第十話・第二幕:髭と根【②】
エルウィンの父親が遺した古い手記には、褐色のインクで几帳面に、けれどどこか焦燥感を孕んだ筆跡で神話の伝承が書き留められていた。
「父がヘルガに頼んだかどうかは、書いていないわ。でも、顔を合わせると、昔のことを思い出させてしまいそうで」
エルウィンは手記の端を握っていた。
「この前、ブラシを作ってくれたんだよ。あたしたちの服も見てくれたしさ」
ヤンが言うと、エルウィンは手記を閉じ、椅子を引いた。
「……そうね。父の代わりにではなく、今の店の話をしに行きましょう」
私は作業台の上から革のバッグを肩に掛け、ヤンは靴紐を結び直した。
「エルウィンさん、手記を持ってきてください。ヘルガさんの仕事が忙しくなる前に、行きましょう」
「え、ええっ!?」
扉を開けると、朝の引き締まった風が吹き込んできた。私たちは飛び出すようにして店を後にし、まだ開店準備を始めたばかりの人通りの少ない通りを駆け抜けた。中央広場を横切り、東へと続く緩やかな坂道を登っていく。
近づくにつれて、空気に混ざる匂いが変わっていった。焼き立てのパンや果物の甘い香りから、焼けた鉄と油、そして立ち上る木炭の香ばしい煤煙の匂いへ。カァンッ、カァンッ、カァンッ!朝の静寂を打ち破る、リズミカルで力強い鎚音が、石造りの家々の壁に反響して響き渡っている。
「ここよ!」
エルウィンの案内で辿り着いたのは、通りの中でもひときわ頑丈な石組みで造られた『鉄槌工房』の前だった。開放された作業場の奥では、赤々と燃え盛る巨大な炉が轟々と唸りを上げ、熱波が通りにまで押し寄せてきている。炉の前では、店主のヘルガが、分厚い革エプロンを締め、巨大な金床の上に熱した鋼材を固定して、身の丈ほどもある大槌を振り下ろしているところだった。ガキンッ! と激しい火花が四方へ飛び散る。
力強く隆起した太い腕、岩のように引き締まった背中。そして、汗に濡れながらも艶やかに編み込まれ、胸元まで伸びた見事な栗色の顎髭が、炉の照り返しを受けて黄金色に輝いていた。
「ヘルガさん!」
私が作業場の入り口から声をかけると、振り下ろされようとしていた大槌がピタリと空中で静止した。ヘルガは太い腕で額の汗を拭い、金床の上の鋼を水桶へ突っ込んだ。ジュウウウッと激しい水蒸気が立ち上る。
「ああん? 誰かと思えば、あんたらかい。朝っぱらから血相変えて、どうしたんだい? この前のカーディングブラシに何か不具合でもあったかね」
「いいえ、ブラシは最高でした! そうじゃなくて……ヘルガさん、相談があるんです」
私が一歩踏み出すと、ヘルガは鋭い琥珀色の瞳を細め、私たちの強張った表情をじっと見つめた。ただ事ではない気配を察したのか、大槌を壁に立てかけ、太い指で顎髭を撫で下ろす。
「……表じゃなんだ。奥へ入りな」
作業場の脇にある石造りの小部屋に通され、鉄の匂いが染み付いた木製のベンチに腰を下ろす。ヘルガが差し出してくれた冷たい井戸水を一気に飲み干してから、エルウィンが昨日の出来事を静かに、けれど震える声で打ち明けた。ガルド伯爵が私兵を引き連れて店に押し入ってきたこと。防衛計画を盾にした不当な立ち退き通告。そして、「戦えぬ服など不要だ」と切り捨てられたこと。
「……なるほどねぇ」
静かに聞いていたヘルガの眉間深くに、凄まじい青筋が浮かび上がっていた。やがて、彼女は太い拳を木製のテーブルへ容赦なく叩きつけた。ドガァンッ!!
