婿入りしようと思うのでモテる為に頑張ります。赤ん坊時代編2
生まれ変わってからあとひと月で一年経つ頃。
俺はついに自力で立って歩けるまでに成長を遂げた。
何度転ぼうが、何度尻もちをつこうが、俺は諦めずに立ち上がってきた。
そうした日々の積み重ねは決して自分を裏切らない。俺は身をもってそれを知った。
ようやくベビーカーという名の拘束具から解放され、俺は今、自由を手に入れたのだ!
……と本当は言いたい。
立って歩けると言ってもまだよちよち歩きだ。結構バランスを取るのが難しいから、真に歩いたり走ったりするのはまだまだ時間が必要みたいだ。
当然外などまともに出歩ける訳もなく、ベビーカーは未だ俺の愛車として大活躍中である。まあ寝心地はいいからもうしばらく乗っててもいいかな。
ちなみにこの年齢で歩き始めるのは普通の子より早めだったらしい。
周りの奥様方からは。
「えっ!? 陽斗君もう歩けるの!?」
「ちょっ、めっちゃ早過ぎない!? ウチの子まだハイハイも怪しいのに!」
「成長が早くて羨ましいわぁ」
との声が上がっていた。
幾分かお世辞混じりなのは重々承知。ただそれでも褒められることは素直に喜ばしい。
母様も息子である俺が褒められて嬉しそうだった。
言葉に関しては少しばかり悪戦苦闘中だ。
どうも俺は発音が苦手らしい。母様や父君を呼ぼうとしてみてはいるが、「ぶぁばぁ」「ぢぃずぃ」と上手くいかず、母様からは「え? ババア?」と勘違いされて殺意の眼差しを向けられてしまった。
ちゃんと発音ができるまで母様の名を呼ぶのは延期にしよう。
さて、一年近くも経てばいろいろと交流する奥様方がいたものだが、どうにもいい苗字に巡り合えずにいた。
例えば先月新たに交流の始まった奥様方の苗字ラインナップはこちら。
鈴木。高橋。田中。
なんということでしょう! 全国苗字多い数ランキングの二位から四位まで勢揃いでしたわ!
パスで!
そんな感じで俺の未来の苗字候補探しは難航している。
まあ元からすぐ見つかるだなんて思っちゃいないけどね。
「陽斗君、今日は川沿いをお散歩してみよっか。桜が綺麗に咲き始めてるんだって~」
「ぶぁい」
母様からの申し出に汚い発音ながら「はい」と返す。
正午の晴天の元、春の暖かい風が伸び始めた俺の産毛を揺らす。
俺は母様に愛車の運転を任せながら、川沿いに並ぶ桜並木をのんびり眺めていた。
「陽斗君、これが桜だよ。綺麗だね~」
「だっ」
今世の誕生月は五月。その頃には既に桜は散った後だったので、佐藤陽斗としてはこれが桜初見だ。
満開ではないにしても、八分咲きといったところか。薄桃色の花弁が風に揺れる度に、ひらりひらりと数枚が空へ舞い上がる。
その光景は前世で何度も見たはずなのに、今こうして赤ん坊の目線で見上げる桜は妙に大きく、そして眩しく感じられた。
流石は日本を代表する花、桜だな。この美しさの前では心が浄化されそうだ。
「ねえ~陽斗君?」
「だ?」
「ママと桜、どっちが綺麗だと思う?」
「……だっ!?」
ちょっとー!? 何を訊いてるんですか母様!?
その質問はあなたの場合父君にするべき内容ですよね!?
てか本来なら赤ん坊に訊くようなことじゃないでしょうが! 普通は答え返ってこないよ!?
「ねぇ~え~、どっちぃ?」
「………………」
ベビーカーの上から覗き込んでくる母様の瞳が何故か笑ってない。本気で訊き出そうとしている!?
……いや違う! 最近俺が母様の名前を全然呼ぼうとしないからワザと言わせようとしているのか!?
