第七話:三足の靴と、不屈のヴィーザル【後編】
「ヤンちゃん!」
私は裏庭へ飛び出した。もう姿は見えない。エルウィンがすぐにタラリアを手に取り、革帯を肩へ掛けた。
「あたしが追うわ。帰りはこの帯で支えるから、茜さんは水と布を用意して!」
エルウィンは翼のサンダルを履き、ヤンの飛んだ方向へ舞い上がった。私は桶を持つ手の震えを押さえ、きれいな布を重ねた。ほどなくして、二人が裏庭へ戻ってきた。ヤンはエルウィンの帯につかまり、服には小枝と枯葉が山のようについている。大きな木の枝に引っ掛かって止まったらしい。
「た、ただいま……」
「どこが痛い? 動かせないところは?」
腰を下ろさせ、エルウィンと手足を確かめた。擦り傷はあるが、関節は動く。エルウィンが傷を治しているあいだ、ヤンは俯いたまま言った。
「……山の上の木に、洗濯物みたいにぶら下がってた」
「ほんの少しずれていたら、枝にも止まれなかったのよ」
エルウィンが低い声で言うと、灰色の耳がぺたりと寝た。
「ごめん。茜が止めてたのに、あたし、勝手に……」
「無事でよかった。でも、次は説明が終わるまで待って。どこへ行ったか分からなくなるのは、もう嫌だから」
「……うん」
私はブーツを木箱へ戻し、蓋を閉めた。エルウィンにも、試着できない商品は手の届かない場所へ置こうと伝えた。ヤンは渡した水を少しずつ飲んでいる。その頭へ、モモが鼻を寄せた。葉っぱを一枚くわえ、隣の床へ落とす。
「……モモ。今、あたしを巣だと思ってない?」
もう一枚、枯葉が落ちた。ヤンの情けない顔に笑いそうになったが、私は飲み込んだ。ガストンは閉じた木箱を見つめていた。
「……俺が密林で使っていたら、どうなっていたか」
「着地点を確かめられない道で使うのは危険です。しかも、軽く踏んでも距離は短くなりません」
「くっ……たしかに、その通りだ」
ガストンは額の冷や汗を拭い、セブンリーグブーツから視線を逸らした。
「では……こちらのタラリアはどうだ? 翼のサンダルなら、空を飛んで山道も密林も飛び越えていけるはずだ!」
ガストンが次に指差したのは、黄金色に輝く翼のサンダルだった。私はタラリアに触れる。
『タラリア。風の加護による飛行。連続使用は四半刻まで。魔力の回復には一刻を要する』
「タラリアなら短い区間を飛べます。ただ、一度に飛べるのは四半刻ほど。次に使えるまで、一刻休ませる必要があります」
「救助には使えても、三百キロを飛び続けることはできないのか」
「ええ。ところどころ飛ぶ方法は考えられます。ですが、飛べない時間にも進むなら、地上用の靴は要りますね」
ガストンは地図へ目を落とした。
「国境の手前では降りて関所を通るつもりだ。探知結界もある。……今の靴が壊れた以上、まず地上を走れる一足を選ばないといけないか」
「ご予算の中で両方を揃えることはできますか?」
「いや、二足は無理だ。補給代も残さなければならない」
ガストンは頭を抱え、カウンターに突っ伏した。
「跳ぶ靴は使えない。飛ぶ靴だけでも道の途中で立ち往生する。……普段の俊足ブーツも、今回は手に入らない」
八方塞がりになり、頭を抱えるガストン。私は静かに歩み寄り、カウンターの端に置かれていた、一番地味な三足目の靴を手繰り寄せた。
「ガストン様」
私はその無骨な靴の表面を、手のひらでそっと撫でた。
「……この、革の端切れを集めたような靴かい? とても速そうには見えないが」
「ガストン様、普段の靴を傷めたのは、道のどのあたりでしたか?」
「岩場だ。底が割れて、水が入り、足裏まで痛めた。……そうか、速度の前に、道に耐えられる靴が要るんだな」
「その通りです」
私は力強く頷いた。