「あのクソ豚貴族がぁぁぁッ!!」
地鳴りのような怒声が小部屋を揺らした。
「昔からそうだ! 前線都市だの防衛強化だの御託を並べては、気に食わない職人や零細の店を兵の力で脅して買い叩き、自分の武具工房に変えちまう! エルウィンの親父さんが倒れた時も、裏で汚い手を回していたのは街の鍛冶屋連中もみんな知ってるさ!」
「ヘルガさん……」
「戦えぬ服は不要だと!? 笑わせるんじゃないよ! あたしたち鍛冶屋がどれだけ頑丈な鎧を叩いたところで、その下に着るインナーや仕立てがなけりゃあ、兵士の肌は鉄擦れと汗疹で戦う前にズタボロになるんだ! 服と武具は、互いに支え合って初めて命を守るものだろうが!」
ヘルガの怒りは、同じ職人としての誇りからくる本物の激昂だった。彼女は荒い息を吐きながら、腕組みをして私を睨み据えた。
「で……茜。あんた、ただ泣き寝入りしにここへ愚痴を言いに来たわけじゃないんだろう? その目つき、何か仕掛ける気だね」
「はい」
私は力強く頷き、エルウィンの手記をテーブルの上に開いた。
「私たちは、あの店を絶対に明け渡しません。そのために、三人のお揃いの制服を仕立てるんです。金羊毛の糸に、神話の紐、グレイプニルを織り込んだ、決して破れない服を作ります」
「グレイプニルだと……?」
ヘルガが目を丸くし、手記の文字を覗き込んだ。
「グレイプニルか。ドワーフが鍛えたって伝説だね。あたしも子供のころによく聞かされたよ。この世に存在しない素材ばかりを集めて作ったって伝承だ」
「いいえ、ヘルガさん。この世に存在しないわけじゃありません」
私はまっすぐにヘルガの顔を見つめた。
「手記に書かれた最初の一つ……『女の髭』です。エルフや人間にとっては存在しないものでも、誇り高きドワーフの女性にとっては、美しさと技術の象徴そのものでしょう?」
「……!」
ヘルガは息を呑み、それから自分の胸元まで伸びた見事な顎髭に手を触れた。数秒の沈黙の後、工房の屋根を吹き飛ばさんばかりの豪快な大笑いが響き渡った。
「ガハハハハハッ!! 違いない! 違いないねぇッ!!」
ヘルガはお腹を抱えて笑い転げ、何度も太ももをバシバシと叩いた。
「神話の言い回しを真に受けりゃ、あり得ないものさ。でもあたしにとっちゃ、毎朝手入れしてる髭だ。これで店を守るってなら、断る理由はないね」
ヘルガは作業机の引き出しを乱暴に開けると、手入れ用の銀の櫛と、刃の鋭い小ぶりの裁ち鋏を取り出した。
「いいよ! あのガルドの鼻っ柱をへし折る服になるってんなら、あたしの自慢の髭、いくらでも梳いて持っていきな!」
「ありがとうございます、ヘルガさん!」
ヘルガは編み込みを解くと、手入れの行き届いた顎髭に銀の櫛を丁寧に通した。抜け落ちた毛や、毛先を整えるために切り落とされた毛束が、机の上の清潔な布の上に集められていく。私はその毛束をそっと指先でつまみ上げた。
(すごい……!)
人毛とも、羊や山羊の獣毛ともまるで違う。金属のような硬質なコシと独特の艶がありながら、指先で曲げると驚くほどしなやかにたわみ、離せば一瞬で元の形状に戻る。これは……繊維として使える。
「上等な繊維だわ……。これなら、強い張力がかかっても絶対に伸び切らず、芯として糸を支えてくれる」
「ガハハ、当たり前さ! 毎日上等な油で手入れしてるんだからね!」
ヘルガは満足そうに顎を撫でると、机の上の手記をもう一度指差した。
「で、茜。次はなんだい? 手記には他に何が必要だって書いてあるんだ?」
エルウィンが手記のページをめくり、二つ目の一節を読み上げた。
「たしか……二つ目は『山の根』よ。大地に根を張る山……これも、普通の植物の根っこじゃないわよね」
その言葉を聞いた瞬間、ヘルガの口元がニヤリと吊り上がった。
「山の根、ねぇ……。茜、あんた、ブラシを受け取りに来た時、うちの作業台で何を見たか覚えてるかい?」
「あ……!」
私の脳裏に、ブラシを受け取りに来た朝、ヘルガが見せてくれたあの銀色の束が閃いた。
「山の深部の岩盤で、根のように伸びる鉱物繊維『鉱糸』!」
「その通りさ!」
ヘルガは立ち上がると、作業場のさらに奥、頑丈な鉄の金庫から、木箱を取り出してきた。蓋を開けると、中には以前カーディングブラシの針に使った加工済みの鋼ではなく、採掘されたままの、細い銀の絹糸のようにしなやかに波打つ鉱糸の束が収められていた。
「山の深奥、何万年もの大地の圧力と魔力の中で、岩盤の隙間を縫うようにして伸びる鉱物の根……それがこの鉱糸の正体さ。普通の金属みたいに溶かして固めたもんじゃない。大地そのものが紡ぎ出した、生まれついての金属の繊維だよ」
ヘルガはその鉱糸の束を、惜しげもなく私の手の中へと載せてくれた。
「加工前のものだ。これなら、あんたの紡ぎ車で他の素材と一緒に撚り合わせることができるはずだ。……持っていきな」
「ヘルガさん、こんなに貴重なものを……本当にいいんですか?」
「へっ、職人が本気で作る最高の一着に素材を出すのを渋る奴がどこにいるもんかい。……その代わり、半端なものは許さないよ。あの伯爵の度肝を抜く、本物の服を仕立ててみせな!」
「はい……! 絶対に、最高の服にしてみせます!」
私は顎髭の毛束と鉱糸を、布袋の中へと大切にしまい込んだ。掌に伝わる、確かな素材の重み。
「よし……! これで二つ揃いました」
私が顔を上げると、エルウィンが手記の次の頁をめくりながら、驚きと期待の混ざった声を漏らした。
「……譲ってもらえたのね。三つ目も、頼んでみましょうか」
「三つ目は何ですか、エルウィンさん?」
エルウィンは手記の文字を読み上げ、少しだけ可笑しそうに口元を綻ばせた。
「鳥の唾液よ。……これにも、心当たりがあるのかしら?」
私とヤンは顔を見合わせ、再びニヤリと笑みを交わした。




