第九話:ニーベルングの指輪【後編】
エルウィンが困ったように眉を下げた、まさにその時だった。ドガンッ!!静かな店内に、暴力的な破砕音が炸裂した。
「きゃあっ!?」
蹴り開けられた店舗の木製扉が、壁に激突して激しく軋んだ。カウベルがちぎれんばかりに甲高い音を撒き散らし、床に叩きつけられて転がる。日向で寝ていたモモが「シャーッ!」と全身の毛を逆立てて棚の隙間へと飛び退いた。
「な、何事!?」
私たちが作業場から飛び出すと、店舗の入り口には、威圧的な黒塗りの重装甲冑を着込んだ私兵たちが四人、柄に手をかけた状態で立ち塞がっていた。そして、その中央を割って、ゆっくりと一人の男が足を踏み入れてきた。
漆黒のビロードマントの襟元には、最高級の銀狐の毛皮があしらわれている。胸元には燦然と輝く大粒のルビーのブローチ。五十がらみの筋骨逞しい体躯に、手入れの行き届いた口髭。だが、その窪んだ灰色の瞳には、他者を虫けらのように見下す冷酷な光が宿っていた。
「ふん……。相変わらず、薄汚い布の匂いが充満しているな」
男は鼻元をシルクのハンカチで覆いながら、陳列棚に並ぶアイボリーのブラウスやウールのストールを、革手袋をはめた指先で汚らわしそうに払い除けた。
「あ、あなた……! いきなり入ってきて、何をなさるんですか!」
エルウィンが顔色を変えて前に進み出た。男はエルウィンを一瞥すると、嘲るような薄笑いを浮かべた。
「久しぶりだな、落ちぶれエルフの娘。……いや、店主殿と呼ぶべきか」
「ガルド伯爵!」
エルウィンの唇が小さく震えた。
「何の用ですか、ガルド伯爵。当店は今月の地代も、ギルドへの上納金も一銅貨たりとも滞納しておりませんが」
エルウィンが毅然とした声で言い放つ。しかし、ガルド伯爵は鼻でせせら笑うと、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、カウンターの上に放り投げた。
「用件は一つだ。六日後、月末をもって、この建物を明け渡せ」
「なっ……!?」
エルウィンが息を呑んだ。横から羊皮紙を覗き込んだ私の目に、『都市防衛計画に基づく区画接収通告書』という大仰な文字が飛び込んできた。
「立ち退きですって……!? そんなの横暴です! 正規の契約期間はまだ何年も残っているはずよ!」
「契約だと? フン、有事における防衛区画の接収権限は、領主代行であるこの私に一任されているのだよ」
ガルド伯爵は冷酷に口元を歪め、店内の陳列を睥睨した。
「見ろ、この軟弱極まりない布切れの山を。東の魔物領域が活性化している今、この街に必要なのは武器と頑丈な鎧だけだ。貴様らのような零細の服屋に、防具通りに隣接するこの一等地を与えておく理由など微塵もない。ここを取り壊し、前線へ物資を供給するための軍需倉庫と大型鍛冶工房を増設する」
伯爵の冷たい視線が、私、そしてヤンへと向けられる。
「戦えぬ服など、この街には一切不要だ。……立ち退き料として金貨五十枚を恵んでやる。今月末までに荷物をまとめ、街の外へ消え失せろ」
「ふざけんなっ!」
ヤンが激昂し、尖った八重歯を剥き出しにして前に飛び出そうとした。森を出て、ようやく見つけた温かい自分の居場所。それが無価値なゴミのように罵倒されたことが許せなかったのだろう。
「ヤンちゃん、待って!」
私はとっさにヤンの肩を掴んで押し留めた。相手は私兵を連れた貴族だ。暴力で訴えれば、それこそ相手の思う壺になる。
「おや、薄汚い獣人の野良犬が吠えているな」
ガルド伯爵は冷笑を浮かべ、私の胸元を指差した。
