第2話:皇帝
アオイの頬を涙が伝い落ちた。
「あ、アオイ……」
「あ……助けて」
皇帝は剣を振り上げ、彼女に向かって真っ向から唐竹割りに振り下ろした。衝突の直前、一筋の影が凄まじい速度で動き、彼女を衝撃から引き離した。破壊的な一撃が地面を叩き、周囲数メートルにわたって大地を砕いた。
「そんなに近くにいるべきじゃないわ」
「フラン!」
「今は少し離れていなさい。それに、あの男も……」
「その、少年は……」
「セリアを助けて。私はここから脱出するために、あの少年に近づいてみる。いいわね?」
「ええ……!」
フランは皇帝の注意を引くために、両手を振りながら反対方向へと走り出した。
「過小評価は禁物ね。強欲の皇帝は非常に受動的……動く前に思考するタイプ。それが、私たちの唯一の利点になるかもしれない」
フランは呟き、攻撃を回避しながら後ろへ飛び退いた。
彼女は剣を抜き、正面から突進する。カウンターを仕掛けながら、技の名を叫んだ。
「『粉砕』!!」
空から黄色い雷撃が降り注ぎ、敵の鎧に直撃した。電気の衝撃が濃い霧を巻き上げ、すべてを覆い隠した。
霧を払いながら剣を振るったフランは、目の前の光景に息を呑んだ。皇帝の鎧からは蒸気が立ち上っているが、かすり傷一つついていない。
「単純な攻撃じゃ通じないとは分かってたけど……。やれやれ、これ以上の守りの手立てなんて思いつかないわよ」
ガィィィン! ガィィィン!
皇帝は自分の手に剣を打ちつけ、金属の摩擦で黄色い火花が散った。
「アオイ、急いで!!」
フランが叫ぶ。皇帝はフランに向かって歩み始めた。
数メートル先、霧の結界の外側で、アオイはようやくセリアの元にたどり着いた。彼女は膝をつき、友人の頭を自分の膝の上に抱え込んだ。
絶望的な決意を込めて、アオイは自分の手のひらを強く噛み切った。魔法のエッセンスを含んだ温かい血が、セリアの唇に直接滴り落ちる。
「癒やして(ヒール)……」
アオイが囁くと、純白の輝きがセリアの体を包み込み、目に見える傷を塞いでいった。瞼が震え、ゆっくりと、彼女の瞳に光が戻った。
「セリア? 大丈夫?」
アオイは彼女をしっかりと支え、体を起こすのを助けた。
セリアは弱々しく頷いたが、その視線はすぐに戦場へと向けられた。霧から放たれる熱気は耐え難いものだった。彼女は震える手を前にかざし、残りのエネルギーを振り絞って唱えた。
「『固定棘』!」
フランが膝をついた。剣は二メートル先に転がっている。肩を押さえながら、近づいてくる皇帝を見つめた。
突如として大地が揺れたが、皇帝はひるまない。その前進は機械のように容赦なかった。しかし、彼がフランに最後の一撃を振り下ろそうとした瞬間、地底から轟音とともに鋭く結晶化した岩の棘が突き出した。
ドォォン!
石の柱が皇帝の鎧の足元を直撃し、彼を宙に浮かせ、その重心を崩した。
「フラン、今よ!」
セリアが叫ぶ。魔法の代償で額には汗が滲んでいた。
フランは一秒も無駄にしなかった。肩の痛みを押して地面を転がり、自分の剣を掴み取る。金属が彼女の手に触れた瞬間、意志に呼応して震えた。
「助かったわ、セリア……」
皇帝が石柱の上で均衡を保とうとする中、フランは超人的な努力で立ち上がった。
「アオイ、彼女を連れてここを離れて! 私が道を切り開くわ!」
皇帝の鎧からは依然として蒸気が噴き出していたが、セリアの魔法の白い輝きと三人の決意によって、空気の質が変わった。
アオイはセリアを導き、少年の元へと向かった。
皇帝は石柱の先端を掴み、握りつぶした。
彼は足元にクレーターを作りながら着地し、巨大な剣を地面に突き立てると、そのまま丸まった。生命活動のない、ただの不動の鎧へと姿を変えたのだ。
フランは驚き、剣を落として膝をついた。肩に手をやり、アオイの方を見て微笑んだ。そして、そのまま意識を失った。
「まだ生きてるのか? 気にするな、あの皇帝は……」
「さっきのことは考えないで、アオイ。あんたが生きてることが重要なの。大した戦いじゃなかったとしても、あれは神聖な存在なんだから。急いで、あいつはまだ生きてる?」
「待って、急かさないで」
アオイが少年の鼻に手をかざすと、手のひらに微かな呼吸の熱を感じた。
彼女はセリアを見て頷いた。
「良かったわ。運べる?」
「運べるかって……わからない、やってみる」
アオイは少年の体の隅々を見つめ、唾を飲み込んだ。額を汗が伝う。ゆっくりと手を伸ばすが、彼の腕に触れる直前で止まってしまった。
「できないわ……」
「あんたは受動的すぎるのよ。落ち着きなさい、ただの少年じゃない。せいぜい16歳かそこらよ」
「簡単に言うわね、あんたは25歳で大人だからいいけど」
「そうね、でもだからって、あんたがこんな簡単なこともできない理由にはならないわ」
アオイの頬が恥ずかしさで淡い桃色に染まった。
フランは意識を失い、鎧からは凄まじい熱気が放たれ、セリアも魔力の使いすぎで立ち上がれずにいた。
「い、急いで……時間がない。もたもたしてたら、あいつが戻ってくる……」
弱々しく、フランの声が響いた。
セリアが顔を上げた。草原には太陽が輝き、風が草を揺らす非現実的な平穏があったが、彼女たちの目の前では、猛烈な熱気によって空気が歪み始めていた。
フランは歯を食いしばり、立ち上がろうと手をついたが、その下の地面は燃えるように熱かった。
「……来るわ」フランが恐怖で瞳を泳がせながら呟いた。
メキメキッ! バキバキッ!
