第十話・第四幕:魚の息【④】
冒険者ギルドを後にした私たちは、足早に石畳の路地を抜け、エルウィン洋品店へと戻ってきた。南向きの窓からは正午前の柔らかな陽光が注ぎ、店の前の通りには買い物客や露天商の声が穏やかに響いている。店内に足を踏み入れると、カウンターの奥で丸くなっていたモモが「ふにゃあ」と小さく鳴いて首をもたげた。
私たちが戻ってきた気配を察して、棚から音もなく飛び下りると、ヤンの足元にすり寄って二本の尻尾をゆったりと揺らしている。
「ただいま、モモ。留守番ありがとうね」
ヤンがしゃがみ込んでモモの顎の下を優しく掻いてやると、モモは目を細めて喉をゴロゴロと鳴らした。私は作業台の上に、先ほど手に入れた三つの素材、ヘルガから譲り受けた顎髭と鉱糸、そしてロダンからもらった涎鳥の唾液を並べた。どれも机の上で独特の存在感を放ち、太陽の光を受けて鈍く、あるいは鮮やかに煌めいている。
「こうして並ぶと、本当に手に入ったんだって実感が湧いてくるわね……」
エルウィンが机の端に手を置き、感嘆の息を漏らした。
それから、大事そうに抱えていた古い手記を作業台の中央へ開き、指先で四つ目の項目をなぞる。
「でも、問題はここからよ。魚の息」
エルウィンは困り果てたように眉を八の字に曲げた。
「魚は水の中でエラ呼吸をするでしょう? 空気中に息を吹きかけることなんてあり得ないわ。魚の息なんて、どう考えてもこの世に存在しないものの代名詞よ」
「普通の魚なら、そうですね」
私は作業用の革バッグから、空の小さな保存瓶を取り出しながら微笑んだ。
「でも、私たちは知っています。水の中に住み、見事な魚の尾びれを持ちながら、陸に上がれば人間の肺と皮膚で澄んだ息を吸い、吐き出すことができる特別な存在を」
私の言葉に、ヤンがパッと灰色の耳を立てた。
「……あ! ルリさんだ!」
「その通りよ。ルリさんなら、水と陸の境界を越えて呼吸をすることができるわ」
「そうか……! 人魚族の息なら、まさに魚の息そのものね!」
エルウィンの瞳に、驚きと希望の光が同時に灯った。
「そうと決まれば、裏の船着き場へ行ってみましょう!」
私たちは店の裏手にある、用水路に面した小さな船着き場へと向かった。水路の澄んだ水面には正午の青空と街並みが鏡のように映り込み、時折、小さな川魚が銀色の腹を光らせて跳ねている。石段の最下段まで下りたヤンが、水面を手のひらでリズミカルに三回、パシャ、パシャ、パシャと叩いた。澄んだ水音が、石造りの水路の壁に反響して遠くまで響いていく。
「ルリさーん! いるかー!?」
ヤンが水路の奥へ向かって声を張り上げる。数秒の静寂。水路の底から、ポコポコと小さな気泡が幾重にも湧き上がってきた。バシャァンッ!眩しい水しぶきとともに、青緑色の光が水面から勢いよく飛び出してきた。
「はぁい! 呼びましたか」
水路の縁に両手をかけて身を乗り出したのは、長い群青色の髪を濡らした人魚の女性、ルリだった。驚いたことに、彼女は水中にいながら、以前私が仕立てたあの青緑色のドレープドレスを着たままで、軽い裾は水に沿って揺れ、深いスリットから魚の尾びれが出ていた。
「ルリさん! 良かった、近くにいらっしゃったんですね」
「ええ! 街で買った物を海のお友達にお裾分けして、また午後から陸でお買い物をしようと思って、近くの水路を泳いでいたところでしたの!」
ルリは嬉しそうに微笑むと、尾びれを軽く振って石段へと上がってきた。水から上がると同時に、彼女の下半身が淡い蒼い光に包まれ、滑らかな二本の人間の脚へと姿を変える。ドレスの裾は水気を弾いてさらりと落ち、風をはらんで優美に広がった。
「このドレス、本当に素晴らしいですわ。水の中では泳ぎの邪魔をまったくしませんし、こうして陸に上がった瞬間、お肌が乾くことなく深呼吸ができるのですもの!」
ルリは胸元に手を当て、心地よさそうに肺いっぱいに地上の空気を吸い込んだ。
「喜んでいただけて、仕立て屋として何より嬉しいです。……でもルリさん、今日は突然呼び出してお買い物の邪魔をしてしまってごめんなさい」
「あら、そんなことありませんわ! 何かあったのですか?」
ルリが藍色の瞳を丸くして心配そうに覗き込んできた。私たちは船着き場の石段に腰を下ろし、ガルド伯爵による立ち退きの通告と、店を守るために三人のお揃いの制服を仕立てようとしていること、そしてそのために神話の紐、グレイプニルの素材を探していることを伝えた。
「まあ……! なんて理不尽な……!」
話を聞き終えたルリは、美しい眉をつり上げ、両手をぎゅっと握りしめて怒りを露わにした。
「服など不要だなんて、とんでもない言いがかりですわ! このドレスがなければ、わたくしは陸の土を踏むことすらできなかった……! 生きる世界を広げてくれるこのお洋服を無駄だと言うなんて、絶対に許せません!」
「ルリさん……」
「茜さん! わたくしにできることなら、何でも仰ってください!」
