第六話:巡る水のカーテン【後編】
「……茜さん」
エルウィンが、仕立て机の前に座り込んでいた私にそっと近づき、静かな声で語りかけた。
「人魚族のお客様なんて、この街でも滅多に来ないわ。私も初めて。彼女の身体の仕組みは、陸の生き物とはあまりにも違いすぎる。……そこまで無理をして、一から服を作る必要があるのかしら?」
「エルウィンさん……?」
「うちのお店は、ただの小さな洋品店よ。専門の魔導具師や薬師じゃないんだもの。ルリさんだって、最初から無理を承知で相談に来てくれたんだわ。これ以上茜さんが自分を追い詰める必要はないと思うの」
エルウィンは、私の指先についた針の痕を見ていた。私はハサミを机へ置き、一度ルリの部屋を覗いた。呼吸は落ち着いている。それでも、もう一度試したいかどうかは彼女に聞かなければならなかった。けれど、私の脳裏には、ルリが最初に浮かべた笑顔が焼き付いていた。
「服が合わなかっただけなのに、どうしてルリさんが諦めなきゃいけないんですか。作り直すのは、こっちです」
私は脱がせたドレスを机に広げた。ほどく縫い目を、指で辿った。エルウィンは目を丸くし、やがて困ったように、けれど嬉しそうにふっと眉を緩めた。
「……本当に、頑固なんだから。分かったわよ。あたしにできる手伝いなら、いくらでも言ってちょうだい」
「あたしも手伝うよ!」
作業場の隅でハサミを研いでいたヤンが、灰色の耳をピンと立てて立ち上がった。
「ありがとう、二人とも! 絶対に、ルリさんが笑顔で街を歩ける服を完成させましょう」
休んでいたルリに相談すると、彼女はもう一度試したいと言ってくれた。呼吸に必要な肌の範囲、苦しくなり始めるまでの時間、濡れた布が触れた時の感触を、今度は先に聞き取った。それから、私たちの試行錯誤が始まった。
「密閉するんじゃない……逆だわ」
私は濡らした布を指先で持ち上げた。
「水分を閉じ込めるんじゃなくて、水分が失われる速度を遅くする。そのためには」
(肌に触れる部分は、水分を吸い取って張り付いてはいけない。適度な凹凸があって肌離れが良く、常に空気が通る隙間が必要……。そして外側は、風による急激な蒸散を抑え、適度な湿度を保ち続ける構造……)
私は店内のあらゆる生地を引っ張り出し、指先で触れて繊維の構造、情報を手に入れていった。今までは、目の前の商品が何に使えるかを考えていた。今回は逆だ。ルリに必要な条件を決め、それに合う素材を一つずつ探した。
『湖畔葦の編み糸。多孔質構造。水分を吸い込みにくく、通気性に優れる。濡れても形が潰れず、肌に張り付かない』
『角羊の極細梳毛糸。適度な油分を含み、空気の層を抱え込んで湿度を一定に保つ』
(これだ……! 単一の生地じゃダメなんだ。二つの異なる性質を持つ糸を、立体的な二重織りに仕立てるんだわ!)
エルウィンに、内側を湖畔葦の糸で粗く織ってもらう。糸に凹凸があるので、触れるのは小さな点だけだ。肌と布の間に隙間が残り、空気の通り道を作れる。そして外側には、油分を含んだ角羊の極細糸をふんわりと重ね、外風による急激な乾燥を抑え、肌の水分膜を穏やかに守り続ける。
工夫は生地だけじゃダメ。縫い代は外側へ逃がし、肌へ当たる端は柔らかい布で包む。私は小さな試し布をルリの肩や脇へ当て、腕を動かしてもらいながら擦れる場所を探した。
首元や脇、背中まわりには風が抜ける立体的なゆとりをもたせ、袖口や裾はゴムや紐で締め付けず、ドレープを描いて空気を循環させるカッティングを施した。エルウィンは織り機に風の魔法を通し、梭を往復させた。私が必要なゆとりを書き込み、ヤンが糸を巻き直す。
織れた布からエルウィンが裁ち、私も教わった縫い方で裾を仕上げた。指先が痛み始めると、ヤンが灯りを近づけてくれた。朝までかかって、ようやく改良型の試作ドレスが完成した。
窓から白々とした光が差し込む頃、作業台の上には一枚のまったく新しいドレスが横たわっていた。朝露を浴びた水草のようにしなやかで、光の加減でかすかに青緑色の光沢を放つ、水辺の植物を思わせる軽やかなドレープドレス。
「……できた!」
朝日が水路をきらきらと照らす朝。
「ルリさん、お待たせしました」
私はルリを試着スペースへと案内した。ルリは少し緊張した面持ちで、恐る恐るドレスを受け取った。
「これ……昨日のお洋服と、手触りがまったく違いますわ……。軽くて、なんだか布そのものが呼吸をしているみたい……」
「はい。まずは留め具を開けたまま試しましょう。苦しさや違和感が出たら、すぐ教えてくださいね」
ルリがカーテンの奥へ入る。私とエルウィン、ヤンは、固唾を呑んでカーテンを見つめていた。カサリ、と柔らかな布擦れの音が響く。数秒の沈黙。
「……あ……」