「そこの異邦人の小娘。貴様が来てから小賢しい商売を始めたそうだが……所詮は服屋だ。刃を防ぐ鉄も打てず、魔法を弾く結界も張れぬ布切れなど、血で血を洗う戦場では何の役にも立たん」
「立ち退きはお断りいたします、ガルド伯爵」
静かな、しかし凛とした声が店内に響いた。ガルド伯爵が眉をピクリと動かし、視線を私へと戻した。
「……何だと?」
「私たちが扱っている服は、戦えない布切れなどではありません。日々の暮らしを支え、怪我を防ぎ、身につける人の本来の力を引き出すための、大切な装備です」
「ハッ! 口先だけは一丁前だな」
「口先ではありません。当店の服やアイテムを必要としてくださるお客様が、現にこの街にたくさんいらっしゃいます。それを戦えぬ服と決めつけ、一方的な理屈で追い出すなど、断じて受け入れられません」
ガルド伯爵の目が、わずかに細められた。嘲笑が消え、底冷えするような不快感がその貌に広がる。
「……身の程知らずの小娘が。服屋ごときが、この私に意見するか」
伯爵はゆっくりと背を向け、扉へと歩き出した。そして、敷居を跨ぐ直前、首だけを振り返って冷酷に言い放った。
「月末だ。それまでに店を畳まねば、ギルドの権限を用いて仕入れルートを完全に封鎖し、衛兵を使って力ずくで叩き出すまで。……せいぜい、その無力な布切れを抱いて泣き喚くがいい」
ドカドカと重い鉄靴の音を残し、私兵たちを引き連れたガルド伯爵は去っていった。嵐のような静寂が、店内に戻ってきた。外れたカウベルが床に転がり、開け放たれた扉から冷たい秋風が吹き込んでくる。
「……くそっ! なんなんだよ、あいつ!」
ヤンが悔しそうに拳を震わせ、壁をドンと叩いた。
「あたしたちの店を……茜が作ってくれた服を、何の役にも立たない布切れなんて言いやがって!」
「ヤンちゃん」
私はヤンの肩に手を置き、それからエルウィンを見た。エルウィンは青ざめた顔で立ち尽くし、震える手でカウンターの端を握りしめていた。
「……あたしのせいよ」
「エルウィンさん?」
「父の代から……ガルド伯爵はうちの店を目の敵にしていたの。あの人は昔から、防具通り一帯を自分の武具工房で埋め尽くしたがっていた。……父が借金を作った時も、裏で糸を引いていたのはあの人だったわ」
エルウィンは唇を噛み締め、悔し涙を浮かべた。
「せっかく……せっかく茜さんがお店を立て直してくれて、ヤンちゃんも来てくれたのに……。あたしの過去のせいで、二人を巻き込んじゃって」
「エルウィンさん、顔を上げてください」
私はエルウィンの両手をぎゅっと握りしめた。
「エルウィンさんのせいなんかじゃありません。あの伯爵が言ったこと、聞きましたよね? 戦えぬ服など不要。あれは、私たちの服屋としての存在そのものへの宣戦布告です」
私は店内の棚を見回し、空いた場所から、送り出した品を思い出した。火鼠のインナー、アンジェリカの指輪、鷹の羽衣とロキの靴、ヤンのサロペット、ルリさんのドレープドレス、そしてヴィーザルの靴。もう店にはない品も多い。それぞれを抱えて帰っていった客の顔は、覚えている。
「武器や鎧だけが、人を守るものじゃない。服には服にしかできない、人を守り、強くする力がある……それを証明してみせましょう」
「茜さん……」
「絶対に、この店を奪わせたりしません!」
ヤンが涙を拭って力強く頷いた。私も拳をぎゅっと握りしめる。服屋にしか作れないものが、きっとある。そう強く思った。棚の陰からそっと出てきたモモが、私の足元に歩み寄り、「にゃあ」と低く、けれど確かな声で鳴いた。私は床のカウベルを拾い上げた。金具は曲がっていたが、中の舌はまだ動く。直して、もう一度扉へ掛けたかった。




