第十話・第三幕:鳥の唾液【③】
鉄槌工房を後にした私たちは、鍛冶屋通りの坂道を駆け下り、街の中央に位置する冒険者ギルドへと足を速めた。
「鳥の唾液なんて、普通なら思いつきもしないわよね。鳥って歯もないし、涎を垂らすイメージなんてないもの」
並んで走るエルウィンが、手記を胸に抱えながら息を切らせて言う。
「普通はいませんよね。……でも、私たちは知っています。大空を飛び回りながら、粘り気のある涎を撒き散らす厄介な怪鳥を」
「……涎鳥!」
ヤンが先頭を走りながら叫ぶ。前に店に飛び込んできた、長弓使いの青年、ロダン。東の断崖絶壁に巣食う涎鳥の群れを討伐するため、空中戦の装備を求めていたあの青年だ。大通りを抜けると、石造りの頑丈な建物が見えてきた。
大きな両開きの扉の上には、交差する剣と盾の紋章が掲げられている。冒険者ギルド本部だ。昼前という時間帯にもかかわらず、併設された酒場兼受付ロビーからは、地鳴りのような歓声と木製ジョッキのぶつかり合う乾杯の音が漏れ聞こえていた。
「おい、ロダン! もう一杯いけよ!」
「本当にあの断崖の巣を、たった一人で壊滅させてきやがったんだからな!」
扉を押し開けて中に入ると、立ち込めるエール樽の匂いと肉の焼ける煙の向こうで、人だかりができていた。その中心で、仲間たちに囲まれながら照れくさそうに笑っていたのは、背中に使い込まれた長弓を背負ったロダンだった。全身の軽甲冑には目立った傷一つなく、足元にはあのロキの靴が、そして肩口には美しく畳まれた鷹の羽衣がしっかりと収められている。
「あ、ロダンさん!」
私が人混みの隙間から声をかけると、ロダンは弾かれたように顔を上げ、群青色の瞳を大きく見開いた。
「茜さん! エルウィンさん!」
ロダンは仲間の肩を叩いて人垣を抜け出すと、大股でこちらへ駆け寄ってきた。
「来てくれたのか! ちょうど今日、ギルドへ正式な討伐完了の報告と換金を済ませたところだったんだ。見てくれよ、この通り無傷だ!」
ロダンは誇らしげに胸を張ってみせた。
「あの羽衣と靴の組み合わせ、本当に良かったよ! 羽衣で一気に断崖の上空まで急接近して、群れの間合いに入った瞬間に変身を解除。宙に投げ出された瞬間には長弓が手元に戻っていて、靴で空気を蹴ってピタリと足場を固定できたんだ。奴らが涎を撒き散らす前に、上空から急所を射抜いて一網打尽さ!」
「無事に討伐できて、本当によかったです!」
エルウィンが胸を撫で下ろす。ロダンは嬉しそうに目を細めたが、ふと私たちの表情の硬さに気づいたのか、眉を寄せて声を潜めた。
「……何かあったのか? ただのお祝いに来たって顔じゃないな」
私たちは酒場の隅の静かな席へ移動し、ガルド伯爵による理不尽な立ち退き通告についてかいつまんで話した。話を聞き終えた瞬間、ロダンの穏やかな顔つきが一変した。
「あの強欲貴族が……! エルウィン洋品店を叩き出すだと!?」
ロダンは奥歯をギリリと噛み締め、拳を卓上に叩きつけた。
「ふざけるな! 俺が無傷であの難関依頼を達成できたのは、あんたたちが俺の戦い方を真剣に考えて、命を守るコーディネートを提案してくれたからだ! 戦えぬ服だと!? あの店がどれだけ冒険者の命を救っているか、あの豚貴族には何も見えちゃいないんだ!」
「ロダンさん、お気持ちだけで十分です」
私が微笑むと、ロダンはハッと息を整え、まっすぐに私を見つめ返した。
「で、茜さん。俺にできることはあるかい? 弓の腕ならいつでも貸すぜ」
「ありがとうございます。実は、ロダンさんに、分けていただきたいものがあるんです」