漏れ聞こえてきたのは、苦しげな声ではなかった。信じられないものに触れたような、小さな吐息だった。サーッとカーテンが開く。そこに立っていたのは、朝日を浴びて神々しいほどに輝く、美しい一人の女性だった。青緑色のドレープが、彼女のしなやかな肢体に沿って美しく流れ落ちている。
動くたびに裾が風をはらんでふわりと揺れ、肌を締め付ける様子はどこにもない。なにより、彼女の白い肌は赤く腫れることもなく、まるで水の中にいるかのように瑞々しい透明感を保っていた。
「ど、どうかしら……ルリさん?」
エルウィンが恐る恐る尋ねる。ルリは自分の両手を胸に当て、何度も深く深呼吸を繰り返した。
「……痛くない。突っ張る感じも、息苦しさも、まったくありません……!」
ルリは信じられないといった様子で、自分の腕や肩をそっと撫でた。
「肌の表面を、優しい空気の層が包んでくれているみたいです! 布を着ているのに、まるで水の中にいる時と同じくらい、身体が自由に呼吸できています」
「成功だ!」
ヤンが飛び上がって歓声をあげた。
「ふふ、良かったです」
私の胸から、張り詰めていた緊張が一気に溶け出していった。
「少しずつ歩いて確かめましょう。長く着ていても大丈夫か、まだ見ておきたいです」
ルリは店内を一周し、椅子に座り、もう一度立った。午前中、休憩を挟んで何度か確かめても、肌の赤みも呼吸の乱れも出なかった。
「茜さん!」
ルリの大きな藍色の瞳に、じわりと大粒の涙が盛り上がってきた。
「ずっと……ずっと諦めていたんです。わたくしには、陸の世界を歩くことなんてできないんだって……。でも、あなたがわたくしの身体を理解して、こんなに素敵な魔法をかけてくださった!」
「ルリさん、泣かないで」
私がハンカチを差し出そうとした、その時だった。ポロリ。ルリの頬を伝って零れ落ちた涙が、石畳の床に触れた瞬間。カラン、と澄んだ涼やかな音を立てて跳ねた。
「……え?」
見ると、床の上に転がっていたのは、水滴ではなかった。朝の光を浴びて虹色に輝く、真円の美しい大粒の真珠だった。
「あ……! ご、ごめんなさい! わたくしたち人魚は、感情が高ぶって流した涙が結晶化してしまうのです」
ルリは慌てて涙を拭いながら、床に落ちた極上の真珠を両手でそっと拾い上げた。そして、それを私の手のひらの上へと大切そうに乗せた。
「茜さん。どうか、これをお代として受け取ってください」
「えっ……!? こ、こんな見事な真珠、高価すぎて受け取れません!」
私が慌てて首を振ると、ルリは私の手をキュッと温かく包み込み、満面の笑みを咲かせた。
「いいえ、受け取ってください。これは、わたくしが生まれて初めて流した嬉し涙ですもの。あなたのお仕立てへの、心の底からの感謝の印です」
ルリの透き通るような笑顔に、私はそれ以上断ることができなかった。
「……ありがとうございます、ルリさん。大切にいたしますね」
「はい! さあ……まずは街の果物屋さんに行って、陸の甘いリンゴを買ってみますわ!」
ルリは嬉しそうにドレスの裾を揺らし、慣れない二本足で一歩一歩、しっかりと大地を踏みしめて歩き出した。
昼下がり。市場でたくさんの買い物を楽しんだルリは、両手に抱えたバスケットを大事そうに抱えて、裏庭の船着き場へと戻ってきた。
「茜さん、エルウィンさん、ヤンさん! 本当に楽しかったです! 街の人たちも、みんなわたくしのドレスを素敵ねって褒めてくださいましたの!」
「ふふ、良かったわね、ルリさん!」
エルウィンが手を振る。水路の縁に立ったルリは、名残惜しそうに私たちを振り返り、優雅に一礼した。
「水に入っても大丈夫なように、裾には深いスリットを入れてありますし、濡れても重くならない糸を使っています。そのまま泳いで帰れますよ」
私が声をかけると、ルリはぱっと顔を輝かせた。
「そこまで考えてくださっていたのですね! 本当にありがとう。このドレスがあれば、いつでも陸に遊びに来られます。またお洋服のことで困ったら、真っ先にここへ相談に来ますね!」
「ええ! いつでもお待ちしています」
ルリはふわりと微笑むと、身軽に水路へと飛び込んだ。水しぶきとともに人の脚が美しい魚の尾びれへと戻り、ドレスの深いスリットから尾びれが出た。軽い裾が水の流れに沿ってなびき、泳ぐ動きを邪魔しない。彼女は優雅に波を打ちながら、水底へと泳ぎ去っていった。ゆらゆらと揺れる水面の光を見つめながら、ヤンがぽつりと呟いた。
「……すげえな、茜。服で、あんなに人を幸せにできるんだな」
「最初に試した時は、どうなることかと思ったけどね。次に来たら、長く着た時の具合も聞いてみよう」
私が微笑むと、足元でモモが「にゃーん」と喉を鳴らした。手の中にある大粒の真珠が、温かな日差しを浴びて優しく輝いていた。




