
悠馬が少し視線を逸らすのを見て、伸行はことを収めようとした。
カチリ。
そのとき、吉清が眼鏡を直す音がした。
伸行がそちらを見ると、普段は穏やかな吉清が、無表情のまま目に冷たい光を宿している。それを見た瞬間、伸行の顔が引きつった。
……やばい、マジ切れしてるよ、ヨッシイ……。伸行は思った。こうなったときの吉清は地味に怖い。
吉清は、わずかに顔を傾けながら悠馬に近づくと、斜め上目遣いで悠馬を睨みつけた。そしてやたらと大人びた口調で静かに話しだした。
「なあ佐藤氏。これから僕と議論してみないか?」
「……は?」
悠馬が、あっけにとられた顔をした。
「君よりずっと重い責任を負わされている女の子を悪く言うような男が、果たして格好よく見えるのかどうか……ということをね」
吉清が、抑揚を押さえた口調で言った。
ぴたり、と場の空気が止まった。
悠馬は言葉を失い、顔を真っ赤にする。将司と拓海も黙り込んだ。
……あーあ、言っちゃった……。伸行はそう思い、少し離れて額を押さえていた。
「……っ、ちっ、もういい!」
悠馬は吐き捨てるように言い、ランドセルを持つとそそくさと後ろの出口から廊下の方へ逃げていった。将司と拓海も、ランドセルを掴むと出て行った。
その背中を、吉清は軽蔑の視線で見送った。
「見下げ果てた奴らだな」
……やりすぎだ、バカ……。伸行は思った。
伸行は、ふうっと息を吐き、吉清の方を見た。
「ヨッシイ、お前のおこりかた、どくとくすぎるぞ」
「僕は、決して怒ってなどいませんよ」
吉清が斜めに顔を構えながら、また右手でカチリと眼鏡を直す。
「だから、その言い方がこえぇんだよ!」
伸行の嘆きに、吉清はまた演技めいたセリフを吐いていた。
「さて、邪魔者もいなくなったことだし。撮影にでかけましょうか」
偶然、休憩で水筒を取りに戻ってきた智子は、その光景を教壇側の入り口の影から見てしまった。
二人が自分をかばってくれたことは、すぐにわかった。
胸の奥と目頭がじんわりと温かくなり、智子は小さく唇を動かした。
「ありがとう」
その時、智子は反対側の出口から飛び出してきた悠馬たちと目が合った。
智子は悠馬たちを少し濡れた目で睨むと、教室に入ることなく、ぷいっと顔を背けて、そのまま昇降口に向かって走っていった。
「見られちゃった……」
「みたいだな……」
悠馬は、将司や拓海と気まずそうに顔を見合わせた。
◇ ◇ ◇
智子は、昇降口の脇の水飲み場で顔を洗った。
悠馬たちの悪口を、溢れてくる冷たい涙と一緒に流したかった。
同時に、伸行と吉清がかばってくれたことも思い出した。今度は別の暖かい涙が溢れてきた。
智子は、蛇口に口を近づけ、ぬるめの少し塩辛い水を飲み込むと、すっきりした気持ちで練習に戻った。
◇ ◇ ◇
休憩後、皆川先生が席を外している間に、六年生の部長、安達玲奈の号令でバトン部は練習を再開した。
気分を整えて練習に戻った智子だったが、それでバトンの腕が上達するわけではなかった。
智子は、シングル・エクスチェンジの相手になった、六年生の伊王野葵にバトンを投げたが届かず、手前に落としてしまった。慌てて拾い直し、もう一度パスすると、今度は勢いよく投げすぎてしまった。
伊王野葵は、顔に当たりそうになったバトンを、とっさに手でかわした。
ガシャン。
智子のバトンは、葵の斜め後ろに転がった。
「ちょっと! 危ないじゃない!」
葵の怒鳴り声で、練習が一時中断した。
「すみません……」
智子は何度も頭を下げた。




