第八話:木漏れ日の街道と、森の思い出【前編】
すっきりと晴れ渡った午前中、初秋の乾いた風が石畳の通りを吹き抜けていた。
「茜さん、ヤンちゃん、気をつけて行ってきてね」
エルウィン洋品店の入り口で、エルウィンが丁寧に編まれた籠バッグと買い出し用のメモを手渡してくれた。
「はい! 糸巻き用の木枠と紡ぎ車のパーツ、それから天然染料の媒染剤ですね。しっかり選んできます」
「重い荷物は全部あたしに任せてよ。このサロペット、ポケットも多いし動きやすいから、いくらでも持てるしさ!」
ヤンが胸を張り、サロペットの肩紐を親指でパチンと弾いてみせた。足元では、日向の木箱から顔を出したモモが「ふにゃあ」と一声鳴き、見送るように二本の尻尾をゆらりと振った。今回の目的地は、城壁の外、南の街道沿いに開かれている『資材と穀物の定期市』だ。街中の商店では手に入りにくい木工資材や、周辺の集落から持ち込まれる草木の染料、大ぶりの麻袋などが手頃な価格で手に入る。
「じゃあ、行ってきまーす!」
カウベルの澄んだ音を背に、私とヤンは並んで歩き出した。南門を抜けると、石畳の道は踏み固められた赤土の街道へと変わる。街道の両脇にはなだらかな草の丘が広がり、所々にブナやクヌギに似た広葉樹の木立が点在していた。風が通るたび、黄色く色づき始めた梢がサラサラと心地よい音を立てて揺れている。
「いい天気ね、ヤンちゃん」
「うん。風が気持ちいいや」
ヤンは軽快な足取りで私の半歩先を歩いていた。足元は、サロペットを仕立てた夜、エルウィンと一緒にサイズを直し、底を整えたショートブーツ。地面を踏むたび、土や小石の感触をしなやかに受け止め、砂利の擦れる音すらほとんど立てない。すれ違う行商人の荷車や、農作業帰りの村人たちが、時折ヤンの姿を見て小さく目を細める。
以前のようにボロボロでサイズ違いの革鎧を着ていた頃とは違い、清潔な白シャツに落ち着いたネイビーのサロペットを綺麗に着こなしている彼女は、どこから見ても快活で清潔感のある街の少女に見えた。
(肩の上下動がほとんどない。背筋も伸びて、骨盤のブレも少ない。服の引っかかりがなくなったことで、身体本来の重心移動ができているんだわ)
服に携わる者の癖なのだろう。私は歩いているヤンを見ると、つい仕立ての具合を確認してしまう。だが、今のところ直す隙も見当たらないほど、服と身体が自然に調和していた。街道を進むにつれて、人の姿が少しずつまばらになっていく。木立が深くなり、木漏れ日が地面にまだら模様を描く小径に差し掛かった時だった。
「……」
前を歩いていたヤンの足が、ふと止まった。彼女は街道の脇に広がる深い雑木林の奥を見つめたまま、じっと動かなくなっていた。頭の上の灰色の三角耳が、風の音を聞き澄ますようにかすかに後ろへ倒れ、ふさふさとした尻尾も静かに垂れ下がっている。
「ヤンちゃん? どうしたの?」
私が隣に並んで声をかけると、ヤンはハッと我に返ったように肩を小さく跳ねさせた。
「あ……ううん、なんでもないよ。……ただ、風の匂いが、ちょっと似てるなって思ってさ」
「似てる?」
「うん。……あたしが育った、もっと北の奥にある森の匂い」
ヤンは視線を足元の落ち葉へと落とし、つま先でカサリと小石を転がした。その横顔には、普段の勝気で元気な様子とは違う、どこか遠い場所を見つめるような静かな翳りがあった。
「あっちの森はさ、年中冷たい風が吹いてて、もっと木がゴツゴツしてて、針葉樹のヤニの匂いが強かったんだ。でも……秋口の、落ち葉が乾いて土と混ざった時の匂いは、ここの林とまったく同じなんだよね」
「そうなんだ……」
