佐藤だったので苗字を変えたいです
(嘘、だろ……)
佐藤。さとう。サトウ。
俺はまた、佐藤姓に生まれ落ちたというのか……。
心の中の俺が、静かに膝から崩れ落ちる。
――いや、まだだ。まだ可能性はある。
聞き間違いかもしれない。
佐藤幸一郎さんはこの家の居候であって、俺の実父ではないかもしれない。
確認だ。冷静に確認するんだ。
その後、俺は赤ん坊ながらできる範囲で苗字確認を始めた。
この家に郵送されたであろう郵便物の宛名。
佐藤。
近くの公園へお散歩がてら母様に抱っこされ外に出た際、玄関先で目視した我が家の表札。
佐藤。
母様と仲が良い近所の奥様からの呼びかけ。
「あら佐藤さんこんにちわ~」
そして。
「逢~、ただいま~」
「おかえりなさ~い幸く~ん。ぎゅ~」
「おいおい帰って早々か? いつまでも甘えん坊だな。ぎゅ~」
「えへへ〜。あ、そうだ。幸君宛てに荷物届いてたよ〜」
幸君。帰宅早々の新婚さんイチャラブハグ。佐藤幸一郎宛の荷物提示。
よし、謎は全て解けた!
僕、佐藤さんでちゅ!
「だだぁよっ!!(何でだよっ!!)」
赤ちゃん語、略して赤語で絶叫する。
いや確かに日本で一番多い苗字だけど! 確率的に言えば引く可能性は十分高いけども!
だからってよりにもよって二連続で引くか普通!?
神様も閻魔大王様も俺で遊んでやがるんですかっ!? 「や〜い、お前またさ〜とう」って馬鹿にしてやがるんですかねぇ!
「はると〜、たっだいま〜」
今世の父君である幸一郎氏が俺のベッドまでやってくる。およそ百八十はあろう高身長。清潔感漂う短髪で、黒縁メガネを外せば誰もがイケメンと称す整った顔立ちをしている。
ふむ。この父君と絶世美女の母様とのハイブリットとして生まれ出た俺は、何事もなければきっと見た目だけは優秀な男子として成長していくだろう。
でも佐藤だっ! どう足掻いても佐藤でしかないっ!
イケメンのDNAなんかいらないっ! 違う苗字が、違う苗字がいいのぉ!!
「あーっ!! あーっ!!」
「お、どうしたどうした。そんなに元気に泣いて」
「はると君パパ大好きだから、帰ってきて嬉し泣きしてるのね。かわいい~」
断じて違うわ!
これは慟哭だ! 悲しくて泣いとるんじゃ! 愛情表現じゃない!
しかし現実は無情。俺の全力のツッコミは「だー! だぁー!」という無力な赤語に変換され、何故かご機嫌状態だと勘違いされた。
くそっ、言語の壁が厚すぎる! 同じ日本人なのにっ!
「ほ〜らほら、抱っこするぞ〜」
俺は軽々と持ち上げられて視界がぐんと高くなり、今世の父、幸一郎の顔が間近に迫る。
間近で見て再認識するが、顔は本当に良いんだよなこの人。優しさ溢れる爽やか系サラリーマンって感じで、会社でも絶対モテるタイプだろう。
正直ガチで自慢しても恥ずかしくない理想の父親像だ。
これで佐藤でなければなぁ!
「いででででっ!? ちょっと、髪引っ張らないでっ! ダメだってはると!」
うるさいっ! 言語が無理なら実力行使で抗議してやる! 八つ当たり万歳!
「抜けるっ!? 髪抜ける……ん?」
俺が髪の毛を毟り取ろうとしている中、我が父は視線をテレビに向ける。
今画面に映し出されていたのは『あの頃の歌謡祭 ベストセレクション』という特番だ。
「ほ〜ら、はると。ママの可愛い姿だぞ〜」
「だ?」
髪を引っ張る手を止めた俺の視線の先。テレビ画面に映っていたのは、スポットライトを浴びてマイクを握る一人の女性。
オレンジ色の大きなリボンを付けたサイドテールに白い手袋。ふんわりと広がるスカートの裾にキラキラと光るラメが散りばめられた、オレンジ色のミニドレス。
今とほとんど変わらぬ整った顔立ちに、眩しいほどの笑顔。観客の歓声を一身に浴びながら、堂々とステージの中心でで歌い上げている。
若かりし母様の姿がそこにあった。
どゆこと?
