メタ子、後輩が出来る。
過酷な冬という季節がようやく終わりを告げ、今では街路樹の枝先にピンクの花が咲き始める様になっていた。
春……それは一部においては出会いと別れの季節であり、新たな門出を迎える若者達が希望に胸を膨らませる季節でとある。
そしてメタ子が身を置くこの会社にも例外なくその季節が巡ってきていた。
「おいお前達!手を止めてちょっと聞け!」
月曜日の朝礼の時間…フロア中に響き渡る声でそう叫ぶのは彼女達の課長だった。
「来月からいよいよ我が営業部にも待ちに待った新入社員が配属されることになった!ピチピチの新卒だぞ新卒!お前らは先輩社員としての威厳をしっかり保って良いところを見せてやれよー!」
課長はそう言いながら一番隅の方に立っていたメタ子の元へと歩み寄るとその肩をバシバシ叩きながら告げる。
「特にメタ子!お前もいつまでもペーペー気分でいるんじゃないぞ!新人の前で情けない顔は見せるなよ!」
「いっ…!……は、ははは、頑張ります……」
メタ子は頬を無理やり引きつらせいつもの乾いた愛想笑いを浮かべながら痛む肩をそっと押さえた。
(……良いところですか…一体どこを見せろと言うのでしょうか)
定時退勤など夢のまた夢で深夜までキーボードを叩き続ける姿だろうか、コンビニの食品とエナジードリンクで胃袋を壊しながら虚ろな目で画面を見つめる姿だろうか。
(そもそもこんな泥舟企業に一体どこの物好きな新卒が入社してくるというのでしょうか…?)
就職情報サイトに書かれていたであろう『風通しの良いアットホームな職場』、『若手がいきいきと活躍できる環境』などという美辞麗句に騙された哀れな犠牲者なのか……よほど切羽詰まった事情でも抱えているのか、いずれにせよまともな判断力を持つ若者であればこの澱みきったオフィスの空気を吸った瞬間に回れ右をして逃げ出すはずだった。
それから数日、オフィスの奥にある大会議室では連日にわたって最終面談が行われていた。
すりガラスの向こう側には会社の重役らしき人物達がおり、緊張で直立不動になっているスーツ姿の若者達と対峙しているのが見える。
しかしそんな社内のイベントなどメタ子達現場の社員には何の関係もなかった。
「十六夜さん、これ先方からの修正指示書だから至急反映させて」
「わかりました、すぐに確認します!」
「メタ子ちゃんプリンターのトナーの予備どこにやったっけ?」
「給湯室の奥の棚の下から二段目にあります!」
現場の空気は昨日とも一昨日とも何一つ変わらない、ただひたすらに目の前に積まれた仕事を片付けるだけである。
『どんな子が来ると思う?』
『可愛い子がいいなー』
……などそんな呑気な会話が交わされることなど万が一にもあり得ない、どんな新人が来るのかを和気藹々と予想し合う時間があるくらいなら一つでも多くタスクを処理し、一行でも多く精査した方がいい。
それでもメタ子の胸の内に小さな…本当に小さな淡い希望が芽生えていなかったかと言えば嘘になる。
(……もしも我が営業部に新人が二人……いえ一人でも配属されてくれたなら…)
雑用やデータ入力、コピー取りや電話の一次受けだけでも新人が引き受けてくれれば………。
単純計算で一人当たりの業務量は確実に分散されるはずだ、定時退勤とまではいかなくとも毎日深夜を回っていた退勤時間が少しでも前倒しされる日が増えるのではないか。
そうすれば居酒屋でゆっくりと腰を落ち着けられる日も増えるだろうし、睡眠時間を一時間でも多く確保できるかもしれない。
「頼みますよ人事の方々、少しでも頑丈で作業の早そうな人を連れてきてください……」
誰にも聞こえないような小声でそんな祈りを捧げながら、メタ子はひたすらタイピングを繰り返していった。
…………そして桜の花びらが風に舞い散る四月の初旬。
