↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
24/26

第十話・第六幕:最後にして最大の難関。モモ、足音を立てて!【⑥】

 すっかり夜の帳が下りた街を抜け、私たちはエルウィン洋品店へと帰り着いた。木製の扉を開けると、作業場のランプが温かなオレンジ色の光で店内を満たしていた。私は肩から下ろした革バッグから、集めてきた五つの素材を丁寧に取り出し、作業台の中央へと並べた。


 ヘルガの艶やかな顎髭の毛束。山の深部から採掘された高純度の鉱糸。ロダンから託された涎鳥の唾液結晶。ルリの清らかな生命の吐息を封じた魔法瓶。そして、北の森の友から譲り受けた森熊の強靭な腱。


 並んだ素材たちは、それぞれが独自の魔力光を帯び、作業台の上で幻想的な輝きを放っている。


「本当に……五つまで集まったわね」


 エルウィンが手記を胸に抱きしめ、深く息を吐いた。


 それから、机の端に置かれたランプの芯を少しだけ上げ、手記の最後の頁を指先でそっとめくった。


「さて……最後の一つよ。手記にはこう記されているわ。猫の足音」


 エルウィンは手記から顔を上げ、小さくため息を漏らした。


「神話の猫は音もなく歩く、とあるわ。ここで糸に留められるのは、魔力を帯びた足音だけ。普通の猫の足音を拾っても、材料にはならないみたい」


 エルウィンの言葉が終わると同時に、私たち三人の視線が、吸い寄せられるように一つの場所へと向かった。作業場の隅、一番日当たりの良い棚の上に置かれた丸い籠ベッド。そこには、白・茶・黒の三毛模様をした看板猫、モモが、まるでお手本のように丸くなって、すやすやと寝息を立てていた。二本のふさふさした尻尾が、時折ピクピクと揺れている。


「「「…………」」」


 作業場に、異様な沈黙が流れた。私はモモのふくよかなお腹と、ずっしりとした体躯をじっと見つめた。


「……ねえ、ヤンちゃん」

「なんだ、茜」

「モモって……ちょっと、いや、かなり、ふくよかよね? 美味しい干し肉をいっぱい食べて、丸々と太ってるわよね?」

「ああ。どう見ても貫禄たっぷりのデブ猫だな」

「だったら……モモが本気でドタドタと走ったり、高いところから飛び下りたりしたら、普通に『ドスドスッ』って足音くらい鳴るんじゃないかしら!?」


 私の期待に満ちた言葉に、ヤンは腕を組んで深く首を横に振った。


「甘いぜ、茜! あたしも前からずーっと気になって観察してたんだけどさ! こいつ、これだけデカい図体してんのに、驚くほど完全に無音なんだよ! 爪の音すらしねえし、棚から飛び下りた時だって『ふわり……』って綿毛みたいに着地しやがるんだ!」

「そんな……! あの体重を支えておいて完全無音だなんて、おかしいわ!」

「猫だからな。……いや、尻尾の先が光る時があるだろ。あれも関係してるのかな」

「二本尾の猫は、足音を消す魔力を使うそうよ。モモも、普段は無意識に使っているんでしょうね」


 エルウィンが言った。私はモモの尻尾を見た。歩き始める時、先にごく薄い光が浮かんでいた。私は糸枠の置かれた棚へ目を向けた。しかし、泣いても笑っても残る素材はこれ一つなのだ。ここで諦めるわけにはいかない。


「あの古い糸枠を使いましょう。音が鳴った時に、魔力も残っていれば取れるかもしれません」

「え、ええっ!? わ、分かったわ!」


 エルウィンが慌てて棚から、音や気配の魔力を吸着して繊維化するための特殊な木製糸枠を取り出し、両手で構えた。


「よし……! ヤンちゃん、行くわよ!」

「おうっ!」


 私たち三人は、ベッドからむくりと起き上がったモモを取り囲むようにして、床に四つん這いになった。モモの足元にぴったりと耳を寄せ、息を殺して見つめる。


「ふにゃあ……?」


 モモは突然間近に迫ってきた三つの真剣な顔面に、丸い目をパチクリと瞬かせた。


「モモ……お願いよ!」


 私は床に両手をつき、必死の形相で懇願した。


「一歩でいいの! あなたのその立派な体重を、床の石畳に思いっきり叩きつけて! ドスドス走って! あなたくらいのおデブちゃんならできるはずよ! やればできる子よ、お願いだから足音を立ててぇぇぇっ!!」

