第五話:隠れ蓑とタルンカッペ【後編】
「では次に、こちらの隠れ蓑を試してみましょう」
今度は、素朴な藁の蓑をヤンの肩にふわりと掛けた。すると、今度はヤンの姿が完全に消えるわけではなかった。彼女は依然としてそこに立っている。だが。
「……あれ?」
マルコが目をパチパチと瞬かせた。確かにそこにヤンは立っているのに、まるで背景の壁や影と同化しているかのように、存在感が驚くほどスッと薄れていたのだ。視線を少しでも外すと、そこに人がいることすら忘れてしまいそうになる。
「意識して見ようとしないと、存在に気づけない……!? 最初から誰もいなかったみたいだ」
「これが隠れ蓑の力です」
私はふわりと微笑み、演出の提案を重ねた。
「完全透明化ではなく、存在感と気配を極限まで薄める効果。これこそが、舞台演出において大きな武器になります」
「舞台演出の武器……?」
「はい。観客に消えた瞬間を直接見せるのではありません。役者様が蓑を翻して影へと歩み寄り、照明を落とす……。暗がりに入った瞬間、蓑の力で存在感がさらに薄れる。気づいたときには、もうそこに誰もいない」
「……っ!!」
マルコの顔つきが一変した。マルコは指先で照明の位置を示し、蓑を見ながら何度も頷いた。
「観客の意識から気配を消す……! 照明と役者の身のこなしを組み合わせることで、これ以上なく幻想的で劇的な消失が完成する!」
「ええ。身体能力への影響もありませんから、役者様が思い通りの力加減で繊細な演技に集中できますわ」
「す……素晴らしい……! 完璧だ、完璧すぎるよ!!」
マルコは叫ぶと、私の両手を固く握りしめた。
「ボクが求めていたのはこれだ! ただ消えるだけじゃない、演劇としての美しさを高めてくれる最高の衣装だ! 店員さん、この隠れ蓑を買わせてくれ!」
「ありがとうございます! お値段は金貨七枚になります!」
「決して安くはないが、公演で繰り返し使えるなら頼みたい!」
マルコは金貨七枚を取り出し、カウンターに並べた。
「ああ、そうだ! ついでと言っちゃあなんだが……」
会計を済ませたマルコが、思い出したように自分の衣装の胸元を指差した。
「実は、主役の衣装に使っている金属のバックルと肩当ての金具が、前回の稽古で変形して壊れてしまってね。この街で、細かい金属加工や補修をやってくれる腕の良い鍛冶屋を知らないかい?」
「金具の補修ですか?」
私がエルウィンを見ると、エルウィンはニッコリと微笑んで頷いた。
「それなら、ぴったりの鍛冶工房を知っているわ! 腕は確かだし、うちのお店も昔からお世話になっているの」
「本当かい!? ぜひ紹介しておくれ!」
「ええ! 茜さん、ヤンちゃん、ちょうど金羊毛の作業に使う道具の相談もしたかったし、みんなでご挨拶に行きましょうか!」
「はい! ぜひ行ってみたいです!」
私は店の扉に、午後の営業時刻を記した札を掛けた。街の東側に位置する『鍛冶屋通り』は、一歩足を踏み入れると、ズシンズシンと地響きのような重低音が響く活気あふれるエリアだった。あちこちの工房から立ち上る黒煙と、鉄を叩く金属音。煤と熱気が通り全体に立ち込めている。
「ここよ。『鉄槌工房』」
エルウィンが足を止めたのは、通りの中でもひときわ重厚な石造りの工房の前だった。オープンになった作業場の奥では、メラメラと赤く燃え上がる巨大な炉が炎を上げており、その手前にひとりの人物が立っていた。身の丈は百二十センチほどと小柄だが、丸太のように太い腕と、岩石のように引き締まった強靭な体。そして何より目を引いたのは、その顔の下半分を覆う、見事なまでに編み込まれた艶やかな顎髭だった。
(わっ……立派なお髭)
私が驚いて凝視していると、エルウィンが楽しそうに耳元で囁いた。
「ドワーフ族よ。女も髭を生やすの。むしろ立派な顎髭は美人の証なんだから」
(女性なんだ! 女性の顎髭……! 異種族の文化か)
作業場の人物が、巨大なハンマーを振り下ろす。カンンンッ!!激しい火花が散り、熱せられた鉄が鮮やかに形を変えていく。無駄のない美しく力強い打着。
「ヘルガ!」
エルウィンが声をかけると、ハンマーの手がピタリと止まった。作業場の主、鍛冶屋・女ドワーフヘルガが振り返り、太い眉を上げて編み込まれた顎髭を揺らした。
(すごい……! あんなに立派で艶やかなお髭……! 可愛いシュシュでデコレーションしたら、絶対めちゃくちゃ映える……! 編み込みの先にくすみカラーのヘアゴムをつけたい……!)