ルリの真摯な言葉に、胸の奥が熱くなる。私は手元に用意していた保存瓶をそっと差し出した。
「ルリさん。グレイプニルを再現するために……『魚の息』が必要なんです。水の中でも陸の上でも生きられる、ルリさんの澄んだ吐息を、この瓶に分けていただけないでしょうか?」
「わたくしの息……?」
ルリは一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐに晴れやかな笑顔を咲かせた。
「そんなことでよろしければ、いくらでも! 喜んでお分けいたしますわ!」
ルリは石段の上で背筋をすっと伸ばし、両手で小さなガラス瓶を包み込むように持った。そして一度、水路の澄んだ空気を深く、胸いっぱいに吸い込む。ルリの首筋にあるエラがかすかに揺れ、全身の白い肌から淡い青い魔力の燐光が立ち上った。
彼女が瓶の口に唇をそっと寄せ、ふうーっと優しく息を吹き込む。瓶の中に、淡い水色の霧のような気体が満ちていく。それは単なる呼気ではなく、水底の清らかな潤いと、陸の澄んだ空気が完璧に調和した、生命の巡りを宿した魔力の吐息だった。
ルリが素早く瓶のコルク栓を閉めると、瓶の中の青い霧は外へ逃げることなく、ガラスの内側で小さな波紋を描くようにゆらゆらと回り続けた。
「はい、茜さん! わたくしの、心からの感謝を込めた息です!」
ルリは両手で大切そうに、その瓶を私へと手渡してくれた。瓶を受け取り、コルクを少し緩めた。口元から漏れた薄い霧が指先へ触れ、ひんやりとした感触と一緒に素材の情報が浮かんだ。私はすぐ栓を締め直した。
(すごい……! 触れているだけで、肌の奥が潤っていくような感覚……)
脳裏に、素材の特性が澄んだ情報となって浮かび上がってきた。
『人魚の息。水気と空気を循環させる生命の吐息。効果:永続的な柔軟性と呼吸性を付与し、外部からの乾燥や摩擦熱による劣化を防ぐ』
(これだわ……! 今の材料だけじゃ硬すぎて、しなやかな布として織ることができない。でも、この人魚の息を吹き込むことで、繊維全体に柔軟性が宿る!)
硬いだけの鎧ではなく、身にまとう「服」として成立させるための、もっとも重要な架け橋。それが、ルリのくれたこの息だった。
「ルリさん、本当にありがとうございます! これで、布としてのしなやかさを保ちながら、切れない糸を紡ぐことができます!」
「ふふ、お役に立てて本当に嬉しいですわ!」
ルリは嬉しそうに立ち上がり、ドレスの裾をふわりと揺らした。
「立ち退きの期限の日には、わたくしも応援に駆けつけますね。この街の人たちに、茜さんのお洋服の素晴らしさを、わたくしの口からも伝えてみせますわ!」
「ありがとうございます、ルリさん!」
ルリは水路へと優雅に飛び込み、水しぶきとともに人の脚を尾びれへと戻すと、青緑色のドレスをきらめかせながら手を振って泳ぎ去っていった。裏庭から戻り、人魚の息を封じた瓶を机へ置いた。午後、森から戻るまでにはギルドの使いが来るかもしれない。
私たちはヘルガへ、夜に制作の相談をしたいという伝言を預けた。ドワーフの髭、鉱糸、鳥の唾液結晶、そして人魚の息。私は瓶同士がぶつからないよう、あいだへ畳んだ布を挟んだ。
「本当に揃いそう」
エルウィンが手記を抱え込み、感極まったように声を震わせた。ヤンも机の上の素材を誇らしげに見つめながら、サロペットのポケットに手を突っ込んで笑った。
「へへっ、どんなもんだい! この世にない素材なんて言ってたって、あたしたちの仲間を頼ればあっという間じゃんか」
「ええ、本当に心強いわね。……さて、エルウィンさん」
私は手記を開いたままのエルウィンに向き直った。
「残る素材は、あと二つです。五つ目は、何と書かれていますか?」
エルウィンは手記の頁をめくり、五つ目の項目を読み上げた。
「……五つ目は、『熊の腱』よ」
エルウィンは少しだけ表情を曇らせた。
「熊の腱は、持ち主の魔力が残っていないと、他の材料に馴染まないそうよ。倒した熊から取るより、生きた熊に分けてもらう方がいいとあるわ。……お願いできる相手なんて、いるかしら?」
その言葉を聞いた瞬間、ヤンの身体がピクンと跳ね上がった。灰色の三角耳がピンと直立し、ふさふさとした尻尾が激しく左右に揺れ始める。
「ヤンちゃん……?」
私が呼びかけると、ヤンは満面の笑みを浮かべ、八重歯をキラリと覗かせた。
「茜! あたし、知ってるよ! 心を交わした、とびきりデカくて強い熊!」
ヤンの北の森の思い出。木の実を取り合い、じゃれ合って転がり、言葉はなくとも心を通わせ合っていた存在。
「北の森の……あの熊さんね!」
「おうよ! あいつなら、絶対に力を貸してくれる! 茜、すぐに出発しよう!」
ヤンが勢いよく踵を返した。ヤンは戸棚から保存食を出し、いつもより多く袋へ入れた。熊に何を頼むことになるのか、私も手記を開き直して確かめた。




