メタ子、風邪を引く。
冬の寒さもいよいよ佳境へと向かっていたある日の朝、薄暗い寝室のベッドの上でメタ子は身を震わせていた。
「……っ、寒い…?」
部屋が冷えているだとか、格好がおかしいだとかそう言ったものが原因では無い変な寒さ……それと同時に感じる頭に響く重い痛み。
メタ子は震える身体を何とか起こすと棚から体温計を手に取り使用する、それから電子音が鳴り響いたのを合図に液晶画面を見てみると───
『38.6℃』
「…………」
メタ子は完全に風邪を引いていた。
「やらかしました…」
掠れた声が彼女の口から溢れそのまま溜息をつく、普通の人間であればこの結果を見た瞬間に起こすべき行動は会社に欠勤の連絡をし病院へ向かうことだ……だが当のメタ子はそれとは真逆の行動を選択していた。
「……着替えなければ……」
そう、会社へ行くための準備である。
会社に連絡して休む?そんな選択肢がこの世界で通用するはずがないことなどとっくに理解させられていた。
かつて同じ様に風邪を引いていた鈴木が額に冷却シートを貼り深夜まで働かされていた光景が脳裏をよぎる、あの会社において"熱がある"という事実は欠勤の正当な理由にはなり得ないのだ。
とはいえ連絡だけは必要だと考えたメタ子は震える指先でスマートフォンを操作し、課長宛てに文を打ち込んでいく。
『おはようございます、大変申し訳ありませんが今朝方より38.6度の発熱があり体調が著しく悪化しております』
万が一にでも『それは大変だ、今日は無理せず休みなさい』という温かい言葉が返ってくるのではないか──けれどもそんな甘い期待を抱く隙すら相手は与えてくれなかった。
送信から僅か三十秒後、そこにはあまりにも無慈悲な返信が表示されていた。
『わかった、今日は気をつけて来るんだぞ!』
「…………」
気をつけて来るんだぞ…言葉の響きだけは優しげに見せかけた有無を言わさぬ出社命令。
休むな、這ってでも来い……そんな黒々とした圧迫感が、画面越しに伝わってくる。
「はは、知っていましたよ……ええ、知っていましたとも……」
もはや笑うしか無いが、その瞬間激しい咳が込み上げてきてメタ子の喉を激しく鳴らす。
もはや怒る気力すら湧いてこない、メタ子は必死にスーツを引っ張り出し袖に通すと髪をゴムで軽くまとめ少しでも暖かくしようと防寒道具を着けまくる。
やがて無心のまま重い足取りでアパートの部屋を後にしたのだった。
──そうしてオフィスに辿り着いた頃にはメタ子の意識は半分ほど現実から離れしまっていた、いつもやっている動作ですら全てが曖昧でわからなくなってくる。
「おはようございます……」
「あ、メタ子ちゃんおはよう………って、顔色すごく悪いけど大丈夫?」
佐藤が心配そうに声をかけてくれたがその声すらもどこかくぐもって聞こえる始末。
「大丈夫、です……少し風邪気味なだけで…」
「そ、そう?……絶対無理はしちゃダメよ?特に今日は午後から役員会用の提出書類の締め切りがあるからフロア中ピリピリしてるし……」
「はい、ありがとうございます……」
佐藤に頭を下げてから自分のデスクに向かったメタ子はパソコンの電源ボタンを押し早速作業を始めた。
───しかし全く頭が働かなかった。
画面に表示された計算ソフトの数字がまるで生き物のようにぐにゃぐにゃと歪んで見えてくる、焦点を合わせようと目を凝らすのだが次々と二重、三重に文字が重なり合い何が書かれているのかさっぱり判読できない。
震える指をキーボードの上に置き何とかタイピングを試みるが、見当違いのキーを押し込んだり変換がろくに出来なかったりとよくわからない文字列が羅列されていった。
周りの音や声もどこか不明瞭に聞こえ同じ言葉を話しているのかすらわからない。