「そうだぞモモ!」


 ヤンも床をバシバシと叩きながら叫ぶ。


「手加減なんかすんな! 肉球のクッションを引っ込めて、踵からドスンと踏み込むんだ! お前のその重力級の重さを見せつけてやれ!!」

「モモちゃん、お願い……! この店を守るためなのよ!」


 エルウィンも糸枠を構えながら、涙目で手を合わせる。三人の鬼気迫る大応援。だが、当のモモは。


「ふにゃぁ〜〜〜〜あ」


 盛大にあくびを一つかますと、前足を優雅に伸ばし、のっそりと立ち上がった。そして、床の上をとてとてと歩き出す。サッ……サッ……。音がない。床に耳を押し当てて全神経を集中させているというのに、微かな衣擦れのような空気の揺らぎすら感じられない。


「な、鳴らない……! 音が鳴らないわ」


 私が頭を抱えて床に突っ伏すと、モモは涼しい顔で私の背中の上を「ふわり」と踏み越えて通り過ぎていった。


「くそっ……! なんて消音性能なんだ! 無駄にプロの暗殺者みたいな足腰しやがって」


 ヤンが悔しそうに床を叩いた、その時だった。からん、からん、からん。直されたばかりの店舗扉のカウベルが、勢いよく鳴り響いた。


「ごめんよ! 制作の相談だって聞いて来たよ。ギルドの帰りにロダンも拾ってきた!」


 扉を押し開けて入ってきたのは、背中に大槌を背負ったヘルガだった。だが、入ってきたのは彼女一人ではなかった。


「伯爵の私兵が嗅ぎ回っているらしいが、大丈夫か?」


 長弓を背負った冒険者のロダンが飛び込んでくる。


「茜さん! 戻られたのですね。お買い物の帰りに寄りましたの。糸のお手伝いはできますか?」


 水路側の裏扉からは、青緑色のドレスをまとった人魚のルリが、美しい二本足で駆け込んできた。さらに。


「やあやあ! ギルドで話を聞いてね。劇団の片づけを終えたところさ。公演の報告も兼ねて、顔を出したよ!」


 ワインレッドのジャケットを着た劇団『月銀一座』の座長・マルコが、派手な羽飾り付きの帽子を揺らして現れる。


「俺もだ! 隣国への親書を無事に届け終えて戻ってきたところ、ギルドで不穏な話を聞いてな! 恩義あるこの店に、何か手伝えることはないか?」


 足元にヴィーザルの靴を履き、精悍な顔つきになった伝令のガストンまでが息を切らせて駆け込んできたのだ。


「み、皆さん……!」


 エルウィンが驚きに目を見張り、口元を押さえた。ヘルガはギルドからの返事と、セリア様の手紙を持ってきていた。私はまず封を切り、翌朝に契約書を見てもらえると知って息をついた。