私はヤンの隣に立ち、同じように森の奥から吹き抜ける風の匂いを嗅いだ。乾いた土と、落ち葉と、わずかに混ざる甘い木の実の香り。生まれ育った土地の空気や自然の記憶は、理屈ではなく身体の奥深くに染み付いているものなのだろう。
「……故郷のこと、思い出しちゃった?」
私が優しく尋ねると、ヤンは耳を少し恥ずかしそうにピクピクと動かし、頭の後ろを手で掻いた。
「別に、寂しいとかそういうんじゃないよ! 村の連中とは顔を合わせれば喧嘩ばっかりだったし、戻りたいなんてこれっぽっちも思ってないしさ!」
慌てて強がるように声を張るヤン。けれど、すぐにふっと口元を緩め、どこか懐かしむような苦笑いを浮かべた。
「……でもさ。森そのものは、嫌いじゃなかったんだよね。狩りをして、木の上に登って、ひとりで風の音を聞いてる時間は、すごく好きだった」
「うん、分かる気がする。自然の音って、落ち着くものね」
「でしょ? ……あ、そういえばさ」
ヤンがふと思い出したように、いたずらっぽく八重歯を覗かせた。
「村の連中とは全然仲良くできなかったけど……あたし、森の中に変なダチがいたんだよね」
「変なダチ……? お友達がいたの?」
「うん。……熊なんだけどさ」
「く、熊!?」
思わず声が裏返った。遭遇したあの巨大な岩熊の暴れっぷりが脳裏をよぎる。
「大丈夫だったの!? 襲われたりしなかった!?」
「あはは! あんな凶暴な魔物熊じゃないよ。ただの太った茶色い森熊。立ち上がったら二メートル半くらいあって、いつもぼーっとしてるやつ」
ヤンは可笑しそうに吹き出しながら、手振り身振りを交えて話し始めた。
「最初に出会ったのは、あたしがまだ小さくて、木の実の群生地を探してた時なんだ。崖の上の茂みにすっごく立派な山葡萄が実っててさ。よーし独り占めだーって駆け寄ったら、茂みの向こうからズボッて、巨大な茶色い頭が出てきたの」
「うわぁ……鉢合わせね」
「そう! あいつも口の周りを紫に染めて、山葡萄をむしゃむしゃ食べててさ。目が合った瞬間、お互いに固まっちゃって。普通なら逃げるか戦うかだろ? でもあたし、お腹が減ってたからさ。『そこ、あたしが見つけたんだから半分よこせ!』って、つい手を出して葡萄の房を引っぱっちゃったんだよね」
「えぇっ!? 熊相手に葡萄を取り合ったの!?」
「うん! そしたらあいつ、怒るどころかフンッて鼻を鳴らして、あたしが引っぱったのと反対側のツルを引っ張り返してきてさ。綱引きみたいになっちゃってさ」
ヤンはその時の光景を思い出しながら、楽しそうに笑った。
「で、結局どうなったの?」
「あいつの力が強すぎてツルがブチッて切れて、あたしそのまま後ろの茂みへゴロゴロ転がって泥だらけよ。それを見た熊がさ、絶対にフッて鼻で笑ったんだ! 悔しくてさぁ、残った一房を投げつけてやったんだけど、あいつ口で器用にキャッチして、美味そうにペロッと平らげやがったの」
「ふふっ、なんだかすごく人間くさい熊ね」
「そうなの! それ以来、森で出会うたびに、木の実を取り合ったり、どっちが先に川の魚を捕まえられるか競い合ったりしてさ。まあ、じゃれ合うたびに、あいつの分厚い前足で軽くポンって弾かれて、あたし毎回地面にひっくり返されてたんだけどね」
ヤンは自分の尻尾を揺らしながら、遠い空を見上げた。
「言葉は通じないんだけどさ。なんとなーく、意思が通じてる感じがしたんだよね。『よう、また来たのか』『今日も獲物ねえのかよ』みたいな。……村を出る前の日も、あいつの寝床の近くを通ったら、木の根元に山盛りの木の実が置いてあってさ。……あいつなりの、見送りだったのかなって、今でもたまに思うんだ」




