第六話:巡る水のカーテン【前編】
エルウィン洋品店の裏手には、街中を網の目のように巡る石造りの用水路に面した、小さな荷揚げ用の船着き場があった。陽光が水面に反射し、裏庭の石壁にゆらゆらと光の波紋を映し出している。洗濯物を干し終えたヤンが、サロペットのポケットに手を突っ込みながら、川面をぼんやりと眺めていた。
「ねえ茜、この水路ってどこまで繋がってるの?」
「街の外の大きな湖や、もっと先の内海まで繋がっているらしいわよ。昔はここから直接、船で生地を搬入していたんですって」
私が作業台から顔を上げて答えると、足元でモモが「ふにゃあ」と小さく鳴いた。日向ぼっこをしていたはずのモモが、ふと耳をピクリと動かし、水路の縁へ向けて抜き足差し足で歩き出す。ポチャリ、と水底から気泡が弾ける音がした。
「……ん? なんか浮いてきたぞ」
ヤンが水路を覗き込んだ、その瞬間だった。バシャアンッ!澄んだ水しぶきを派手に跳ね上げ、水面からひとつの人影が勢いよく飛び出してきた。
「ぷはあっ! や、やっと着いた……!」
濡れて陽光にきらめく長い群青色の髪。抜けるように白い肌に、大きな藍色の瞳。胸元には、艶やかな二枚の扇貝を銀色の細紐で結わえただけの、極めて簡素な貝殻のビキニ。そして水面下でゆらめいているのは、光の角度によってエメラルドから濃紺へと鮮やかに色を変える、巨大で見事な魚の尾びれだった。
「に、人魚……!?」
ヤンが目を丸くして叫んだ。人魚の女性は船着き場の石段に両手をかけ、ふうと息を吐くと、真剣な顔で下半身に意識を集中させた。
「ええいっ……人の脚になぁれ……!」
彼女の尾びれが淡い蒼い光に包まれる。鱗がさらさらとほどけるように溶け、二本の白くしなやかな人間の脚へと輪郭を変えていった。
「よしっ、立てる……わきゃっ!?」
石段に足をかけた瞬間、慣れない足首の関節がグラリと折れ曲がり、彼女の身体が前方へと大きく傾いた。
「うわっ、危ねえ!」
ヤンがとっさに前へ飛び出し、倒れ込んできた彼女の身体を正面からガシッと抱きとめた。ピキリ。石畳の上で、二人の動きが完全に停止した。ヤンは突然腕の中へ飛び込んできた人魚に、完全に固まってしまっていた。しかも相手は、胸元の貝殻二枚と腰回りのわずかな薄布のみという、ほとんど水着同然の姿である。どこを見ればいいのか分からず、ヤンは顔を真っ赤にして必死に視線を船着き場の軒先へと逸らした。
「あ……あの」
「……う、動くなよ。下手に離したら滑って頭打つぞ」
「は、はい……すみません」
人魚の女性もまた耳先まで朱に染めて身を縮こまらせ、二人して石像のように固まっている。その足元では、異変を察知したモモが近寄ってきていた。水たまりが大嫌いなモモは、前足を、パッ、パッ、と神経質に振って水気を払い、後ずさりをする。
しかし、人魚の身体から漂う濃厚な潮風と新鮮な魚の匂いには抗えないらしく、鼻をヒクヒクと激しく動かしながら、腰を引かせた奇妙な摺り足で二人の周りをぐるぐると不審にうろつき回っていた。
「ヤンちゃん、大丈夫よ! 今バスタオル持っていくから!」
私が慌てて大判の布を広げて駆け寄り、人魚の女性の肩からすっぽりと包み込んだ。
「ふぅ……助かった……。驚いて心臓止まるかと思ったぞ」
ヤンが脱力して石段に座り込み、人魚の女性はおずおずとタオルを押さえながら私に頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……。驚かせてしまってごめんなさい。わたくし、ルリと申します。……ここが、お洋服を仕立ててくださるというエルウィン洋品店さんで間違いないでしょうか?」
店内。温かいハーブティーを一口すすり、ルリはようやく落ち着きを取り戻したようだった。作業場の椅子に腰掛けた彼女は、まだぎこちない手つきで自分の膝を撫でている。濡れていた群青色の髪は、乾くにつれてふわりと波打ち、神秘的な美しさを放っていた。
「陸に上がるための、お洋服……ですか?」
私が尋ねると、ルリは困ったように眉を下げ、胸元の貝殻を指先で押さえた。
「はい……。わたくしたち人魚族は、古い術を使えばこうして人間の脚になって陸を歩くことができるのです。けれど、海の中ではこの貝殻の装飾だけで暮らしておりますから……この姿で街を歩くわけにはまいりませんでしょう?」
「そうねぇ。いくら開放的な街でも、その格好で大通りを歩いたら衛兵さんに呼び止められちゃうわね」
奥から焼き菓子を持ってきたエルウィンが苦笑する。
「そうなんです! それで、以前にも人間の商人さんから既製品のドレスやワンピースをいくつか買い求めて、試してみたことはあるのですけれど」
ルリは悲しそうに視線を落とした。
「どれも、まったく身体に合いませんでしたの。着た瞬間に生地が擦れて肌がヒリヒリと痛み出したり、ひどい時には息苦しくて立っていられなくなってしまって……。人魚の身体のつくりは人間の方と微妙に違いますし、なにより、陸の服はわたくしには乾燥が強すぎるのです」
「乾燥……」
私はルリの腕の肌を観察した。きめ細かく透き通るような白肌だが、陸の空気に晒されているせいか、表面がうっすらと粉を吹いたように乾き始めていた。