それは単なる金属の動く音ではなかった。耐え難い圧力の下で現実が軋む音だった。
鎧がゆっくりと立ち上がり、草原の花々を一瞬で枯らすほどの熱波を放出した。皇帝が剣を掲げ、アオイとセリアを真っ向から指し示した時、世界は変貌した。
グゥゥゥゥアアアアアアアアアッ!!
咆哮は衝撃波となった。青い空はひび割れ、まるで大気が血を流しているかのように、禍々しい赤に染まった。
突如として、深紅の草原は美しさを失った。空気は重く淀み、硫黄と焦げた金属の臭いが立ち込める。
アオイは息を吸おうとしたが、空気が喉を焼いた。液体状の灰を吸い込んでいるかのようだった。皇帝の存在感が放つ重圧が、彼女たちを跪かせ、赤い大地にその意志を押し潰した。
立ち上がろうとしても無駄だった。空気は固形物の塊となり、彼女たちの骨を深紅の草原へと叩きつけた。
「くそっ……強すぎる……この重圧は……」
フランは這いつくばり、無意味に剣の柄に指を伸ばした。
アオイは重力と戦いながらむせび泣いた。その時、聞き覚えのある温もりを感じた。セリアが額に血管を浮かび上がらせ、必死の思いで震える手を伸ばしていた。
アオイの頭上にエメラルドグリーンの輝きが具現化した。ルーンの盾が数センチだけ空気の圧力を切り裂き、彼女に命の息吹を与えた。
「アオイ……あんたの血を……その男に与えて……」セリアが喘いだ。
アオイは躊躇したが、セリアの瞳にあるパニックは反論を許さなかった。彼女は意識のない少年の元へと這い寄り、一瞬、守護者を求めて顔を上げた。彼女の目はフランの目と重なった。
時が止まった。
鋼と静かな暴力が瞬く間に交錯し、皇帝が動いた。主の巨大な刃が無音で振り下ろされ、フランの体を真っ二つに引き裂いた。
アオイは硬直した。喉から、感情の欠落した、壊れたうめき声が漏れ、彼女は無様に後ずさった。
「彼……が……」
言葉を失い、その顔は言いようのない恐怖に染まった。
「何が起きたの!?」
「フランが死んじゃった……!」
セリアの目が大きく見開かれた。しかし、彼女の声は力強かった。
「泣いてる場合じゃないわ! 聞きなさい、アオイ! 恐怖を捨てることだけが、これを解決する唯一の方法なの! この世界には、死よりも恐ろしいことが存在するのよ! 早くやりなさい!」
アオイは制御不能なほど震えながら、少年の体へと這い寄った。鼓動を速めながら、彼を膝の上に抱え上げる。
彼女は手のひらを口元に運び、絶望と共に皮膚を食い破った。
しかし、その血の一滴が滴り落ちることはなかった。
冷たく乾いた衝撃が、彼女の脊椎を駆け抜けた。アオイが混乱しながら視線を落とすと、自分の胸の中央から黒い剣の切っ先が突き出し、彼女自身の命で濡れているのが見えた。
皇帝は彼女の背後に、冷徹に立っていた。まるで一枚の枯れ葉を扱うかのように、少女の体を貫いたまま武器を持ち上げた。
「うっ……くそ……」アオイの吐息が、真紅の霧となって消えた。
「アオイ!!」セリアの叫びは喉の奥で詰まった。「なんてこと……もう、終わりよ……」
セリアは目を閉じた。草原に残された最後の日光を、皇帝の影が覆い尽くしていくのを見ながら。彼女たちを守る者は、もう誰もいなかった。




