第十話・第五幕:熊の腱と森の友【⑤】
街の北門を抜け、私たちは午後の澄んだ風が吹き下ろす街道を北へと急いだ。陽光はまだ高いが、北へ進むにつれて空気の肌触りは目に見えて冷たさを増していく。深い木立を抜け、やがて視界の先に現れたのは、梢の先がうっすらと白く凍てつく霧氷の森の境界だった。
「こっちだよ! あたしの足跡、ちゃんと踏んでついてきて!」
ヤンはサロペットの裾を少し引き上げ、慣れた足取りで獣道を軽やかに駆けていく。木々の根が複雑に絡み合う斜面や、濡れた落ち葉が滑る岩場であっても、彼女の足取りには一切の迷いがない。エルウィンと私で調整したショートブーツがしっかりと大地を捉え、しなやかな跳躍を支えていた。
「待って、ヤンちゃん……! 本当にこの奥にいるの……?」
後ろからついてくるエルウィンが、息を切らしながら手記を抱え直す。
「うん! この時期は、日当たりのいい崖の下に山葡萄がどっさり実るんだ。あいつは食いしん坊だから、絶対にあの茂みの近くで昼寝してるはずさ!」
ヤンが確信に満ちた声で言い、低く垂れ下がった枝をくぐり抜けた。木々の間から差し込む光が、パッと開けた谷あいの岩場を照らし出す。切り立った崖の斜面には、紫黒色に熟した山葡萄のツルが幾重にも群生し、甘酸っぱい果実の香りが冷たい風に乗って漂っていた。
「ここだよ! おーい! いるかー!?」
ヤンが両手を口元に当てて、森の奥へ向かって叫んだ。梢を揺らす風の音だけが、サーッと静かに通り過ぎていく。数秒の沈黙。ガサリ。崖下の分厚い茂みが大きく揺れた。そして。ズボッ。茂みの隙間から、何かの巨大な茶色い塊が勢いよく突き出してきた。丸っこい大きな耳、艶やかな焦げ茶色の毛並み、そして口の周りを山葡萄の果汁で紫色に染めた、巨大な熊の頭だった。
「出たっ!」
エルウィンが思わず私の背後に隠れ、息を呑む。立ち上がれば優に二メートル半はあろうかという巨体。太い丸太のような四肢には分厚い筋肉が詰まっており、野生の王者の風格を漂わせていた。森熊は丸い目をパチクリと瞬かせ、こちらをじっと見つめた。そして、ヤンの姿を捉えた瞬間、太い鼻を「フンッ」と一度鳴らした。
「あはは! やっぱりいた! 口の周り紫にして、相変わらず食い意地張ってんな!」
ヤンが嬉しそうに駆け寄り、茂みから大ぶりの山葡萄の房をもぎ取った。森熊の目の前に差し出すと、熊は器用に前足の先でそれを受け取り、むしゃむしゃと美味そうに口の中へ放り込む。そして、もう片方の前足で、ヤンの肩を「トン」と軽く小突いた。
「わっ!」
ヤンは尻餅をついて地面を二、三回転がり、尻尾の泥を払いながら笑い転げた。
「いきなり小突くことないだろ! ほら、あたしにも一個よこせ!」
ヤンが熊の腕の下へ潜り込み、残った葡萄の房を引っぱる。熊もまた負けじとツルを口にくわえて引き戻す。言葉は交わしていなくても、二人の間に流れる空気は、何年も寄り添い合ってきた幼馴染そのものだった。
「……本当に、仲良しなのね」
エルウィンが恐る恐る私の隣へ並び、驚きに目を見張っていた。
「ええ。ヤンちゃんが森で過ごした大切な時間が、そのまま伝わってきますね」
ひとしきり葡萄を分け合い、じゃれ合いを終えると、ヤンは息を整えて熊の前に正座した。熊もまたどっしりと地面に腰を下ろし、小首をかしげてヤンを見下ろしている。
「……あのさ。今日は、お前に頼みがあって来たんだ」
ヤンの真剣な声に、森熊は静かに耳を澄ませるようにピクリと動かした。しかし、そこで私は胸の内にあった一つの懸念を口にした。
「ヤンちゃん……熊の腱なんだけど」
道具棚から取り出してきた滅菌用の布と小さな刃物を手に、私は眉を寄せた。
「腱は、身体の筋肉と骨を繋ぐ、生き物にとって一番大事な組織よ。……いくら少しだけ分けてもらうとはいえ、生きた身体から腱を採取するなんて、普通なら激痛を伴うし、歩けなくなってしまうかもしれないわ」
手記に書かれていた「熊の腱」。魔物を倒して剥ぎ取るのではなく、心を交わした友から生きながらにして譲り受けるとなれば、相手に多大な苦痛と身体的な負担を強いることになる。その時、エルウィンが静かに前へ歩み出た。
「大丈夫よ、茜さん。……あたしに任せて」
「エルウィンさん?」
エルウィンは優しく微笑み、両手を胸の前で合わせた。彼女の細い指先から、淡い若草色の温かな光がふわりと立ち上る。
「エルフ族に伝わる、治癒魔法が使えるわ。組織を切り離す瞬間に痛みを完全に麻痺させて、傷口を一瞬で塞ぎ、細胞の再生を促すことができるの」
「治癒魔法!」
「ええ。傷口からバイ菌が入ったり、後遺症が残ったりする心配はないわ。……でも」
エルウィンは表情を引き締め、森熊の太い脚を見つめた。
「魔法で傷を塞いでも、採取した腱の線維が元通りの強さに戻るまでには、数日間はどうしても違和感が残るわ。力が入らなかったり、少し足を引きずって歩きづらくなったりするはずよ。……野生の森で生きる熊にとって、数日間でも満足に走れなくなるのは、決して小さくない危険を伴うわ」