私はエルウィンの手記を指差した。
「店を守るために、神話の紐、グレイプニルを再現しようとしています。そのために……鳥の唾液が必要なんです」
「鳥の唾液……?」
「はい。涎鳥の、あの猛烈な粘液のことです」
ロダンは一瞬ぽかんとしたが、すぐにポンと手を打った。
「なるほど、あの涎か! あるぞ、ここに!」
ロダンは腰の革ポーチから、手のひらサイズの頑丈な強化ガラス瓶を取り出した。瓶の中には、淡い琥珀色をした、高密度のゼリー状の液体、いや、空気に触れてわずかに結晶化したような、粘り気のある透明な塊が収められていた。
「ギルドへの討伐証明用に、巣の最深部にあった親鳥から採取した唾液結晶だ。提出用には一瓶で十分だったから、予備の分が丸々残ってる。これを持っていってくれ!」
「いいんですか……!? これって売っても高いんじゃ?」
「何を言ってるんだ。俺の命を救ってくれた恩人の店のためだ。こんなもの、いくらでも使ってくれ!」
ロダンは迷うことなく、ずっしりとしたガラス瓶を私の手の中へ押し込んでくれた。ロダンに蓋を開けてもらい、端切れへほんの少し落としたものに触れた。乾燥して結晶になった粘液は、生の涎のような刺激を持たないらしい。鑑定にも、結晶化で侵食性が失われたと浮かんだ。
(すごい粘着力と浸透力……!)
ただのベタベタした液体ではない。生の涎が持つ金属を侵す性質は消えていたが、繊維に密着し、乾くと柔軟な膜になる性質は残っていた。水で戻しても侵食性は復活しない。私は一滴を別の端切れへ取り、加工前に手触りも確かめた。
(これなら……! ヘルガさんの鉱糸とドワーフの髭、そして金羊毛を撚り合わせる際、繊維同士の微細な隙間に入り込んで、一本の強固な糸として完全に一体化させる天然のバインダー(結束剤)になるわ!)
どれほど強い素材を揃えても、繊維同士が摩擦で擦り切れてしまっては意味がない。この涎鳥の唾液があれば、異なる素材の繊維同士を密着させ、強い結束を生み出すことができる。
「最高の素材です、ロダンさん! これで糸の耐久性が何倍にも跳ね上がります!」
「役に立ててよかったよ!」
ロダンは立ち上がると、背中の長弓を親指で弾き、力強い笑みを浮かべた。
「月末、伯爵が店に来る時は俺にも声をかけてくれ。ギルドにも話しておく。あの店の装備が何に役立つかは、俺が報告できるからな」
「ありがとうございます。セリア様にも、契約の相談をしたいんです。どちらへお住まいか、受付で聞けるでしょうか」
エルウィンが尋ねると、ロダンは頷いた。セリア様は領主本府の親族だという。住所を教わり、私たちは立ち退きの通告と相談の希望を書いた手紙を、ギルドの使いに託した。
「ふふ、心強いです。ありがとうございます!」
私たちはロダンに見送られ、ギルド酒場を後にした。手の中のガラス瓶には、太陽の光を浴びて琥珀色に輝く唾液の結晶。これで三つの素材が揃った。
「女の髭、山の根、そして鳥の唾液……」
歩きながらエルウィンが手記を開き、四つ目の頁に視線を落とした。
「茜さん、次は……これよ」
「四つ目は、何ですか?」
エルウィンは手記の文字を読み上げ、少し困惑したように小首をかしげた。
「『魚の息』よ。魚は水の中で生きているのに……息なんて、どうやって手に入れればいいのかしら?」
私は足を止め、店の裏手を流れる水路の方向を見つめた。
「水の中に住んでいて、息をする魚……。エルウィンさん、店に戻りましょう。裏庭の船着き場に、きっといます!」