いつも通りにどんよりとした空気の中で出勤し自席でパソコンを立ち上げていたメタ子達の元へ課長が見知らぬ二人を連れてやって来た。
「よーし全員手を止めろ!朝礼を始めるぞ!」
課長の号令に社員達は気だるそうに顔を上げる、そうして課長は満面の笑みを浮かべながら背後の二人を前に押し出し言った。
「今日から我が営業部の一員として一緒に働いてくれることになった新人の近藤くんと宮本ちゃんだ!おい二人とも元気に挨拶しろ!」
課長に促され二人の若者が一歩前に出る。
一人は短髪を爽やかに整え皺一つない紺色のリクルートスーツに身を包んだ青年。
もう一人は黒髪を後ろで綺麗に束ねた真面目そうな眼鏡の女性だった。
「初めまして!本日付けで営業部に配属となりました近藤学と申します!体力と根性には自信があります!一日も早く先輩方の力になれるよう全身全霊で頑張りますのでご指導のほどよろしくお願いいたします!」
「同じく営業部に配属となりました宮本栞と申します。至らない点ばかりでご迷惑をおかけするかと思いますが、何事にも全力で取り組む所存です。一日も早く仕事を覚えチームに貢献できるよう努めます、どうぞよろしくお願いいたします!」
二人とも淀みのない完璧な自己紹介、何より二人の瞳が、あまりにも眩しかった。
濁りのない澄んだ光、社会という荒波に立ち向かうことへの純粋な希望と意欲を抱いている。
…………それに対して彼らを見つめる先輩社員達の姿はどうだろうか、目の下には濃い青クマを刻み背中は丸まり、肌の血色は土気色……そのコントラストはあまりにも残酷だった。
「あ、ああよろしくね……」
「頑張ってね……」
社員達からは乾いた拍手と弱々しい歓迎の言葉が送られる、メタ子もまた引きつった笑顔で小さく拍手を合わせていた。
それから挨拶がひと段落したのを見届けた課長がパンパンと景気よく手を叩くとメタ子達の方を見て口を開く。
「よし!挨拶も済んだことだし善は急げだ!二人は早速そこの先輩に仕事を教わって実務を始めてくれ!現場で手を動かして覚えるのが一番の近道だからな!」
そう言い放つと課長は「じゃ、よろしくな」とだけ言い残しさっさと自席へと歩き去っていってしまった。
パソコンの画面を開き何かやっている様だが、どうせネットニュースか何かを眺めているのだろう。
「…………」
取り残されたフロアに流れる沈黙……メタ子は心の中で深い溜息をついていた。
(結局全部人任せですか)
教育計画もなければオリエンテーションの資料すらない、新人を連れてくるだけ連れてきて実際の育成や業務の割り振りはすべて現場の社員に丸投げ……いつものこととはいえその徹底した無責任ぶりには清々しさすら覚えるほどだ。
「あ、あの先輩…僕達はまず何をすればいいでしょうか?」
その場に立ち尽くす近藤が恐る恐る尋ねてきた、もう一人の宮本もまたメモ帳とペンを胸元に構えたまま真剣な眼差しでこちらを見つめている。
「……では近藤さん、宮本さんこちらへどうぞ…まずはお二人の席をご案内しますね」
「「はい!」」
結局メタ子は課長に言われた通り二人に仕事を教える為に自分のデスクの向かい側にある空きスペースへと案内し色々と説明をしていく。
「まずはこの社内ポータルにログインしてアカウントの設定を行ってください……それが終わったらこちらの業務マニュアルに目を通しておいていただけますか、終わったら呼んでくださいね」
「わかりました!」
正直言って近藤も宮本も非常に飲み込みが早くとても真面目だった、言われたことを即座にメモを取りテキパキと手を動かしていく。
その初々しくもひたむきな姿を見ていると頼もしさを感じる反面、胸の奥がきゅっと痛むのをメタ子は感じていた。
……はたしてこの子たちの澄んだ瞳は一体いつまで輝きを保っていられるのだろうか…と。