エルウィンの言葉は重かった。森で生きるということは、常に弱肉強食の掟の中に身を置くということだ。たとえ短期間であっても、自由な足を差し出すことのリスクは計り知れない。
「腱は無数の細い線維が束になってできているの。表層からほんの数本だけなら、負担は最小限にできるわ」
「それが……あいつに伝わるかどうか、だよね」
ヤンは小さく呟くと、森熊の巨大な顔の前に歩み寄り、その分厚い毛皮に両手を当てた。
「……聞いてくれ」
ヤンは森熊の瞳をまっすぐに見つめ、一言一言、心を込めて語り始めた。
「あたしね、あの森を出て、街で新しい居場所を見つけたんだ。……服屋なんだよ。最初は布切れ一枚で何が変わるんだって思ってた。でも、茜が作ってくれたこの服を着たら、身体がすごく軽くなって、痛くなくなって……あたし、初めて自分の足でどこへでも行けるって思えたんだ」
ヤンはサロペットの胸元をぎゅっと握りしめた。
「エルウィンは温かいご飯を作ってくれて、モモは足元で寝てくれて……あたし、あの店が大好きになった。でも今、街の悪い奴らが、その店を奪おうとしてるんだ」
森熊はヤンを見ていた。言葉のどこまでが分かるのか、私には判断できない。ヤンは自分の前腕を示し、ほんの少しを摘む動きと、休む姿勢を何度か繰り返した。
「店を守るために、神話の紐を編むんだ。お前の腱が……お前のその強くて優しい力が、どうしても必要なんだよ。少しの間、走りにくくなっちゃうかもしれない。それでも……あたしたちに、力を貸してくれないか?」
静まり返る谷あい。冷たい風が梢を揺らし、木漏れ日が二人の間を照らしていた。森熊はしばらくの間、ヤンの顔をじっと見つめていた。やがて、力強く息を吹き出すと、のっそりと右前足を前へ差し出した。爪がこちらに当たらないよう横へ傾けた、太い前足。手のひらを上に向けるようにして、ヤンの目の前の石の上に、ドンと差し出してみせたのだ。
「……貸してくれるのか」
ヤンの瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ありがとう……! 本当に、ありがとう!」
「さあ、茜さん、エルウィン。お願い!」
エルウィンが素早く森熊の足元に膝をつき、両手をかざした。若草色の柔らかな光が熊の前足を包み込み、心地よい温もりで感覚を麻痺させていく。熊は痛がる様子もなく、気持ちよさそうに目を細めていた。私は滅菌した極細の刃を手に取り、エルウィンの指示に従って、魔力が集中している腱の表層部から、髪の毛ほどの細さの腱の線維を丁寧に数本、すっと切り分けた。
切り離された瞬間、エルウィンの治癒魔法が強く輝き、傷口は血の一滴すら流すことなく、瞬く間に滑らかな皮膚へと塞がっていった。
手の中に残ったのは、琥珀色の光沢を帯びた、驚くほど強靭な熊の腱だった。指先で軽く引っ張ってみる。
(なんて強烈な弾力と粘り強さ!)
短い線維なのに、軽く引いただけでは形が崩れない。その強さと、触れた時に浮かぶ大地の魔力は別のものだった。
『森熊の腱組織。効果:引張強度と衝撃吸収力を付与し、いかなる外力による破断をも防ぐ』
(これで……五つ揃った!)
処置を終えた森熊は、ゆっくりと立ち上がった。右足に体重をかけると、エルウィンの言った通り、ほんの少しだけぎこちなく揺れたが、熊は気にする風もなく、ヤンの頭を鼻先で「トン」と優しく小突いた。まるで、「気にするな、行ってこい」と背中を押すかのように。
「ぐすっ……ありがとな……! 店を守ったら、また絶対に美味い果物持って会いに来るからな!」
ヤンは熊の太い首元に抱きつき、その温かな毛皮に顔を埋めた。熊もまた、ヤンの背中に分厚い前足をそっと添えて、優しく受け止めていた。私はその光景を見つめながら、深く、深々と頭を下げた。
「大切な力をお分けいただき、本当にありがとうございました」
「食べ物、置いていくからさ。今日は休んでてくれ」
ヤンは持ってきた干し肉と木の実を、熊の寝床の近くへ運んだ。エルウィンは周囲に簡単な風の結界を張り、熊が歩く様子をしばらく見守った。
「明日の朝も、様子を見に来る。店を守ったら、もっと美味い果物を持ってくるからな」
熊は寝床へ入る前、振り返って鼻を鳴らした。熊はもう一度「フンッ」と鼻を鳴らすと、のっそりと茂みの奥へと戻っていった。
「残る素材は……あと一つね」
並んで歩くエルウィンが、手記を胸に抱きしめながら言った。
「最後の一つは……猫の足音だって」
私の言葉に、ヤンが涙の痕を拭い、いたずらっぽく笑った。
「……へへっ。最後の難関は、うちの店で一番ぐうたらしてる、あいつの出番だな!」
私たちは顔を見合わせ、歩調を速めた。エルウィン洋品店で待つ、あの愛らしい看板猫のもとへ向けて。




