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第九話:ニーベルングの指輪【前編】

 カタカタ、カタカタ。心地よい乾いた木の回転音が、作業場に静かに響いていた。窓から差し込む朝の光を受けながら、私は昨日買った部品をエルウィンに組んでもらった紡ぎ車を踏んでいた。最初は糸を二度切ってしまい、今も彼女に撚りの強さを見てもらいながらの作業だ。


 ヘルガが鉄槌工房で作ってくれた大型カーディングブラシで丁寧に解された金羊毛は、まるで朝露を吸った雲のようにふんわりと膨らみ、紡ぎ車の回転に合わせて、驚くほど均一で極細の金糸となって巻き取られていく。


「茜、今度は途切れてないね!」


 隣で原毛をブラシに載せる手伝いをしてくれていたヤンが、目を丸くして感嘆の声を漏らした。灰色の耳をぴんと立て、くるくると回る糸枠を食い入るように見つめている。


「ヘルガさんのブラシのおかげね。繊維の一本一本がまっすぐに整っているから、縒りをかける時に摩擦が均一にかかるの。これなら、自然な黄金色を損なわず、染色の発色や定着も綺麗に馴染んでくれそうだわ」

「ふふ、見ているだけで吸い込まれそうな美しい黄金色ね」


 エルウィンが温かいハーブティーの入ったポットを作業台の端に置きながら、優しく目を細めた。足元では、日当たりの良い木箱の上に陣取ったモモが、紡ぎ車の規則正しい音を子守唄代わりにしながら、丸くなっている。


「午前中のうちに、糸を紡ぎ終えちゃいましょう。……あ、その前に、奥の保管棚の換気だけ済ませておきますね」


 私は一度紡ぎ車を止め、作業場のさらに奥、普段はあまり使われていない、頑丈な鉄扉で仕切られた在庫室へと向かった。先日、鷹の羽衣やロキの靴を取り出したガラスケースのさらに奥。そこには、エルウィン洋品店が開業した当初から眠っているという、古い木箱や革張りのトランクがいくつも積み上げられていた。


 埃を払うため、最上段に置かれていた黒漆塗りの小箱に手を伸ばす。その瞬間、指先が箱の表面に触れただけで、背筋を氷の刃で撫でられたような、異様な悪寒が走った。


(……っ!? なに、この冷たさ……)


 おそるおそる小箱の真鍮の留め具を外すと、中には色褪せた黒いビロードの布に包まれた、一つの装飾品が鎮座していた。それは、重厚な黄金で作られた指輪だった。派手な宝石は嵌め込まれていない。しかし、そのリングの表面には、見ているだけで平衡感覚が狂いそうなほど緻密で禍々しい文字が刻み込まれている。


 中の品を確かめようと、包みの布へ触れた。箱の冷たさは気のせいかと思ったが、布を通して鈍い衝撃が指先に伝わり、情報が浮かんだ。魔力を帯びた中身と一緒に作られた包みなら、間に薄布があっても読み取れるらしい。


『ニーベルングの指輪。伝承級。ドワーフの王が愛を捨てて鍛え上げたとされる黄金の指輪。強大な富と魔力をもたらすとされるが、同時に抗えぬ破滅と死の呪いをもたらす』

(強大な富と……破滅の呪い?)


 息を呑んで指輪を見つめていると、背後からスッと伸びてきた手が、静かに小箱の蓋を閉じた。


「茜さん。それは……売り物じゃないのよ」


 振り返ると、エルウィンがいつになく硬い表情で立っていた。


「エルウィンさん……これって」

「ニーベルングの指輪。……うちの店が、かつて栄えて、そして没落した原因そのものよ」


 エルウィンは小箱を両手で抱え、遠い過去を手繰り寄せるように静かに語り始めた。


「昔……あたしの両親がこの店を開いた頃、店は今よりもずっと大きくて、王都や他国からも貴族や大商人たちが服を買いに訪れていたの。でもある日、父が旅の冒険者からこの指輪を譲り受けてしまってね。莫大な富を引き寄せるという噂に目が眩んで、店をどんどん拡張していったわ」


