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第二章 絵を描く筆のように

 その日の帰り道。


 智子の家は、小学校から西の方向に50分ほど歩いた河岸段丘かがんだんきゅうの上にある。段丘に登る途中で吉清や伸行と別れるけれども、30分以上、一緒の帰り道だった。


 智子は、隣を歩く吉清や伸行に先ほどの出来事を話しながら、何度もため息をついていた。

「すげえじゃんか、バトン役だなんて。かっこいいぞ!」

 伸行が能天気に返答する。

「なろうと思っても、なれるもんじゃないしね」

 いつも冷静な吉清まで明るい声で同調した。

 智子は、どんどん周囲が話を決めていくことに戸惑い、少し苛立っていた。

「かんたんにいわないでよ!」

 思わず大声をあげてしまう。

「あたし、体育にがてなの、知ってるでしょ!」

 しかし、伸行は平然と言い返してきた。

「じゃあ、ことわればよかったじゃねえか」

「そんなこと、いえるふんいきじゃなかったの!」

 智子がムキになって反論した。

「そうかな」

 吉清がいつものようにメガネを右手で直しながら横目で口を挟む。

「じつはトモちゃんだって、少しはやってみたいって思ったんじゃないの?」

 智子は、ぎくりとした。痛いところを突かれたと思った。いつも頼りになる頭のいい吉清が、こういうときは憎たらしくなる。

「まあ……すこしは……」

 智子は不安で一杯だったが、確かに吉清の言う通り、ほんの少しの期待も持っていたのは間違いなかった。

 バトンを回す自分。みんなの前で堂々と踊る自分。そんな自分の姿を想像すると、胸の奥がくすぐったくなる。


 段丘の坂が近づいてきた。

 周囲には民家も少なくなり、かわりに田畑が増えてくる。それにあわせて、マツムシ、スズムシ、コオロギといった秋の虫の鳴き声がうるさいほど響いてくる。


 智子は、秋の虫の騒がしい歌声を聴きながら考えた。

……先生は、できなきゃ戻ればいいと言っていた……だったら……。

「……やっぱり、やってみるしかないよね」

 小さくつぶやいた智子の声。

「そうそう」

「オレらもてつだってやるぜ」

 三人の声が、夕暮れの道に吸い込まれていった。


◇   ◇   ◇


 次の金曜日は雨だった。

 雨でもバトン部の練習は休みではない。

 放課後の体育館では、軽快なマーチに合わせて一斉にバトン部の児童が隊列を組み、きびきびと腕を振り上げている。

 智子は一番後ろに立ち、学校の備品のバトンを握りしめていた。

「右から回して、はい、キャッチ!」

 皆川先生の掛け声に合わせ、部員たちは慣れた手つきでバトンを宙に放る。バトンは、回転しながらキラリと体育館の照明を反射し、まるで意思をもっているかのように持ち主の手のひらに収まった。

 少なくとも、智子にはそう見えた。

 そして、智子の放ったバトンだけが、まるで異なる意思を持つかのように、あらぬ方向へ飛んでいった。

「わっ……!」

 ガシャン!

 バトンは、体育館の床に派手な音を立てて落ちた。

 智子はすぐ拾い直して再挑戦するが、同じ結果だった。


「ちょっと力が入りすぎてるんじゃないか?」

 皆川先生が声をかけてくれるが、智子はますます肩を縮ませる。

「ごめんなさい……」

 うつむいて謝る智子の耳に、先生の明るい声が響いた。

「バトンはな、力で投げるんじゃない。回転を描くんだ。筆だと思え」

「……絵をかくときのふで、ですか?」

「そうだ。ほら、長尾は絵が得意だろ? 描くときに筆先に気持ちを乗せるだろう。バトンも同じだ」

 先生の言葉は冗談めいていたが、智子の胸にストンと落ちてきた。

 絵を描く筆……そう考えれば、いうことを聞かなかった銀の棒が少し違って見えてくる。なんとなくコントロールできるような気になってきた。


「さいしょは、みんな下手だからだいじょうぶよ、長尾さん」

 隣のクラスの安中あんなか七海ななみがそう言った。ハキハキと物をいう、正義感の強い子だと、智子はうわさで聞いたことがあった。でも思い込みが強いとも聞いていた。


◇   ◇   ◇


 次の日から、土曜日、日曜日、月曜日と三連休だった。

 智子は連休を利用して家で特訓を始めた。祖母の郁子に、自分専用のバトンを買ってもらい、庭先で練習を始めた。手広く農場や農園を経営している智子の家は、庭も広い芝生であり、練習に困らなかった。