「皆さん、わざわざありがとうございます」

「へっ、水臭いこと言ってんじゃないよ! で、茜、例の服の仕込みはどうなんだい! 素材は集まったのかい?」


 ヘルガが太い腕を組んで尋ねてくる。私は床から立ち上がり、作業台の上の素材と、部屋の中央で呑気に毛繕いをしているモモを指差した。


「五つまでは集まりました! でも……最後の一つ、猫の足音だけがどうしても手に入らないんです! あの子、どれだけ頼んでも完全に無音で歩いてしまって」

「猫の足音だと……?」


 集まった一同が一斉にモモを見つめた。


「なるほど! 神話の難題というわけだな!」


 ガストンが顎に手を当てて唸る。


「よし、全員で応援するぞ! この店の存続がかかっているんだ!」


 マルコが皆を振り返った。マルコが手を叩き、ガストンが床へ膝をついた。八人に見つめられたモモは、冷たい目で一同を見回した。


「猫殿、一歩だけ頼む!」

「おいデブ猫、ドワーフの意地を見せろ! ……いや、猫だけどさ!」


 ヘルガが言うと、ヤンは吹き出しかけ、すぐに真顔へ戻った。モモはあくびをして、私の足の上に座る。どうやら応援は気に入らないらしい。


「だ、ダメよ……! 応援だけじゃ、あの子ぜんぜん動く気にならないわ」


 エルウィンが焦りの声を上げた、その時だった。


「……あ」


 エルウィンが何かに気づいたように目を見開き、奥の戸棚へと駆け寄った。そして取り出してきたのは、油紙に包まれた熟成干し肉の塊だった。


「これを試しましょう。ヤンちゃん用に取っておいた干し肉だけど、ひとかけらなら」


 エルウィンが油紙を解いた瞬間。香ばしい燻製と肉汁の濃厚な香りが、ふわっと作業場いっぱいに広がった。ピクッ。モモの耳が、信じられない角度で跳ね上がった。丸い琥珀色の瞳孔がカッと大きく見開かれ、鼻先が激しくヒクヒクと波打つ。


「あいつ、反応したぞ……!」


 ヤンが息を呑む。エルウィンが干し肉を渡すと、ヤンは背の高い棚のそばへ持っていった。モモの鼻が肉を追う。私たちは近くの箱を片づけ、エルウィンが糸枠を構えた。


「モモ! こっち! ほら、ご馳走だぞ!」

「にゃ……っ!?」


 モモは二本の尻尾を振り、身を低くした。いつも歩く時に見えた尻尾の光が、今は揺れて途切れていた。鼻先は、干し肉から一瞬も離れない。


「飛ぶぞ……! あの高さまで跳ぶ気だ!」


 ロダンが叫ぶ。


「エルウィンさん、糸枠を!」


 私が叫ぶと、エルウィンは床の石畳へ向けて、魔導糸枠をピタリと向けた。モモが棚の最上段へ駆け上がった。ヤンが肩の高さまで手を下げると、その肉へ向けて身を躍らせた。そして、空中で見事に干し肉を口にくわえたモモは、その重量感あふれる丸っこい身体のまま、重力に従って石畳の床へと一直線に落下していった。


 全員が息を呑み、その瞬間を凝視した。二メートルの高さからの、重量級ダイブ。モモの四本の足が、石畳に触れた、その瞬間。ドスゥゥゥンッッ!!


 棚の瓶が軽く触れ合うほどの、低い音だった。モモは四つの足をしっかり踏ん張り、干し肉をくわえたまま座り込んだ。


「鳴ったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!!」


 全員の歓声が爆発する。エルウィンがすかさず、床とモモの足元へ向けて魔法の糸枠を滑り込ませた。石畳から立ち上った激しい空気の振動、【猫の足音】が、淡い漆黒の光の波紋となって糸枠の芯へと吸い込まれていく。木枠がカタカタと激しく回転し、空気の震えそのものを、目に見える一本の極細の黒い糸へと定着させていく。キィィィン……と澄んだ高音が響き、回転が止まった。


「と、取れたわ……! 茜さん、取れたわよ」


 エルウィンが糸枠を両手で掲げ、涙を滲ませて叫んだ。その足元では、無事にご馳走をせしめたモモが、床に座り込んで、


「むしゃむしゃ、むしゃむしゃ」


 と至福の表情で干し肉を咀嚼していた。


「やった……! やったわ」


 私は胸に込み上げる熱いものを抑えきれず、作業台の前に駆け寄った。糸枠に残った黒い繊維を、エルウィンが明かりへかざした。魔力が抜けずに留まっている。私は手記の最後の項目へ、小さな印をつけた。


「みんな……本当に、本当にありがとうございました」


 私が深々と頭を下げると、ヘルガが豪快に笑い、ロダンが親指を立て、ルリが嬉しそうに拍手を送り、マルコとガストンが頼もしく頷いてくれた。


「礼を言うのはまだ早いよ、茜!」


 ヘルガが作業台を指差して吠える。


「素材は揃った! ここからが、あんたたち服屋の腕の見せ所だろうが! 最高の服を仕立ててみせな!」

「はい……!」


 私は顔を上げ、エルウィンとヤンを見つめた。二人の瞳にも、迷いのない職人の炎が燃え盛っていた。エルウィンが織り機の前へ座り、私は採寸の紙を並べた。ヤンはモモの干し肉を小さく裂いてから、布端を押さえる場所へ戻ってきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。