第十話・第一幕:私たちの制服【①】
朝の光が、居住スペースの板張りの床に斜めに差し込んでいた。昨日、私兵たちの荒々しい足取りで蹴破られかけた木製扉は、エルウィンが蝶番を締め直し、どうにか枠に収まっている。だが、蝶番の周辺には白く毛羽立った木肌の亀裂が残り、外れたカウベルは磨き直されてカウンターの片隅に静かに置かれたままだった。
作業場に入ると、エルウィンは仕立て机の前に腰掛け、淹れてから時間が経った冷たいお茶のカップを両手で包み込んだまま、じっと動かずにいた。
長い銀髪が肩から滑り落ち、尖った耳がわずかに下を向いている。そのすぐ隣では、ヤンが床に胡座をかき、短剣の切っ先で無言のまま木片を削っていた。 削り屑が足元に散らばる。サロペットのポケットに突っ込まれた左手の拳が、小さく震えていた。日当たりの良い棚の上では、モモが丸くならず、身体を低く伏せた姿勢で窓の外の通りを見つめている。二本の尻尾の先だけが、苛立ちを隠せないように微かに揺れていた。
私は一度、奥の在庫室の扉を見た。富をもたらすという指輪は、あそこにある。でも、借金を返すまで何年もかかったエルウィンに、あれを使おうとは言えなかった。道具棚から清潔な布巾を取り出すと、作業台の上に積もっていた昨日の埃を隅々まで丁寧に拭き清めた。
それから棚のハーブ瓶を手に取り、熱い湯を沸かし直す。澄んだ琥珀色の湯気が立ち上り、作業場に爽やかなレモングラスと乾燥カモミールの香りが広がった。
「エルウィンさん、ヤンちゃん。温かいお茶が入りましたよ」
二つのカップを机の上に置く。エルウィンはハッと顔を上げ、気まずそうに視線を泳がせた。
「あ……ごめんなさい、茜さん。あたし、ぼんやりしちゃってて」
「いいえ。……ヤンちゃんも、刃物を置いてお茶にしましょう」
ヤンは短剣を鞘に収めると、膝を抱え込むようにして椅子へ腰掛けた。カップの湯気を見つめながら、ぽつりと呟く。
「……あたし、昨日の夜、ずっと考えてたんだ」
「何を?」
「あいつらの鼻っ柱を、どうやってへし折ってやろうかってさ。夜中にあの伯爵の屋敷に忍び込んで、足首の腱でも切ってやろうかって」
「ダメよ、ヤンちゃん」
エルウィンが静かに、けれど強い口調で遮った。
「そんなことをしたら、あなたまで犯罪者として捕まってしまうわ。父の代から揉めていた相手なの。あたしがもっと早く、契約のことを相談しておけばよかった」
「エルウィンさんのせいじゃないって、昨日も言ったでしょ」
ヤンが悔しそうに眉を跳ね上げる。
「茜がせっかく新しい服を作って、店もこれからだって時に……あんな偉そうな奴らに、この場所を明け渡してなるもんかよ」
「でも、相手は貴族で、商業ギルドの顔役よ。仕入れルートを止められて衛兵を動かされたら、あたしたちみたいな小さな店なんて」
エルウィンの声が震え、言葉が途切れた。張り詰めた沈黙が落ちる。木枠の紡ぎ車に巻かれた金羊毛の糸だけが、朝露のような柔らかな輝きを作業台の上で放っていた。私はカップを両手で持ち、静かに一口喉を潤した。
それから、二人の目をまっすぐに見つめた。
「落ち込んでいる暇はありませんよ」
エルウィンとヤンが、同時に顔を上げた。
「茜さん?」
私は作業台の中央へ歩み寄り、樫の木の糸枠に手を置いた。
「最高の一着を作りましょう」
「最高の一着……? 金羊毛の、防寒アウターのこと……?」
エルウィンが首を傾げる。
「いいえ。ただの防寒着ではありません。この店がここに在り続けるための、私たち三人のお揃いの制服です」
「制服……?」
ヤンが目を丸くした。
「ええ。ヤンちゃんが動きやすく、エルウィンさんが誇らしく胸を張れて、私が自信を持ってお客様を迎えられる服。この店で働く私たちが、一つのチームであると誰の目にも分かるような、最高の一着を仕立てるんです。……この店は誰にも渡さないという意志を、私たちの着る服で示しましょう」
ヤンの瞳に、じわりと光が戻ってきた。耳がピンと前を向く。
「お揃いの……制服」
「そうよ。……でも、茜さん」
エルウィンが机の端に指を触れながら、少し困ったように眉を下げた。