「……ねえ、茜? なんかアンタ、すごい顔して髭のおばちゃん見てるけど」
ヤンに袖を引っ張られてハッと我に返る。危ない、初対面のドワーフさんの髭を勝手にスタイリングしようとして不審がられるところだった。
「なんだい、エルウィンか! 珍しい顔が揃ってるじゃないか」
声は低く力強いが、どこか温かみのある響きを含んでいた。
「ご無沙汰しているわ、ヘルガ。組合の仕事は一段落した? 今日は新しいお店の仲間と、お客様を連れてきたの」
「組合長なんて引き受けるもんじゃないね。書類ばかり増えて、鎚を持つ時間が減っちまうよ」
「ふん……新しい仲間かね」
ヘルガの鋭い琥珀色の瞳が、私とヤン、マルコをじろりと検分するように動いた。そして、私の腰にあるメジャーやハサミ、そして着こなしている服の縫製へ視線が止まる。
「そっちの小娘、タダ者じゃないね。服の仕立て屋かい? いい目つきだ」
「初めまして、ヘルガさん。柊茜と申します。エルウィン洋品店で販売と仕立てを担当しています」
「あたしはヤン! よろしくね、髭のおばちゃん!」
「ガハハハ! 威勢が良いねぇ。髭のおばちゃんか、気に入ったよ!」
ヘルガは豪快に腹を揺らして笑うと、編み込まれた顎髭を誇らしげに手で撫でつけた。
「あたしはヘルガ・アイアンブラッド。この工房の主だ。で、何の用だい? エルウィンが連れてきたってことは、無茶な注文かね?」
「ふふ、実はね……」
マルコが前に出ると、壊れた衣装のバックルと金属パーツを差し出した。ヘルガはそれを太い指先でつまみ上げ、じっくりと観察する。
「ふむ……舞台衣装の金具か。華やかだが、強度と構造が適当だね。これじゃあ激しい動きに耐えられずに曲がるのも当然だ」
「直せるかしら、ヘルガさん?」
「ハッ、あたしを誰だと思ってるんだい! 直すだけじゃない、強度を維持しつつ動きを邪魔しないように、裏補修を入れて鍛え直してやるさ!」
ヘルガが頼もしく胸を叩く。マルコは、
「おお……! 素晴らしい!」
と感動して手を合わせた。
「それからね、ヘルガさん。うちの店でも頼みたいことがあって」
私はウエストポーチから、採集してきた金羊毛の原毛のサンプルを取り出してヘルガに見せた。
「この金羊毛をきれいに洗って、繊維を解して揃えるための、大型のカーディングブラシを作っていただきたいんです」
ヘルガが金羊毛の原毛を受け取り、その極上の手触りに目を見張った。
「ほう……! これは上質な金羊毛だねぇ! なるほど、この繊維を殺さずに整えるには、並の櫛じゃダメだ」
「はい。ブラシの針には、適度なシナリと滑らかさが必要なんです」
「そうなると、山の深部で根のように伸びる、特殊な鉱物繊維、『鉱糸』を混ぜて鍛えた鋼がいるな。それなら繊維を一切傷つけずに完璧にすける」
(山の深部で根のように伸びる鉱物繊維……!)
さらりと語られた職人のこだわりに、私の胸が熱くなった。
「金属と服飾……分野は違いますが、使う人のことを一番に考える職人魂は同じですね。ヘルガさん、ぜひよろしくお願いします!」
「ガハハ! 分かってるじゃないか、茜! いいよ、あたしも本気で最高の道具を叩き上げてやる!」
ヘルガは太い手で私の手をガシッと握りしめた。その手のひらは、長年の鍛冶で固く鍛え上げられており、温かい職人の誇りに満ちていた。注文を記した板を、ヘルガは炉から離れた壁へ掛けた。マルコの金具と、うちのブラシ。その二つの絵が並んでいた。
夕暮れ時。大満足で劇団へ戻っていったマルコを見送り、私とエルウィン、ヤンの三人は心地よい疲労感とともにエルウィン洋品店へと帰ってきた。
「ただいま、モモ!」
扉を開けると、日当たりの木箱から下りてきた三毛猫のモモが、「ふにゃ〜ん」と甘い声で迎えてくれた。ヤンがサッと膝をつき、慣れた手つきで干し肉の皿を床に置く。モモは一切の足音を立てずにすっと歩み寄ると、美味しそうに干し肉をカリカリと食べ始めた。ヤンが嬉しそうにその頭を撫でている。
「ふふ、今日は新しいお客様に、ヘルガさんという頼もしい味方もできたわね」
エルウィンが温かいハーブティーをカップに注ぎながら微笑んだ。
「はい! 舞台の上で隠れ蓑がどんなふうに輝くのか、週末の公演がすごく楽しみです!」
私は今日の売り上げと新しい繋がりを書き終えた帳簿を眺め、満足げに微笑んだ。帳簿を閉じると、エルウィンは奥の織り機の覆いを外した。その隣には、細い糸を巻いた小さな木枠がある。
「父の古い道具よ。魔力のある音や気配を糸に留めるための枠。普通の声や物音は取れないんだけどね」
触っても、今は乾いた木の感触しかなかった。私は枠を棚へ戻し、織り機の埃をエルウィンと一緒に払った。