「も~、恥ずかしいよ幸く~ん」
「とか言って、逢だってはるとに昔のアイドル姿見せてあげたかったから、このチャンネル入れてたんじゃないの?」
「ん~、まあそれはちょびっとある」
「ちょびっとじゃないだろ~?」
「ホントにちょびっとだけだも~ん!」
こらこら、俺を抱えたまま二人でイチャつき始めるな。息子の立場的になんか居たたまれない。
それはともかく、まさか母様が元アイドルだったとは。
画面が切り替わり、司会者達のトークから今の映像は俺が前世の頃放送していたものだと知る。
特番の歌謡祭に出てたくらいだから相当有名なアイドルだったのだろうか。
現実世界のアイドルよりも、Vtuberの方に興味が向いてたから全然知らなかった。
「しかしこの時はまさか本名で活動してるとは思わなかったよ」
「まあ橘逢ならわざわざ芸名に変える必要感じなかったからね~」
確かに元々アイドルっぽい名前だもんな。無理に考えた芸名なんかよりそのままの方が、何かしっくりくる。
橘。橘逢。
うん、良い響きじゃない。
たちばなあい。
たちばな、ね。
たちばな――
「だぁ~びぃ~ぶぁ~ぶぁああああああああああああああああっ(たぁ〜ちぃ〜ばぁ〜なぁああああああああああああああああっ)!!?」
「うぉあっ!? 何だどうしたはると!?」
「なになに!? はるとっ!? そんな鬼みたいな顔して叫ぶなんて初めてだよっ!?」
叫びたくもなるわっ!!
橘だぞっ!? 本来の柑橘系のような爽やかさに、古風で上品な響き。それでいて神秘的な雰囲気を兼ね備えた人気苗字、『橘』だぞっ!?
何でそっちにしてくれなかったんだよバカやろぉおおおおおっ!!
「ああああああああああああああっ!!」
「お、おいはるとっ!? 本当にどうしたっ!? 荒れ狂いすぎじゃないかっ!?」
「お腹空いたのかな!? それともオムツ!?」
違うそうじゃねえっ! どっちも今はノーセンキューだ!
俺は欲しいものを手にせんと全力で母様、橘逢へと手を伸ばす。
届けこの想い! 伝われ魂の叫び!
その苗字、俺にくれっ!!
「ま、ママがいいの!? はるとママのとこ来たいの!?」
違う! 違わないけど違う!
方向性としては近いけど、決定的に違う!
「よし逢、任せたっ!」
「任されたっ!」
母様が父君から俺を受け取る。
「よしよし、どうしたの〜? そんなに泣いちゃって〜?」
「だぁあああ!(苗字ぃいいい!)」
「あ~、やっぱりママが良かったのね~。ごめんね~」
くそやっぱり通じねぇ! 俺は何て無力なんだ!
俺は絶望する。この圧倒的言語格差社会に。
そのまま優しく抱き抱えられていると、ふわりと甘い香りが俺の鼻をくすぐった。
ああ……癒される。浄化される――少し落ち着いた。
落ち着いたおかげで冷静に脳を働かせられた。
そうだよ。現状、俺がいくら手を伸ばそうと暴れ狂おうと、苗字を変えることは不可能だ。
欲しいからと言って今すぐ橘の姓に変更できるほど、日本の法律は寛容ではない。
だからこそ、法律に則った手段を取る必要がある。
今考えられる最適な方法となると、『養子縁組』だな。
母様の親族である祖父母や叔父叔母、健在ならば曾祖父母でもいい。橘姓を持つ誰かの養子として俺が貰われれば、合法的に橘を名乗ることが許される。
今は流石に喋れないから、ある程度成長した時に「お父様、お母様。自分を橘の家へ養子に出すことを検討してもらえませんか?」と相談を持ち掛けるしかないな。
実の息子から養子に出してくれ、なんて言うのは異常かもしれんし、母様と父君に悲しい顔をさせてしまうかもしれない。
でもごめん。俺、どうしても『橘』が欲しいんだ。
「それにしても橘、橘逢かぁ」
「ん? どうしたの?」
「いやね、実は逢が橘から佐藤になったの、最初ちょっと申し訳なく思っちゃったんだよな。折角綺麗な苗字だったのに、何となく壊しちゃったみたいに思えて」
あれ? なんだい父君。あなたも橘の姓に興味がおありで?
では素晴らしい提案をしよう。父君も橘にならないか?
実際、既婚者でもどちらかの親に養子縁組をしてもらうことは出来なくないはずだしな。
……あれ? その場合俺の苗字はどうなるんだっけ? ちゃんと俺も変わるんだっけか?