「おいメタ子!」
「…………」
「メタ子!聞いてるのか!」
「えっ…あ、は、はい……」
「この企画書の誤字脱字チェック、今日中に終わらせといてくれ!」
「か、かしこまりました……」
課長はメタ子の異様な様子にもまるで興味を持たずにいつも通り指示だけ飛ばして自分の席へと戻っていく。
残されたメタ子は渡された企画書に手を通してみるが相変わらず何を書いているのかを把握する事すら難しかった。
メタ子が苦しみ続ける中、ただ時間だけが無情に過ぎていく……時計の針が十二時を回り一応の昼休みを告げるチャイムがフロアに鳴り響いた。
周囲の社員数名が席を立ち食べ物を買いに向かう、一方でメタ子は立ち上がる気力すらなく朝の道すがらに買っておいたコンビニの惣菜パンを鞄から引っ張り出していた。
パンを包装から取り出し機械的に口へと運ぶ、モソリとしたパン生地と冷え切った具が舌の上に乗っかるが……
「……味がしません」
体調不良が原因なのか舌の感覚が完全に麻痺していた。
何一つ味を感じられない、ただ硬いスポンジを齧っている様な無機質な食感だけが口の中に広がっていく。
飲み込もうとしても喉の粘膜が悲鳴を上げ、メタ子の目にはじんわりと涙が滲み出始めた。
普段ならどんな安価なジャンクフードであっても空腹を満たすエネルギーとして貪り食うメタ子だったが、今ばかりは胃袋が目の前のパンですら受け付けることを拒絶していた。
「午後も乗り切らなければ……」
そうして午後の業務が再開されるとフロアの空気はさらに殺伐さを増す、締め切り間際の案件を抱えた社員達の早口な怒号やプリンターが唸りを上げて紙を吐き出す音。
メタ子は再びキーボードに向かい必死に指を動かそうとした………だが限界は音もなく唐突に訪れた。
それは午後三時を過ぎた頃。
「……あ」
突然視界の端から急速に光が失われていった。
頭の奥でぷつりと何かが切れるような音がしたかと思えば強烈な浮遊感がメタ子を襲い、椅子の背もたれから身体が床へ滑り落ちる。
「メタ子ちゃん!?」
誰かの悲鳴のような叫び声が聞こえた気がした、だがどこから発せられているのかすらわからない。
伸ばそうとした手は虚空を掴むだけだけで、そのままメタ子の意識はぷつりと途切れていった。
「……んっ」
それから暫くして意識を取り戻したメタ子はゆっくりと目を開けた。
身体にかけられているのは見慣れない布…そして額の上にはいつの間にか濡れタオルが置かれていた。
周囲を見渡すとそこは自分のデスクでは無くオフィスの奥の小さな休憩室、ソファの上に何枚もの厚手のブランケットを掛けられた状態で横たわっていたようだった。
「あれ……?私は…」
まだ少しぼんやりとする頭で記憶を辿る。
確か午後の作業中に猛烈な眩暈に襲われて……そこから先の記憶が綺麗に抜け落ちていた。
だがあることに気づいたメタ子は慌ててスマートフォンを取り出し画面をタップする。
そして表示された時刻を見た瞬間全身から血の気がサーッと引いた。
『21:45』
「嘘でしょう…っ!?」
熱のせいで火照っていたはずの肌が恐怖と絶望の冷や汗で一気に冷え切っていく。
今日締め切りの役員会資料、クライアント向けの修正案件、自分が今日中に終わらせなければならなかった膨大なタスクが何一つとして完了していない。
「お、終わっていません!私の仕事が何一つ……!」
メタ子は急いで休憩室を出ようと慌てて飛び起きる、頭痛は幾分か和らぎ身体の怠重さは依然として残っているがそんな事を気にしている場合では無い。
このままでは明日課長にどんな罵声を浴びせられるか分かったものではない、誰かが自分をこの休憩室まで運んで寝かせてくれたらしいがそんな温情に甘えている場合ではなかったのだ。
