第七話:三足の靴と、不屈のヴィーザル【前編】
東の空から昇った朝陽が、立ち並ぶ煙突の煙を赤銅色に染め上げていた。カァンッ、カァンッ、とリズミカルに響く重厚な金属音が、足元の石畳を通じて微かに伝わってくる。私とエルウィン、そしてヤンの三人は、開店前の涼しい時間帯を利用して、街の東側に広がる鍛冶屋通りへと足を運んでいた。
「いつ来ても、ここの通りは空気が熱いわねぇ」
エルウィンが薄手のストールで首元を覆いながら呟く。
「でも、すっごく良い匂いがするよ! 鉄が焼ける匂いって、なんか力が湧いてくるっていうかさ」
以前の窮屈な服から解放され、ヤンの歩みには獣人らしいしなやかさが戻っていた。サロペットのポケットに手を突っ込み、灰色の三角耳をぴょこぴょこと動かしながら前を歩いている。
「ここよ、鉄槌工房」
エルウィンが足を止めた。大きな石造りの作業場からは、赤々と燃え盛る炉の炎が吹き上がり、焦げるような熱気が押し寄せてくる。炉の前では、店主の女ドワーフ、ヘルガが、分厚い革のエプロンを締め、巨大なやっとこで何かを炎の中へくべていた。見事なまでに編み込まれた艶やかな顎髭が、熱風にあおられて揺れている。
「ヘルガさん、おはようございます!」
私が声をかけると、ヘルガは太い眉を上げ、やっとこを水桶に突き刺した。ジュウウッ! と激しい白煙が立ち上る。
「おお、エルウィン洋品店の。早起きだねぇ」
ヘルガは太い腕で額の汗を拭うと、ニカッと豪快に笑った。作業台の上には、鈍い銀色の光沢を帯びた細い金属の束が置かれている。
「ヘルガさん、それって……?」
「ああ、これかい? 鉱物繊維、『鉱糸』さ。普通の金属じゃこんな細い針を打ってもすぐにへたっちまうが、こいつを鋼に練り込んでやると驚くほどしなやかになって、曲げても折れずに元に戻るんだ。……ほらよ、茜。注文の品だ」
ヘルガが作業台の奥から取り出したのは、二枚の木製ハンドルがついた、平たい長方形の道具だった。
「わぁ……!」
私は両手でそれを受け取った。木製の土台には、無数の極細の金属針が寸分の狂いもなく整然と植え込まれている。指の腹でそっと撫でてみると、チクチクとした鋭利な引っかかりは一切なく、まるで硬質な獣の毛のように滑らかにしなり、指を離すとすっと元の角度に戻った。
「大型カーディングブラシ! なんて綺麗な針並び」
「ガハハ! その針なら、金羊毛の極細の繊維を傷つけたり千切ったりすることなく、絡まりを優しく解いて均一に整えられるはずだ」
「ありがとうございます、ヘルガさん! これさえあれば、あの金羊毛を完璧な糸に紡げます」
「礼には及ばないさ。良い服作りの道具を打つのは、あたしにとっても腕の鳴る仕事だからね。……さあ、代金はエルウィンにツケておくから、さっさと店に戻って作業をおし!」
「ふふ、ツケなのね。しっかり払わせてもらうわ」
エルウィンが笑い、私たちは完成したばかりのカーディングブラシを布袋に収めると、工房を後にしたのだった。洋品店に戻ると、店舗の正面扉の前に、落ち着かない様子で行ったり来たりを繰り返している一人の男性の姿があった。
革のチェストプロテクターに、砂埃にまみれた緑色のマント。脚には頑丈な長靴を履いているが、靴底はすり減り、縁がボロボロにほつれている。腰には、真鍮の封蝋で固く封じられた頑丈な革製の円筒が、斜め掛けにしっかりと固定されていた。
「あ、すみません! お待たせしてしまいましたか?」
私が駆け寄ると、男性は弾かれたように顔を上げた。日に焼けた精悍な顔つきだが、目の下には濃い隈が浮かび、全身から張り詰めた疲労と切迫感が漂っていた。
「あ、いや……! こちらこそ、開店前に押し掛けてしまって申し訳ない。ここが、特別な装備を扱っているというエルウィン洋品店で間違いないだろうか?」
「はい! 衣類と装身具を扱っております。どうぞ、中へお入りください」
扉を開け、彼を店内のカウンター席へと案内した。エルウィンが手早く温かい白湯を差し出すと、男性は喉を鳴らしながら一気にそれを飲み干し、ようやく一息ついたように肩を落とした。
「……生き返る。ありがとう。俺は王都の伝令ギルドに所属している、ガストンという者だ」
「伝令様……ですか」