 エルウィンの碧眼に、深い哀愁が滲む。


「最初はすべてがうまくいっていたそうよ。でも、指輪に囚われた父は次第に猜疑心を募らせ、取引先を疑い、職人たちを怒鳴り散らし、最後は怪しい投資話に騙されて全財産を失った。……父も母も、心労で相次いで亡くなってしまったわ」

「そんなことが」

「残されたのは、莫大な借金と、この売り物にもできない呪われた指輪だけ。他人に売れば、また同じ悲劇が繰り返される。だからあたし、魔力を抑えるこの布で包んで、箱に収めたの。身につけなければ呪いは働かないけれど、二度と誰の手にも渡さないって決めたの。……どれだけ店が困窮しても、これだけは絶対に手放さないって」


 エルウィンは小さく息を吐き、箱を棚の最奥へと押し戻した。


「あの頃の父は、本当におかしくなっていたわ。神話やおとぎ話に出てくるような珍しい素材ばかりを追い求めて、大金を注ぎ込んで……。絶対に切れない神々の紐、グレイプニルを再現するんだって言って、足音だとか息だとか、よく分からない素材を探し回ったりもしていたわ。材料の候補は見つけたのに、誰からも分けてもらえないままだったけれど」


 前の世界で聞いた神話の伝承に、私の胸が微かにざわめいた。狼の巨獣を縛り上げたという、神話の紐。


「そんな夢ばかり追って、足元の服作りを忘れてしまったのね。……ごめんなさい、湿っぽい話しちゃって。さ、作業場へ戻りましょ」

「あ、はい!」


 エルウィンが鉄扉を閉め、私たちは再び明るい作業場へと戻った。作業場に戻り、淹れたてのハーブティーをカップに注ぐ。ヤンも木枠の整理を一段落させ、差し出された干し果物をポリポリとかじりながら席に着いた。


「でも、エルウィンさん。この店を残してきたんですから、本当にすごいです」

「借金は、広かった店と倉庫を手放して、長いこと返し続けたの。払い終えたのは、茜さんが来る少し前よ。仕入れに回すお金まで減って、父の代の在庫を抱えたままになっていたわ」

「ううん、あたしの力じゃないわ。茜さんが来てくれて、ヤンちゃんが手伝ってくれて……それに、街の仕入れ先や職人さんたちが支えてくれたおかげよ」


 エルウィンはカップを両手で包み込みながら、ふと視線を落とした。


「……ただね。最近、ちょっと気になることがあって」

「気になること……ですか?」

「ええ。ここ数日、商業ギルドや通りの地主筋の態度が、妙に刺々しいのよ。うちの店が少しずつ売上を伸ばしているのを見て、何人かの大商人たちがギルドの寄合で苦い顔をしているらしくてね」

「えっ……? なんでだよ、自分たちで真面目に稼いでるのに、文句言われる筋合いなんかないじゃんか」


 ヤンが不満そうに灰色の眉をひそめた。


「この街の商業ギルドはね、中央通りを牛耳る大手の武具商たちと深く繋がっているの。彼らにとって、この街は魔物と戦うための前線都市。自分たちの店を通さずに冒険者の装備が売れるのが、面白くないみたいなの。軍需の取引も、できるだけ身内で囲っておきたいのでしょうね」

「武器至上主義……ですか」


 私は街に降り立った時の光景を思い出した。街を行き交う人々は皆、ゴツゴツとした金属鎧や無骨な革装備ばかりを着ていた。機能性や着心地、日常の彩りといった要素は二の次にされ、戦えるかどうかだけが価値基準になっている街。


「残ったこの建物は、長期契約で借りているの。地代の支払いもギルド規約もきちんと守っているわ。だから今までは、いくら嫌味を言われても法的に追い出されるような筋合いはなかったの。……でも、最近の空気はちょっと不穏でね」

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