「でしたら、必要なのは最高速度ではありません。三百キロの過酷な道程を、あなたの足が壊れることなく、最後まで走り切れる靴です」
「……」
「このヴィーザルの靴には、空を飛ぶ翼も、一歩で遠くへ跳ぶような派手な推進力もありません。ですが足を絶対に壊さない堅牢さがあります」
私は靴の内側と靴底を指差し、構造の確かさを説いた。
「神話において巨狼の牙をも防ぐために、職人たちが革の端切れを何重にも縫い重ねて作ったとされる伝承の靴です。鋭い岩石が転がる断崖山道を踏み抜いても、靴底が破れることは決してありません。水や泥が入り込みにくく、滑りやすい地面でもしっかりと足場を捉えられます」
「滑りやすい山道でも」
「ええ。さらに、何重もの革層が着地の衝撃を大幅に和らげてくれます。もちろん、走り続ければ身体そのものは疲れます。ですが、岩場によって足裏を痛めたり、足首を挫いたりする危険を最小限に抑えてくれます。鍛え上げられたあなたの脚力で、最後まで確実に走り切れるはずです」
「おぉっ!」
ガストンの瞳に、熱い光が宿った。ガストンは靴底を指で押し、踵の革を確かめていた。
「地上の悪路を、俺自身の足で着実に駆け抜ける!」
「はい。普段の区間ごとの所要時間を教えてください。靴で防げる負担と、休息や補給が必要な疲労は、分けて考えたいんです」
ガストンは地図の伝令所を順に指した。足の傷で遅れなければ、普段の走り方で期限には間に合うという。私は踵と足首の当たりを確かめてもらい、店内を歩く彼の足元を見た。ガストンはヴィーザルの靴を両手で受け取ると、その分厚い革の重みと、職人の魂が込められた無骨な縫い目をじっと見つめた。やがて、彼は深く息を吐き、晴れやかな笑顔を浮かべた。
「参ったよ。店員さん、あんたの言う通りだ。俺は焦るあまり、一番大事な確実に届けるという本質を見失いかけていた。この靴を買わせてくれ」
「ありがとうございます! お値段は、金貨五枚になります!」
「安いものだ! 命と任務を預けるのに、これ以上信頼できる相棒はない」
ガストンは革袋から金貨五枚を取り出してカウンターに置くと、その場で古い靴を脱ぎ、ヴィーザルの靴へと履き替えた。立ち上がり、石畳を踏みしめる。トスッ、と吸い付くような柔らかく力強い接地音。
「……す、すごいぞ! 足裏への当たりが驚くほど柔らかいのに、大地をしっかり噛んでいる感覚がある」
「ふふ、いってらっしゃいませ、ガストン様。道中、お気をつけて!」
「ああ! 必ず親書を届けてみせる! ありがとう」
ガストンはマントを翻し、力強い足取りで店を飛び出していった。街道へと駆け出していく彼の背中は、一歩一歩が力強く、どんな悪路もものともしない確かな足取りに満ちていた。カウベルが爽やかに鳴り響く。
昼下がり。すっかり元気を取り戻したヤンが、頭の小枝をモモに取ってもらいながら、作業台の前に立っていた。
「タラリアの魔力、救助で使ってしまいましたね。帰ってきてくれて、本当によかったです」
「魔力は休ませれば戻るわ。救助に使えてよかった。ヤンちゃんも、午後は座って仕事をしなさいね」
エルウィンが微笑みながら淹れたてのハーブティーを飲む。
「危ない品は、説明の札もつけましょう。あたしも、使い方を知っているからと油断していたわ。……ガストンさんが出発したことだし、金羊毛の準備を始めましょ」
「はいっ! 最高のオリジナルアウターを作りましょう!」
作業台の上に広げられた、黄金に輝く金羊毛の原毛。エルウィンにブラシの動かし方を教わり、金羊毛を少しずつ梳いた。ヤンは隣に座って枯葉を取り除いている。
「……さっきのブーツ、蓋に紐もかけといた」
私は頷き、ほぐれた毛を彼女へ渡した。