これはまずい。まずい状況だ。
ここは実の息子であれど、綺麗なのは母様ですと答えるのがベストだが、俺はまだ発音がダメダメな状態だ。
「はは」から呼び方を変えて「ママ」にしたこともあったが、「ま"ぁばぁ」と発音したのをまたババアに捉えられて恐怖を与えられている。
下手に「おかあさん」や「おふくろ」を持ち出すのもおかしいだろうし、かと言って桜を指さそうものなら今度はどんな目を向けられるか分かったもんじゃない。
どうする、どうするんだ俺……。
「――あ、あぁあのっ!」
どう乗り切るか悩んでいるところに、上ずった声が聞こえてきた。
声がした方向を見ると、若い女性がおどおどした様子でこちらを見ていた。
「は、はい。どうしましたか?」
母様は見ず知らずの女性からの呼びかけに応じる。
「つ、つ、ツツつつつかぬ事お伺いぃいい致しま、すがっ!」
「えーっと、は、はい」
明らかな挙動不審。そして視線があちこちに泳ぎまくりながら、徐々にこちらへと距離を詰めてくる。
酷く緊張している様子とお見受けするが、少々不気味なので母様も少し引いている。
一体俺達に何用だと言うのか。
「も、元アイドルの、たち、橘逢さんですかっ!?」
「……え?」
「だ?」
「……あああれっ!? 違った!? 人違いでしたっ!? ごごごごめんなさい人違いでしたすみませんでしたぁ!?」
「ちょっ、待ってくださいっ」
母様は、青ざめて慌てて逃げ出そうとした女性を呼び止めた。
「……はい、そうです。橘逢で合ってます」
「――っ!!」
女性の青ざめた顔が一瞬でぱあぁっと明るくなる。
次の瞬間には、両手で口元を押さえながらその場で奇妙に飛び跳ね始めた。
「ほ、本物ぉおおおおおっ!? や、やっぱりぃいいいいっ!!」
うるさっ。
春の川沿いに響き渡る歓喜の叫び。近くを歩いていた散歩中のおじさんまで「何だ?」とこちらを見ている。
なんだ、この人ただの母様ファンだったか。
この辺りのママ友さん達はそんなことほとんど気にしない感じで接してたから、こういう反応を見るのは新鮮だな。
「えっと、そこまで大声出さなくても……」
母様は困ったように眉を下げ、頬をぽりぽり掻いた。
「す、すすすみませんっ! あまりにも突然だったのでついっ!」
「は、はあ」
女性は深呼吸を数回繰り返し、どうにか落ち着きを取り戻そうとしている。
だが興奮を抑えきれていないのか、はぁはぁと荒い呼吸を繰り返しながら目を完全に輝かせてこちらを見る。
「あた、私っ! デビューした頃からずっと応援しててっ! 特に橘さんの『君と永遠の恋を』が大好きでっ、ああ!? もちろん他の曲も全部いいですよ! 『あまずっぱオレンジ』とか『観賞用じゃつまんないっ!』とかっ!」
「お、落ち着いて落ち着いて」
「あっ、す、すみませんつい」
女性を落ち着かせる母様。
その後昔を思い出しているのか、少し照れ臭そうに笑った。
「でも、懐かしいですねぇ。もう辞めてしばらく経つのに、あなたは覚えててくれたんですね」
「いや当たり前ですよ! 辞めたって言ってもまだ十年も経ってないですし、橘さんすっごく人気アイドルだったんですから!」
「そ、そんなことないですよ~」
いやあるでしょう。
母様、今かなり謙遜したでしょ。
だってこの人、明らかに限界オタク化してるもん。
「で、でも引退された橘さんとまさかこんなところで会えるなんて、しかも……お子さんまでっ!」
女性の視線が俺へ向く。
まあこれ程我が母様にご執心のファンだ。こちらもファンサでスマイルを返しておこう。
「だぁ」
「あー! 可愛いー!」
ふっ、当然ですな。
この俺が可愛いという自覚はある。
おそらく赤ん坊界男児の部でも上位の存在であるだろう。知らんけど。
「どうしようっ! ウチの子より可愛い、かもしれない!」
……何?
この女性、子持ちか?