 午後になると、伸行と吉清がやってきた。

「トモコ、さしいれだぞ!」

 伸行は、ガラスハウスの脇から庭に入ってきて、家から持ってきたジュースの入った袋を持ち上げていた。


 濡れ縁でジュースを飲みながら休憩しはじめた智子に、吉清がノートパソコンを開いて見せた。

「これ見ろよ」

 動画サイトからダウンロードしたらしいバトン演技の動画が画面に表示された。

「すごい……。上手いなあ」

 智子は汗を拭きながら、感心したように動画を見始めた。

「トモちゃん、ただ見るだけじゃだめだよ。これを見ながら自分のからだの動きをおぼえるんだよ。これもれんしゅうさ」

「え……そんな、れんしゅうのほうほうがあるの?」

 智子が驚いて吉清を見ると、伸行が呆れ気味に口を挟んだ。 

「なんだよトモコ。知らないのか? イメージトレーニングなんて、スポーツじゃ、じょうしきだぞ」

 智子がむくれて伸行を横目で睨む。

「しょうがないでしょ! あたし、スポーツ苦手だもん!」

「じゃあなおさら、これ、見ておぼえるといいよ」


 智子は、フィンガータップ(バトンの端を指先で叩いて回転させる技)の動画から真似をしはじめ、次にハンドロール(手の甲でバトンを転がす技)、そしてツイスター(バトンを8の字を描くように動かす技)、リストツイール(手首のスナップでバトンを回す技)といった基本的な技を練習していった。

 智子は手先が器用なので、単純な技の習得は早く、土曜日のうちにこれらの演技ができるようになった。


 だが、少しレベルの高い種目である、パームスピン(手のひらの上でバトンを回転させる技)と、フィンガータワー(指の上でバトンを転がすように回転させる技)はなかなかうまくいかなかった。

 運動が苦手な智子は、身体を動かす動作が多くなってくると、どうしてもぎこちなくなる癖があった。

 日曜日、月曜日と三連休の間練習し続けて、智子はようやくパームスピンを覚え、あとはフィンガータワーだけとなった。


 智子は、連休最後の月曜日の夜、自分の部屋の中でフィンガータワーの練習をした。机の上には吉清のノートパソコンが置かれており、演技の動画を再生している。

 智子は指の上でバトンを転がしていくが、どうも最後の動きで失敗してしまうのだ。

「ここまでね……あとは明日にしよう」

 智子は部屋の時計が9時を回っているのを見てバトンをしまい、入浴の準備をした。


◇   ◇   ◇


 三連休が終わって火曜日。

 智子は、授業中も鉛筆をバトンに見立ててこっそり回していた。手を離れた鉛筆が転がり落ちそうになると、右隣の席の太田おおた祐介ゆうすけがその前に拾ってくれた。

「ありがと」

 智子が小さな声で言うと、祐介は無言で笑った。祐介は智子の再従兄はとこで、幼稚園にあがる前からの友人だ。小学生になりクラスが別になってからは疎遠になっていたが、今年から同じクラスになり、またよく話すようになっていた。


 休み時間。

 他の児童たちが雑談をする中、智子は、相変わらず自分の席で鉛筆をくるくる回していた。カランと床に落ちた鉛筆を、右前の席の吉清が拾ってくれた。

 伸行が教壇前のドアをくぐり、智子に早足で近づいてきて耳打ちした。

「トモコ、おくじょうのおどりば、今、だれもいないぞ」

 智子は、バトンを手提げに入れると、すぐに踊り場に行った。


 伸行と吉清と祐介は、その間、屋上に続く階段の入口で世間話を始めた。屋上の踊り場に誰も行かせないようにするためだ。


 そして智子は、ついにこの時、バトンが自分の想い通りの位置に戻ってくる瞬間を経験した。

「やった……!」

 小さな成功に智子の胸が弾み、つい踊り場の上で喜びの声をあげてしまった。


 一度体が覚えると、あとは簡単だった。

 その日の放課後の練習で、智子はフィンガータワーまでを中心とした演技を一度も失敗せずに終えることができた。


◇   ◇   ◇


「パームスピン! フィンガータワー!」

 その夜、智子は夕飯後に自分の庭先で、蚊に刺されるのも忘れてバトンを回した。

 まるで自分が魔法少女になって、魔法のバトンを自在に操っているような気分だった。


 智子が自分の部屋に戻ると、バトン部のメーリングリストから自分の携帯ガラケーにメッセージの着信があった。部長の安達あだち玲奈れなからだった。

「明日からトス・ワンターンと、シングル・エクスチェンジをやります。みなさんれんしゅうしておいてください」とのメッセージだった。

 智子は顔を強張らせた。

「え……まだ覚えることあるの?」

 せっかくの喜びに水をさされたような気がした。


 智子が入浴前に廊下を歩いていると、廊下の窓窓越しに、吉清に教えてもらったアンドロメダ座が見えた。アンドロメダの神話……アンドロメダ姫が怪物の生贄に捧げられる……を思い出した。

 智子は、なんだか自分が怪物の前に連れてこられたような、不安な気分になっていた。

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