「金羊毛の糸は本当に素晴らしいわ。保温性も肌触りも最高峰よ。でも……相手は私兵や武具を揃えた貴族よ。普通の服を仕立てただけで、あの人たちの力づくのやり方に対抗できるかしら?」
「そこです」
私は一度言葉を区切り、昨日の朝の記憶を手繰り寄せた。奥の在庫室で、エルウィンが古い木箱を見つめながら口にした、あの言葉。
「エルウィンさん。昨日、お父様が集めようとしていたというグレイプニルの話をしてくれましたよね」
「え……? ええ、話したけれど……どうして急に?」
「あれが、どんなものだったのか……もう一度詳しく教えていただけませんか?」
エルウィンは不思議そうに瞬きをしたが、やがて立ち上がり、作業場の棚の引き出しから一冊の分厚い手記を持ってきた。革の表紙はすっかり擦り切れ、ページ全体が飴色に変色している。エルウィンの父親が遺した、古い覚書だった。
「父の手記に、神話の写しが残っているわ」
エルウィンは細い指先でページをめくり、一つの項目の前で指を止めた。
「……これよ。グレイプニル。神話の時代、神々が世界を滅ぼすと言われた巨狼フェンリルを縛り上げるために、地下のドワーフたちに作らせた神具よ」
「巨狼を、縛る紐……」
ヤンが手記を覗き込み、息を呑む。
「ええ。それ以前に神々が作った鉄の鎖や鋼の縄は、どれほど太くても狼の力であっさりと引きちぎられてしまった。けれど、このグレイプニルだけは、絹の布地のように滑らかで、どれほど引っ張っても決して千切れることがなかったと伝えられているわ」
エルウィンは小さく息を吐き、手記の古い文字を指でなぞった。
「父は、その強靭さに取り憑かれていたのね。珍しい素材の持ち主を探しては、金さえ出せば買えると思っていた。もう取引先の信用をなくしていたのに」
「どんな材料が必要なんですか?」
「そうよ。神話には、この世のどこにも存在しない『六つの奇妙な素材』とあるの。父は別の写しも集めて、何が使えるかを調べていたわ」
エルウィンは手記の余白を指でなぞった。
「最初の女の髭は、ドワーフの女性の髭。ただ、父が頼んだ職人には断られたそうよ。手入れして集めた髭には持ち主の魔力が残る。売り物として刈り取られたものでは、うまく紡げなかったって」
「ヘルガさんも、同じお願いをしたら断るかしら」
エルウィンは少し黙り、手記を机に広げ直した。
「……分からないわ。あたし、父の話だと思って、ずっと頼めなかったの」
「頼むだけなら、行ってみようよ」
ヤンが顔を上げた。私は残る項目を読んだ。山の根、鳥の唾液、魚の息、熊の腱、猫の足音。最後まで目を通してから、欄外の細かな図を見る。髭と鉱糸を芯にし、ほかの素材を重ねる順番まで記されていた。
「全部が手に入るかは分かりません。でも、候補を考えてみることはできます。作るための記録も、残っているんですね」
エルウィンが頷いた。
「ええ。父より前の職人が書いた工程を、写したものらしいわ。切れない糸を作るだけじゃなく、結び方の記録もあるの」
彼女は次の頁を開いた。縫い目を輪にしてつなぐ図と、建物の柱や礎石を線で結んだ図があった。
「力のかかった場所を、輪の全体で支える。服なら縫い目同士、建物なら柱と土台をつなぐ。一本の柱へ結ぶだけでは、ほかの壁までは守れないって」
「それなら、服と建物、それぞれの結び方を試さないといけませんね」
私は紙の端に指を置いた。糸が作れても、これで接収の命令が消えるわけではない。
「私兵を防いでいるあいだに、契約を確かめてもらう時間を作れるかもしれません。まずは、店と私たちが傷つかずに待てるようにしたいんです」
「そのグレイプニルを、金羊毛と一緒に制服へ使いましょう。建物の分も、必要な長さを調べながら」
エルウィンは手記と金羊毛の糸を交互に見た。私が差し出した手へ、古い手記を渡してくれる。
「……父の記録を、あたしたちで試すのね」
「ええ。まずはヘルガさんに相談しましょう」
「あたしも行く。髭のおばちゃんなら、頼む時に何を言えばいいか分かるしさ」
ヤンは椅子から下り、道具袋を持った。私はハサミとメジャーの位置を確かめ、エルウィンと一緒に立ち上がった。




