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第一章 旗からはじまる挑戦

 入場行進の練習が終わり、教室に戻った智子は、さっき見た空に舞う銀色のバトンのことが頭から離れなかった。

 だけど、今は空を見ているわけにはいかない事情があった。今日中に、自分たち一組チームのシンボルマークを考えなければいけなかったのだ。


 智子の小学校の運動会は紅白戦ではない。一年一組から六年一組まで、一組全部が同じチームになる。同じように、二組と三組もそれぞれチームになり、三つ巴で優勝を競うのだ。


 「一組必勝」というわかりやすいキャッチフレーズを、オシャレなフォントで描き、最近流行のマンガのキャラと組み合わせる。それが一組チームのシンボルマークだった。

 絵の得意な智子は、六年生の水谷みずたに美也みやという児童ともにシンボルマークの作成を任されていた。その原案の締め切りが今日だった。


◇   ◇   ◇


「できた?」

 その水谷美也が、五年一組の教室に入ってきた。メガネをかけてひょろっと背の高い長めの髪の上級生だった。美也は児童がまばらになった教室を歩き、窓側の智子の机にやってきた。

「もう少し……です」

 智子の役割は、シンボルマークの原案をいくつか描くことだった。でも今日の智子は、その仕事に身が入らなかった。そのため、いくつかの原案のうち、色塗りまで一通り終えることができたのは一点だけだった。

「なんだ、これでいいじゃない」

 水谷美也はそういうと、その一点のシンボルマークをひょいっと取り上げた。

「え! それは、まだだめ。ぬりのこしがある……」

 智子は抗議したが、美也は智子のデッサンを手に教室の入口へと歩き出した。

「あとは私がしあげるから、もういいよ」

 美也はそういうと、急ぎ足で教室を出て行った。


 智子は、仕事を強制終了されたことに軽くため息をついた。その一方で、あまり気が乗らない仕事から解放されて、少し気が楽になっていた。

 智子は椅子から立ち上がって、軽く伸びをした。目をぎゅっと閉じ口を大きく開けて両手を上に挙げて、ゆっくり深呼吸をする。そして、ゆっくりと息を吐き、丸く大きな目を開いて窓の外を眺めると、校庭のトラックの中ではバトン部の練習が続いていた。

 青空に舞い上がる銀色に輝くバトン。まるで魔法使いが杖を空に投げているような、あの姿を絵に描きたいと思ったことを思い出した。


 智子は、椅子に座ると、自前のスケッチブックを開いてバトン演技のデッサンを始めた。クラスの子たちが次々と帰っていく中、夢中で鉛筆を走らせていた。

 そのとき、教壇側のドアの方から声が飛んできた。

「おーい、長尾!」

 突然声をかけられて、驚いて顔を上げると、皆川先生が智子の席に歩いてきた。

「は、はいっ」

 智子は、慌ててスケッチブックを閉じ、背筋を伸ばした。

「ちょっと頼みがあるんだがな」

「はい……?」

 皆川先生は手にしていたバインダーを軽く叩いた。

「実は、バトン部の旗振りが一人足りなくなったんだ。代わりを探しててな……長尾、お前、やってみないか?」

「ええっ!? あたしがですか?」

 思わず挙げた声は、教室に残っていた級友の耳にも届いたらしい。

「長尾さんが?」

「いがいだね~」

 何人かの女子の声が智子に聞こえた。意外なのは智子も同じだった。

「そんな、あたし、ぜんぜん、ダメです……体育にがてだし……先生、しってるじゃないですか!」

 智子は慌てて手を振った。

 バトン部といえば、運動会の昼休憩のときに、全校児童、その保護者、教員、そして来賓みんなの前で演技を披露する。そんな場所に、自分のように、いつもクラス対抗球技大会で、補欠どころか応援専門になるような子が立っていていいのだろうか。

 しかし、皆川先生は首を横に振り、真剣なまなざしを向けた。

「旗を振るだけだから、そんなに体育のセンスは要らない。必要なのは音感だ。お前は音楽が抜群だから大丈夫だ」

 智子は一瞬、「なるほど」と思った。

 皆川先生が続ける。

「なにより、お前はほかのバトン部員に負けないぐらい目を惹く。表情が豊かで、旗を持つと映える」

「目、目をひく……? あたしが……?」

 思いもよらない言葉に、智子は顔が火照るのを感じた。


「たしかにそうですね。トモちゃんはよくわらうし」

 智子がその声に振り向くと、クラス対抗リレーの練習から戻ってきた村上むらかみ吉清よしきよが、智子の席の方に歩いてきた。いつものように、右手でメガネをくいっと持ち上げながら、少しませた言い方で口を挟んできた。智子の親友の一人である吉清は、勉強が得意だが足も速い。

「そ、そう?」

 智子が照れながら口許をほころばせると、今度は別の大きな声が飛んできた。

「まあ、よくわらうかわり、よくおこるし、よくすねるけどな!」

 同じくリレーの練習から帰ってきた真田さなだ伸行のぶゆきが無遠慮に笑いながらそう言った。伸行が笑うのに合わせて、隣にいた佐藤さとう悠馬ゆうまらほかの男子たちも、冷やかしたり笑ったりしていた。