(海の中で生きる人魚の肌……。水から上がれば、当然すさまじい勢いで水分が奪われていくはず。人間の重度の乾燥肌よりも、はるかに深刻な水分不足が起きているんだわ)
元の世界でも、極度の乾燥肌に悩む顧客には、肌の水分を逃がさない高密度の天然シルクや、保湿性の高い油脂分を含んだ特殊加工のインナーを提案するのが定石だった。
「乾燥を抑えられる生地で試してみましょう。ただ、人魚の方のお仕立ては初めてです。小さな布を当てるところから、少しずつ確かめてもよろしいですか?」
「本当ですか……!? 陸の服を着て、街の市場でお買い物をしてみるのが、わたくしの幼い頃からの夢だったのです!」
ルリの瞳が、ぱっと希望の光で輝いた。
「よし! そうと決まれば、さっそく採寸して仮縫いに入りましょう!」
私は店内の在庫から、最も滑らかで保湿性の高い最高級の密織りシルク生地と、柔らかな植物性の油分を含んだ保護布を選び出した。ルリの独特なプロポーション、人間よりも細くしなやかなウエストと、発達した背筋、なだらかな胸の起伏をメジャーで細かく計測する。
腕に小さく当てた布では、痛みは出なかった。私は採寸を書き留め、エルウィンに型紙を引いてもらった。裁断と縫製は彼女に任せ、私は仮留めを手伝いながら、ルリに肌触りを確かめてもらった。
数時間後。
「ルリさん、できました! まずは肌触りとサイズ感を見るための試作ドレスです。袖を通してみてください!」
仕上がったのは、首元から足首までを優しく包み込む、淡いアクアブルーのロングワンピースだった。外気の乾燥をシャットアウトするため、隙間なく肌に吸い付くような高密度のしっとりとしたシルクで仕立ててある。
「まあ……! なんて滑らかで美しい生地……!」
ルリは感激した様子で試着スペースへと入り、ドレスに身を包んだ。しかし。
「……あ、あれ……?」
カーテンの奥から、苦しげな声が漏れてきた。
「ルリさん? どうしました?」
私がカーテンを開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「うっ……く、苦しい……肌が……息が……!」
ルリは青ざめた顔で自分の胸元を掻きむしっていた。胸元の布は湿って肌へ張り付き、肩を動かしても離れなかった。ルリは浅い呼吸を繰り返している。私は背中の留め具を外し、ヤンとエルウィンを呼んだ。
「きゃあ!? ルリさん、すぐ脱いで!」
ヤンとエルウィンが駆け寄り、慌ててドレスを脱がせた。ルリは床に膝をつき、肩で激しく息を乱していた。
「はぁ、はぁ……っ! ご、ごめんなさい、茜さん……せっかく作ってくださったのに……。なんだか、全身を隙間なく密閉されて、息ができなくなったみたいで……」
「そんな……」
私は脱ぎ捨てられたドレスを拾い上げ、愕然とした。腕に当てた時は平気だった。それだけで、全身を覆っても同じだと思ってしまった。脱いだドレスの胸元に触れると、布はまだ湿っていた。
(私の見立てが……根本から間違っていた……?)
胸の奥が冷たく締め付けられる。異世界に来てから、知識と鑑定の力で順調に服を提案してきた私の自信が、音を立てて崩れ落ちていくようだった。
「茜……大丈夫か?」
ヤンが心配そうに私の顔を覗き込む。私はぎゅっと唇を噛み締め、呼吸を整えた。
(落ち込んでいる場合じゃない。苦しい思いをしたのはルリさんの方だわ。プロなら、失敗の理由を突き止めなきゃ!)
私はしゃがみ込み、ルリの前に視線を合わせた。
「ルリさん、本当にごめんなさい。……もしお身体が許すなら、どんなふうに苦しかったのか、詳しく教えていただけませんか?」
ルリは私の真剣な瞳を見て、痛みを堪えながら優しく首を振った。
「茜さんが謝ることはありませんわ。……あのね、わたくしたちの皮膚は、ただの皮膚ではありませんの。えらと同じように、水分を含んだ空気を取り込むための器官でもあるのです」
「呼吸のための器官?」
「ええ。人魚の皮膚は、表面に薄い水分膜を保つことで呼吸機能を維持しています。肺でも呼吸はできます。けれど、人魚にとって皮膚呼吸はとても大切なのです。長く塞がれていると、肺だけでは補いきれなくなってしまいます」
ルリの言葉が、私の頭の中に雷のように突き刺さった。
(水分を逃がさなければいいと思っていた。でもルリさんには、湿り気だけでなく、皮膚のまわりを空気が通る隙間も必要だったんだ)
私たちが作った高保湿の密織りシルクドレスは、良かれと思って彼女の肌を完全に塞いでしまっていた。湿り気を吸った布が密着し、肌のまわりの空気を塞いでしまった。素材の性質が分かっても、それを着た人の身体までは分からない。先に聞くべきことがあった。
「人間向けの保湿と発想そのものが……人魚にとっては逆効果だったんだ」
私は自分の浅はかさを痛感し、膝の上で拳を握りしめた。作業場には、重苦しい沈黙が流れていた。壁の時計がコチコチと夜の訪れを告げている。水路の水で肌を潤したルリは、奥の部屋でエルウィンが淹れたハーブ水を含みながら休んでいた。