「え〜? そうかなぁ? 私は幸君と同じ苗字になれてすーっごく嬉しかったけど?」
「何で?」
「ほら、私って一人っ子だし、親も親戚も疎遠じゃん?」
「まあ、そうだな」
養子縁組の仕組みについて考えていたら、それ自体出来ない方向に話が進んでいた。
橘家の家庭環境は俺が思っていたものより意外と深刻な状態のようだ。
存在はしているが、疎遠となると俺の養子縁組はほぼ実現不可能だろう。相談する前に破談となってしまった。
何故だ! 何故こうも俺を橘の姓から遠ざける!
神よ! 閻魔大王よ! 全て貴方達の所業か!?
俺、貴方達に何か悪いことしましたか!? 記憶に御座いません!
だがまだだ。まだ俺は諦めんぞ。
やりたくはないが、こうなったらプランBに移行するしかない。
プランB――『離婚』だ。
離婚すれば父君は佐藤のままだが、母様は旧姓である橘へ強制的に戻される。
その時に俺という子供の親権を母様が勝ち取ってくれれば、俺は晴れて橘を名乗ることができる。
いやはや、我ながら最低な考えをする脳みそだ。
母様も父君も、まさか今抱き抱えられている赤ん坊が、我欲の為に仲を引き裂こうと画策してるなんて夢にも思わないだろう。
この世に再び舞い降りさせてくれたことには深く感謝しているが、最優先事項には代えられない。
橘の姓を手に入れる為ならば、俺は邪鬼にでも悪魔にでもなってやる!
「えっと、その……、同じ苗字って家族って感じがするじゃん? だから、佐藤に変わった時、こ、幸君と本当に一緒になれたんだなぁって思えて……う、嬉しかった、し」
いぎゃああああああああああああああああっ!!
そのセリフで、俺の我欲に塗れた浅ましく醜い願望は、跡形もなく祓われた。
ああ、そうか……。そうだよなぁ……。
結婚って、そういうもんだよなぁ。
母様にとっては『橘』って苗字よりも、父君との幸せの方が大切に決まってるじゃん。
「……そっか」
その言葉を聞いた父君は、一瞬だけ驚いた顔をした後、少しだけ照れたように笑った。
「ありがとう。そう言ってもらえて俺も嬉しいよ、逢」
「……幸君」
それ以上言葉は続かなかった。
けれど二人は、自然とお互いの顔を見つめ合い――接吻を交わした。
息子の前だというのもお構いなしに。
――完全敗北である。
さっきまで「橘の為なら離婚も辞さない」とかいう邪悪な計画を企てていた自分が、今やただの恥ずかしい存在に成り下がっている。穴があったら入りたい。
何だこの破壊力。新婚の尊さなめてたわ。壊せないよこんなの。
苗字という概念が、如何に表面的なものかを思い知らされた気分だ。
少なくとも、俺にとって苗字は大事なものである。
でもそれ以上に、『誰と同じ苗字か』って方がよっぽど重い。
その結論に至った時点で、俺の負けは確定していたのだ。
あー、何かもう、佐藤でもいい、か。
苗字なんか気にしないで、母様と父君と一緒に二度目の人生を歩いていく。それもまた一つの幸せの形だよな。
正直昔よりいい環境に生まれたことは間違いないし、生活に困りそうなこともまずなさそうだ。何不自由なく生きて、今度こそ爺さんになるまで生き抜いてみたいなぁ。将来は何になるかまだ決めてないけど、それはこれから考えても遅くはないよな。俺はまだ赤ん坊だから考える時間はいくらだってある。あ、前世では友達なんて全然作れなかったから頑張って作ってみようかな。作ると言えば、やっぱ男としちゃ彼女も欲しいよな。中学か、高校くらいには可愛い彼女と青春を謳歌して、できれば二十代後半くらいには長年付き添った彼女とめでたくゴールイ――ん?
もう苗字なんてどうでもいい。
そんな諦めかけていた俺の脳内に、ふと一筋の光が差し込んだ気がした。
まるで暗闇の中に突如現れたステージの上で、ある一つの可能性だけをスポットライトで鮮明に照らし出しているかのようだ。
脳内の俺はその光に向かってゆっくりと歩きだす。
俺は今何を考えていた?
どんな可能性に気付いた?
何故この考えが浮かばなかった?
光に向かうごとに、答えが湧き上がってくる。
彼女。
ゴールイン。
結婚。
お嫁さん。――否っ!
「お婿さんっ!!」
スポットライトを浴びていた可能性という名の塊。俺はステージの上でその塊を掴み取った。
瞬間、暗闇は俺を中心に搔き消されていった。