 伸行は、小学五年生にしては背が高く体格もいい。明るく真っすぐなので智子と仲良しだったが、デリカシーに欠ける。 

「ちょっと、やめてよ!」

 智子がぷっと膨れて伸行をスケッチブックで叩こうとしたが、伸行はひょいっと避けて笑う。智子は形の良い眉を吊り上て、椅子から立ち上がり、またスケッチブックを振り上げた。


「ほら、やっぱり長尾は表情豊かじゃないか」

 皆川先生がそう言うと、また男子たちが笑う。

 智子はさらに膨れてぷいっと横を向いた。


「それに長尾」

 皆川先生が優しく諭すように続けた。

「お前、運動に自信ないだろう? 先生はな、お前にみんなの前で堂々と身体を動かして欲しいんだ。そうしたら、自信がつくかもしれないじゃないか」

 その言葉に、智子の胸がちくりとした。

 見抜かれていた。

 いつも「体育は苦手だから」と言い訳しながら球技も徒競走も消極的にやり過ごしてきた自分。けれど先生は、その背中を押そうとしてくれている。

「それから」

 皆川先生が、智子の手にしていたスケッチブックをさっと取り上げ、さっき描いたばかりのスケッチのページを開いた。

「内心、かっこいい、やってみたいって気持ちもあるんだろ?」

 皆川先生に、さっきまで描いていたバトン部の絵を見せられた。

 吉清や伸行、ほかの男子たちは、「すげえ」「もうかいてる」「うまいじゃん」などと口々に絵を覗き込んだ。

 智子はゆっくりと正面を向き、皆川先生の目を見上げた。このまま断るのは、なんとなく自分らしくないように思えた。

「……わかりました。やってみます」

 小さな声で答えると、先生は笑った。

「よし、決まりだ。すぐに体操服に着替えて、練習に来い」


◇   ◇   ◇


「今日から旗振り役として入部してもらう、五年一組の長尾智子だ。みんな、いろいろと教えてやってくれ」

 校庭のトラックの中。バトン部員が全員集合したところで皆川先生に紹介され、智子はちょこんと頭を下げた。

 皆川先生の側で、バトン部の練習を一通り見学する。音楽に合わせて銀色のバトンが宙を舞い、赤、白、青、黄色の旗が左右に振られているのが、智子にはとても華やかに見えた。智子は自分がそこに混ざることがまだ信じられなかった。

「じゃあ、長尾も振ってみろ」

 紫色の大きな旗を渡されたときには緊張したが、音楽に身を任せるように身体を動かすと、すぐに慣れた。旗の動きに続いて、智子の栗色のツインテールもリズミカルに左右に振れた。

「よーし、上出来、上出来」

 皆川先生がそう言って智子を褒めた。音楽と身体の動きを合わせられない子というのは意外に多いのだと先生は言った。

「これならできる」と智子は胸をなでおろした。なにより、音楽に合わせて体を動かすのは楽しいと感じ始めていた。


◇   ◇   ◇


 ところが、次の日。

 練習の最後に、バトン部全員が朝礼台の前に集められたとき、皆川先生が意外なことを言い出した。

「バトン役を増やそうと思う……長尾!」

 バトン部員の目が一斉に智子に集まる。突然の指名に、智子は丸く大きな目をさらに大きく開いて驚愕した。

「ええっ!? だ、だってあたし、はたふりせんもんじゃ……」

 皆川先生が明るく笑いながら言う。

「旗も悪くないがな。お前の音楽に合わせる動きを見ていたら、バトンをさせてみるのも悪くないと思ったんだ」

「そんな……」

 必死に首を振る智子。

「先生! あたし、むり、むりですって!」

 しかし、皆川先生は軽く笑うばかりだった。

「挑戦してみろ。できなきゃ旗に戻ればいい。だがな、できるかもしれないことを、最初から無理だと決めつけるのは……先生は嫌いだな」

 また、智子の胸の奥がちくりとした。先生の言葉が深く響いた。

……バトン役はかっこいいな……もし、できたらかっこいいな……。

 確かに昨日から智子はそう思っていた。

 そして、気づけば渡された学校所有の銀色のバトンを両手で握っていた。

「今日はよく他の人の演技を見ておけ。本格的な練習は明日からだ」

……ひきうけちゃった……。

 智子は、心臓がドキドキと期待に脈打つのを感じていた。


 だが、目の前で銀色のバトンが華麗に美しい軌跡を描いて飛ぶのを見ると、本当に自分にできるのか、急に不安になってきた。

……あたしって、もしかして……たいへんなことをしちゃったのかも……。

 智子は、自分の前で空を飛ぶ銀の棒と、自分の手の中にある飛んでいないバトンを見比べながら、徐々に自分の心の中で、期待が小さく、不安が大きくなってくるのを感じていた。

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