「え? あなたにもお子さんが?」
「は、はいっ! 今日は旦那が代わりに面倒見てくれてて、たまには気晴らしに桜でも見てきたらって言われて出てきたんですけど、まさか橘さんに会えるなんて夢にも思いませんでした! 帰ったら、ひろゆきさんに自慢しなきゃ。えへへ、絶対羨ましがる」
女性は悪巧みをしているようにニヤニヤとしていたが、やがてハッとしたように姿勢を正した。
「す、すみませんっ! 突然お声掛けしちゃって!」
「ああいえ、別に構いませんから」
「あのっ、そのっ、もしご迷惑じゃなければ、握手……してもらっても――」
「ええもちろん」
もじもじとしながら差し出してきた女性の右手にすかさず両手を被せる母様。
元アイドルだから握手会も経験してきたのだろう。動きが手馴れている感じがした。
「――――――!!?!?」
女性は顔を真っ赤にして言葉では表せない奇声を上げている。
まあ好きなアイドルから不意打ちのボディタッチされたらそうもなるか。
「あ、もし良かったらウチの陽斗君にも握手してもらいます?」
「……は、はえ? は、はいぃ」
脳がオーバーヒートしている状態の女性は、少しふらつきながら俺の小さな手に触れる。
俺も母様と同じように両手で女性の手を握ってあげた。
正確には女性の指をぎゅっと握り込んだ。
「えっ、あれ……は、陽斗君? は、離さないっ!?」
「おやおや~? どうやら気に入っちゃったみたいですねぇ」
母様が面白そうに目を細める。
「え、えええっ!? 嘘、嘘でしょ!? 可愛い暴力じゃないですかこれぇっ!」
女性は半泣きのような笑顔で、握られた指を見つめたまま固まっている。
残念ながら気に入った訳ではない。
この女性からはもう少し情報を得たいと思ったからだ。
男か女か定かではないが、子持ちの女性であるならば、苗字が何なのか知っておきたい。
我が母様は人間関係を築くのが上手い方だ。俺がこうしてこの指を離さないでいれば――
「……あの、もし良ければなんですが、また会って頂けませんか?」
「……え? え? ふぇええええっ!?」
ビンゴだ。
「陽斗君もすっかりあなたのことを気に入ったみたいですし、お子さんがいるならそういった話もいろいろできると思うんです」
「ええええっとおおおおとととととっと」
女性の首から上が壊れたロボットのようにカクカクと前後左右に動いている。
「あ、ご迷惑でした? それとも、この辺りの方じゃないとか」
「いえっ! 全然迷惑ではございませぬっ! ここから徒歩十分くらいの所に住んでますんでマジっ!」
「そうなんですね、良かったぁ。じゃあ、これからよろしくお願いしますね?」
「!?!?!!!?!?」
フリーになっている女性の片手にもう一度両手握手をする母様。
いや、流石にこれはファンサが過ぎますよ母様。
この人もうなんか、いろいろと限界が近そうです。
小さい声で「あたし、今日死んでもいいかも……」みたいな声が聞こえてきてますんで。
「そういえば、まだお名前を訊いてませんでしたね?」
「え? あ、ああああああっ!? すみませんすみません私としたことがっ!」
女性は勢いよく頭を何度も下げて謝罪する。
ナイスコミュニケーションですぜ母様。やはりこの方は尊敬に値する人物だ。
これでこの女性の名前を知ることができる。
念の為にどこかへ行かないよう指はまだ離さないでおこう。
さあ教えてくれ。あなたの名を――苗字を。
「わ、私、柚葉って言います! 桜庭柚葉ですっ!」
――桜庭。
その言葉を理解した瞬間、俺の脳内でファンファーレが鳴り響いた。
「だあぁあああああああああああああああっ!!(きたぁああああああああああああああっ!!)」
「いだだだだだっ!? 急に何っ!? 何が起きたのっ!?」
喜びのあまり力いっぱい女性――柚葉さんの指を握り締めてしまったが、そんなことはどうでもいい。
俺は巡り合ったのだ。
桜庭という苗字に。
この出会いを祝福するかのように、桜の花弁が風に舞い、花吹雪となって俺達を包み込んだ。