「ああ。隣国の城塞都市まで、極めて重要かつ至急の親書を届ける任務を拝命したんだが……あいにく、前の長距離任務で長年愛用していた俊足のブーツが完全に壊れてしまってね。この街の防具屋を回ったが納得のいく代物が見つからず、途方に暮れていたところ、同業者からこの店の噂を聞いたんだ」
ガストンは真剣な眼差しで、カウンター越しに私とエルウィンを見つめた。
「一刻も早く隣国へ到着しなければならない。……この店に、長距離を最高速度で駆け抜けられるような、特別な靴の在庫はあるだろうか?」
「長距離を走るための靴、ですね」
私は頷き、エルウィンと視線を合わせた。エルウィンが静かに頷き、奥のガラスケースから、木箱に入った三足の異なる履物を持ってきてカウンターの上に並べた。
「当店でご案内できる、特別な移動用の靴はこちらの三種になります」
カウンターの上に、三つの靴が並んだ。一足目は、踵の左右に小さな白い鳥の翼のような飾りがついた、黄金色に輝く優美な革のサンダル『タラリア』。二足目は、膝下まで覆う深い真紅のロングブーツで、履き口に金糸の派手な刺繍が施された、見るからに強烈な魔力を放っている一品『セブンリーグブーツ』。
そして三足目は、他の二足と比べるとあまりにも見劣りする、無骨で分厚い革の短靴。あらゆる種類の硬い革の端切れを何重にも縫い合わせ、太い麻糸で無骨に補強しただけの、装飾性の一切ない地味な靴『ヴィーザルの靴』。ガストンの目は、迷うことなく中央の真紅のブーツ『セブンリーグブーツ』へと吸い寄せられた。
「これだ……! これこそが、伝承に名高い『セブンリーグブーツ』だな!? 一歩踏み出すだけで七里、およそ二十八キロメートルもの距離を跳躍して進むという、最速の移動具!」
ガストンの声が興奮に震えていた。
「これさえあれば、隣国までの険しい道のりも、あっという間に踏破できる! 頼む、これを売ってくれ!」
ガストンが今すぐ革袋を取り出そうとする。だが、私はその勢いに流されることなく、穏やかなトーンで声をかけた。
「ガストン様。お気持ちは分かりますが……まずは今回の任務の道程について、少しだけお聞かせいただけませんか?」
「え……? 道程、かい? しかし、急いでいるんだ。一番速い靴を買えば、それで万事解決するはずだろう?」
「靴は、ただ速ければ良いというものではありません。足を通す方の走り方、そして何より走る環境に合っていなければ、かえって命を危険に晒すことになりますから」
私が真っ直ぐに見つめると、ガストンは気圧されたように口を閉じた。
「……ふむ。分かった。道程について話そう」
ガストンは腰のケースから地図を取り出し、カウンターの上に広げた。
「ここから隣国の城塞都市へ向かうには、まず断崖山道を抜け、深い古樹の密林を通り、最後に国境の荒野の関所を越えなければならない。全行程で約三百キロメートル。途中の伝令所で最小限の仮眠と補給を取りつつ、明日の夜までに駆け抜けなければならない過酷な道だ」
「断崖山道に、曲がりくねった密林……ですね」
私は顎に手を当てて考え込んだ。そして、カウンターのセブンリーグブーツにそっと指先を触れる。
『セブンリーグブーツ。伝承級魔道具。着用者の一歩を七里先まで強制的に跳躍させる。距離の微調整不可。踏み出した方向へ身体を射出する』
頭の中に浮かぶのは、圧倒的な跳躍距離の魔力構造。だが、ガストンの語った山道と密林という環境を照らし合わせると、良くない予感がする。
(一歩で二十八キロ先へ飛ぶ……。直線的な大平原ならともかく、視界の利かない山道や木々の密集した森で使ったら、着地点に何があるかまったく分からないわ)
「ガストン様、こちらは今回の道にはお勧めできません。一歩の距離を調整できないんです。着地点を確かめられる平原向けで――」
「そんなに跳ぶんだ。ちょっとだけなら……」
振り向くと、ヤンがカウンターの木箱からブーツを抜き取り、自分の靴を脱いでいた。鑑定に気を取られ、私は彼女が箱へ近づいたことに気づかなかった。
「ヤンちゃん、それは履かないで。距離が――」
「わかってるって! 爪先でトン、くらいならさ!」
止めるために伸ばした手が、サロペットの肩紐を掠めた。裏庭の敷居へ駆けたヤンが、ごく軽く右足を踏み出す。ドゴォォンッ!
「ひゃああああああっ!?」
灰色の尻尾が空へ跳ね上がり、絶叫と一緒に北の山並みへ遠ざかった。