そして怒涛の初日の業務が一段落したその日の夕方……外が薄暗くなり始めた頃に課長が上機嫌で席を立つとメタ子達に告げた。
「おーい全員!今日は新人の初日だからな、歓迎会をやるぞ!仕事は適当なところで切り上げて店に行く準備しろ!」
定時退勤など許されたことのないオフィスにおいて課長の気まぐれによる『歓迎会』という名の強制連行が発動した、まあ彼女達からすれば早く仕事が終わるに越したことは無いが突然過ぎるというのも考えものだ。
連れて行かれた先はいつもお世話になっている大衆居酒屋『つるかめ』。
「いらっしゃい!お、今日は大所帯だなぁ」
大将と言葉を交わしつつそのまま奥の座敷席に案内されると早速乾杯のビールが運ばれてきた。
「よーし!近藤と宮本の輝かしい前途を祝して──かんぱーいっ!」
「「「かんぱーい」」」
課長の音頭とともにジョッキが打ち鳴らされる………そして案の定というべきか、宴が始まって三十分もするとこの場は完全に課長の独壇場と化していた。
「いいか近藤、宮本!うちの営業部はな、社内でも屈指の精鋭揃いなんだよ!他部署が音を上げるような大型案件もうちの部署にかかれば朝飯前よ!先月の新規契約だって、他社を完全に圧倒して勝ち取ったんだからな!」
「おおっ…!そうなんですか?流石です!」
「まあそれもこれも全て俺が現場に適切な指示を出してるからだけどな!がはははは!」
「本当に凄いです!そんな素晴らしい部署に配属していただけて光栄です!」
「私も課長のような優秀なリーダーの元で働けることを誇りに思います!」
ビールジョッキを片手に顔を赤く染めた課長が新人二人に向かって熱弁を振るっている、そんな課長の話に二人は感銘を受けたように何度も頷いていた。
社会人一日目の二人にとって豪快に実績を語る上司の姿はさぞ頼もしい上司に見えているのだろう。
二人は一生懸命に課長を持ち上げグラスの酒が減ればすかさず注ぎ足し完璧な後輩としての立ち振る舞いを見せていた。
一方───、
上座の狂乱から最も遠い座敷の端の席に座るメタ子、佐藤、鈴木の三人はまるで別世界のような静寂の中にいた。
「「「………………」」」
誰も口を開かないまま遠くから聞こえてくる課長の言葉を耳から耳へと聞き流していく。
適切な指示……朝イチの締め切りを突然投げてくることや体調不良で高熱を出した人間に気合で治せと連絡することが一体どこの世界の辞書で"適切"と定義されているのか小一時間問い詰めたい衝動を三人は必死に堪えていた。
メタ子はこの場において止まっては駄目だと黙々とテーブルの上に並んだ料理に箸を伸ばしていく。
大将が揚げてくれた熱々の唐揚げはサクサクとした丁度いい食感の衣で当然美味しい、香ばしいタレの香りを纏った焼き鳥のねぎまも甘辛いタレが広がりこちらも大変美味だった。
「……ねえメタ子ちゃん、あの子達すっかり課長の話を信じ込んじゃってるわね」
「そうですね…まあ無理もありません、今日が初日ですから」
「二人とも真面目だからこれから大変そうだな……」
「この会社一度でも『できます』って顔をすると無限に仕事を盛られるものね……最初のうちは少し手を抜くくらいでちょうどいいんだけど……」
「初日の新人にそれを求めるのは酷というものですけどね………」
メタ子は小さく息をつき空になったジョッキを傾けながら二人を見つめる、相変わらず課長の話は止まらず二人もそれを必死に支え続けていた。
一週間後、そして一ヶ月後、あの二人がどうなっているのかはわからないが、自分に出来ることはとにかく教えられる限りの仕事を教えこれから先に待ち受ける理不尽への直撃をほんの少しだけ和らげてやることくらいだ。
(まあ…頑張ってもらうしかありませんね)
とにかく彼ら自身の適応力に期待するしかない、新人達の未来に立ち込める暗雲を横目にメタ子は明日以降の活力の為にビールを胃袋に流し込んでいった。




