第五話:隠れ蓑とタルンカッペ【前編】
朝の澄んだ光が、エルウィン洋品店の磨き上げられたガラス窓から差し込んでいた。
「どうかしら、茜さん? 似合ってる……?」
試着スペースのカーテンが開き、灰色の耳を恥ずかしそうにパタンと寝かせたヤンが姿を現した。昨夜、エルウィンが裁ち、私が採寸と仮縫いを手伝った新しい作業着、ダークネイビーの頑丈なツイル生地で仕立てたサロペット。肩回りや股上には、彼女の跳躍や素早い動きを一切邪魔しない伸縮性のあるマチを組み込んであり、ウエストの低い位置にはツール類を下げられる太めのレザーベルトを巻いてある。
「すっごく可愛いわ、ヤンちゃん! ネイビーとアッシュグレーの毛並みがすごく映えてる!」
「本当ね! 動きやすそうなのに、すっきりしていて格好いいわ!」
私とエルウィンが手を叩いて絶賛すると、ヤンは顔を真っ赤にして、ふさふさの尻尾を恥ずかしそうに左右へぶんぶん振った。
「も、もうっ、大げさなんだから……! でも……うん、すっごく動きやすい。どこも突っ張らないし、服を着てるのを忘れそうなくらい軽いよ」
ヤンは嬉しそうに、その場で軽やかに跳び上がってみせた。着地した足音は、驚くほど静かだ。
「ふにゃあ」
足元では、日当たりの良い木箱から下りてきたモモが、ヤンの新しいサロペットの裾にすりすりと体を擦り付けていた。
「モモも似合ってるって言ってるわね。よし、これでヤンちゃんも立派なエルウィン洋品店の看板スタッフね!」
「へへ……任せてよ。なんでも手伝うからさ!」
ヤンがシャツの袖を捲り上げ、頼もしく胸を張る。
「あーっ! ちょっと待ってヤンちゃん!」
脱いだばかりの服を雑に丸めて投げ置こうとしたヤンに、私の雷が落ちた。
「うわっ!? な、なに急に!?」
「ダメ! 服を丸めて置くなんて絶対にダメ! ハンガーのフックは全部左向きに揃える! 畳む時は縫い目に沿ってシワを伸ばしてから! 生地が泣いてるでしょ!?」
「き、生地が泣く……!? うわ、茜の目がマジだ……!」
私が凄まじい手つきで一瞬にして服を綺麗に折り畳んで見せると、ヤンは灰色の耳をペタンと倒してエルウィンの後ろへ隠れた。
「ねえエルウィン……茜って、服のことになるとちょっと怖くない……?」
「ふふ、服屋さんの職業病ね」
新しい仲間が加わり、店内には以前にも増して温かく明るい活気が満ちていた。
「さて、エルウィンさん。昨日採集してきた金羊毛だけど、服にする前にもう一度しっかり洗浄して、ゴミを取り除いてから毛並みを揃えないとね」
「ええ。繊維をほぐして揃えるためのカーディングブラシが必要かしら。干すための日当たりの良いラックも用意しないと」
「そのあたりも準備を進めましょう」
私たちが今後の作業工程を相談していた、その時。からん、からんと、店舗のドアに取り付けられたカウベルが慌ただしく鳴り響いた。
「た、頼む……! 誰か、衣装の相談に乗ってくれ……!」
店内に滑り込んできたのは、ひときわ目を引く華やかな人物だった。刺繍の施されたワインレッドのジャケットに、フリルたっぷりのシャツ。頭には大きな羽飾りのついたハットをかぶっている。三十代半ばほどの、細身で仕草の大きな男性だ。だが、その派手な装いとは裏腹に、表情は切迫しており、おでこにはじんわりと汗が滲んでいた。
「いらっしゃいませ! 何かお探しですか?」
私が前に出ると、男はすがるような目で私とエルウィンを交互に見つめた。
「ああ、よかった……! 噂を聞いて来てみたんだが、本当に営業していたんだね! ボクは旅の劇団『月銀一座』で座長兼演出をやっているマルコという者だ!」
「劇団の座長様ですか! 素敵なお召し物ですね」
「ありがとう。だが、いま深刻な問題に直面しているんだよ!」
マルコは身振り手振りを交えながら、劇的な調子で語り始めた。
「実は今週末から、この街の劇場で新作舞台『影の英雄伝』の公演が始まるんだ。だが……クライマックスのシーンで、どうしても解決できない演出の壁にぶつかってしまって」
「クライマックスの演出……ですか?」
エルウィンが首を傾げる。
「そうなんだよ! 物語の佳境、主役の影の英雄が、敵の包囲網を前にして『闇の中にスッと気配を消し、静かに姿を消す』という決定的な見せ場があるんだ。……だが、それをどう表現すればいいかがサッパリ分からないんだよ!」
「姿を消す演出……。普通なら魔法を使うか、煙幕の魔道具を使うのが一般的じゃないかしら?」
エルウィンが尋ねると、マルコは盛大に頭を抱えた。
「最初はボクもそう考えたさ! だがね、煙幕の魔道具を使ったら、舞台上が焦げ臭い煙で包まれて、客席の観客がゲホゲホと咳き込んで劇どころじゃなくなってしまった! それに魔法使いと契約するのは高すぎる上、発動した瞬間に光と音が鳴ってしまうんだ! これじゃ、静かに闇に溶け込むという繊細な雰囲気が台無しだろう!?」
「たしかに……光や煙が出ちゃったら、台無しね」
ヤンが腕を組んで頷く。
「そうなんだよ! ボクが求めているのは、派手なマジックじゃない! 役者の演技と衣装の美しさを活かした、劇的で幻想的な消失なんだ! 何か……衣装や小物の力で、舞台上で静かに姿を消せるような都合の良いアイテムはないだろうか!?」
マルコは祈るように両手を合わせた。舞台演出としての消失。単に物理的に見えなくなれば良いという話ではない。観客の視線を誘導し、空間の雰囲気を一変させるような「魅せる演出」が求められている。
(服や装飾品の力で、気配や姿を消す……)
私はエルウィンと視線を交わした。エルウィンもピンと来たようで、奥の鍵付き棚へと足を向けた。
「マルコ様。お客様の求める演出に、ピッタリかもしれないお品が二つございます。こちらへどうぞ」
私はマルコを、奥のアクセントコーナーのカウンターへと案内した。カウンターの上に並べられたのは、質感のまったく異なる二つの羽織りだった。ひとつは、枯れた藁や特殊な草の繊維で丁寧に編み込まれた、素朴だがどこか神秘的な雰囲気を纏う小ぶりの蓑。
隠れ蓑。もうひとつは、深く艶やかな漆黒の生地で作られた、フード付きの上質なショートケープ。タルンカッペ。私がそっと指先でそれぞれの生地に触れると、脳裏に澄んだ情報が流れてきた。
『隠れ蓑。伝承級。着用者の存在感および気配を極限まで薄め、周囲の風景や影へと溶け込ませる。効果:気配遮断、存在認識の希薄化』
『タルンカッペ。伝承級。フードを被ることで着用者の姿を完全透明化させる。付与された魔力により、着用者の身体能力が大幅に引き上げられる』
(気配を殺して影に溶け込む『隠れ蓑』と、完全透明化の『タルンカッペ』……!)
どちらも消えるという効能を持っているが、そのアプローチと付加効果はまったく異なる。
「おお……! どちらも見た目からして、ただならぬ雰囲気を漂わせているね!」
マルコが目を輝かせて身を乗り出した。
「はい。こちらが隠れ蓑、そしてこちらがタルンカッペでございます。どちらも姿や気配を消すアイテムですが、効果の現れ方がまったく異なりますの」
「どう違うんだい? ぜひ詳しく教えておくれ!」
「では、実際に試着して確かめてみましょう!」
アパレルにおける基本、それは試着して体感してもらうこと。私は店内の中央スペースを少し広げると、ヤンに声をかけた。
「ヤンちゃん、ちょっとモデルをお願いできるかしら?」
「えっ、あたし!? う、うん、いいけど……」
ヤンが少し緊張しながら前に出た。
「まずは、こちらのタルンカッペから試してみましょう」
私は周りの木箱を退けてから、漆黒のケープをヤンの肩に羽織らせた。
「力も強くなるそうだから、まずは動かずにいてね」
ヤンが頷いてから、深いフードを頭の上からすっぽりと被せた。次の瞬間。シュッ……!
「うわああっ!?」
マルコがひっくり返りそうな声を上げた。さっきまでそこに立っていたヤンの姿が、服もろとも完全に消え去り、何もない空間が広がっていたのだ。
「す、すごい……! 影も形もない! どこへ行ったんだ!?」
「あたし、ここにいるよ」
声が聞こえた直後、ガチャン! と激しい音が響いた。
「きゃっ!? ご、ごめん茜! フードの端を直そうとしたら、棚に手が当たっちゃった……!」
何もない空間から、焦ったヤンの声が聞こえる。私は慌てて手探りでヤンのフードを脱がせた。すると、ぽかんとした顔のヤンが姿を現した。
「な、なんだろう……フードを被った瞬間、全身に力が満ちあふれてきて、自分でも力加減が分からなくなっちゃって……」
「ええ。このタルンカッペは完全な透明化に加えて、付与された魔力によって身体能力まで大幅に引き上げられるのです」
私はマルコに向き直り、解説を加えた。
「ご覧の通り、このタルンカッペの透明化は完璧です。ですが、あまりにも完全に消えすぎるため、広い舞台の上で使うと、観客は役者がどこへ消えたのか完全に見失ってしまいます。さらに、能力強化のせいで、迫真の演技中に舞台セットや小道具を壊してしまう危険性もありますわ」
「た、たしかに……! 舞台上でセットを破壊されたら溜まったもんじゃないし、観客が置いてけぼりになるのも困るね……!」
マルコが汗を拭きながら深く頷いた。