「す、すぐに戻らなければ!多分今からでも徹夜で仕上げればきっと……!」
休憩室のドアを押し開けメインフロアまで早足で飛び込んでいく、最悪の未来を覚悟しながらメタ子は扉を開けると同時に頭を勢いよく下げ大声で謝罪の言葉を叫んだ。
「も、申し訳ありませんでした!!!」
だが返ってきたのは怒声でも叱責でもなかった。
「あれ?メタ子さん起きたんだ」
そこにいたのは見慣れた同僚達の姿……鈴木と佐藤、それに同じチームの先輩社員がデスクを囲む様にしながら作業をしていた。
彼らはメタ子の姿を見ふと揃って表情を緩め声をかけてくる。
「お疲れ様、顔色さっきよりは少し良くなったみたいね」
「皆さん…?あの、課長は……?」
「課長?課長ならさっき『接待があるから』って言って、八時前にはとっくに帰ったよ」
「え?」
「ほら立ってないで座って座って、まだふらふらしてるでしょ」
佐藤が椅子を一つ引きそこにメタ子を座らせると、彼女の前に湯気を立てる紙コップがコトリと置かれた。
「白湯だよ、少し飲んで落ち着いて」
「あ、ありがとうございます……ですが、あの…私の仕事が………!」
焦燥感に駆られて身を乗り出すメタ子に鈴木は苦笑いを浮かべながら手元のクリアファイルを軽く掲げて見せた。
「それなら心配いらないよ」
「え…?」
「メタ子ちゃんが倒れた時皆本当に慌てたわ」
佐藤も溜息をつきながらその時の事を話し始める。
「急に床に倒れちゃって呼んでも返事がないし、体触ったら凄く熱かったのよ?それからすぐに休憩室に運んで濡れタオル作って寝かせておいたの、救急車呼ぶかどうかも迷ったんだけど呼吸は落ち着いてたからとりあえず体を休ませようってことになって」
「運んでくださったのは皆さんだったのですね…」
「うん、それでメタ子さんのデスク見たら今日締め切りの書類が山積みになってたから……」
鈴木がそう言ってパソコンの画面をメタ子の方へ向けた。
そこに映し出されていたのはメタ子が午前中に格闘しながらも全く進まなかったはずの提出書類だった。
全てのグラフが綺麗に整えられ誤字脱字の修正も完了し、『承認済』とまでになっている。
「これ…完成している……?」
「うん、僕と佐藤さんと先輩で手分けしてメタ子ちゃんのタスクを片付けておいたんだ。締め切りギリギリ間に合って先方にも役員会にも提出完了してあるから」
「………………」
メタ子は絶句した、信じられなかった。
この過酷で理不尽な環境において他人の仕事を肩代わりするなど自分の首を絞める行為に等しいはずだ。
ただでさえ自分のノルマだけで手一杯で連日深夜まで残業している者同士なのだ、それなのに倒れた自分の仕事を彼らは文句一つ言わずに引き受け終わらせてくれたというのか……。
「ど、どうして…皆さんの分の仕事だって山ほどあったはずなのに………」
「どうしてって……」
鈴木はメタ子の言葉に頭を掻きながらも当たり前のことのように言った。
「こういう時は助け合いだからね」
「え……」
「そうよ、この前私が私用で早く帰りたかった時メタ子ちゃんが課長の無茶振り引き受けてくれたじゃない。鈴木君が倒れそうだった時も差し入れてくれたり仕事もフォローしてくれてたでしょう?誰かが倒れたら残った人間でカバーする…そうしなきゃこんな会社で生き残っていけないわよ」
「そうそう、僕達同じ泥舟に乗ってる戦友みたいなものだからね」
その笑顔は酷く疲れ切っていていたにも関わらず、それ以上に温かかった。
メタ子の胸の奥が熱い何かで満たされていく、鼻の奥がツンと痛み視界が風邪とは別の意味で滲み始めた。
「あっ…ありがとうございます……!」
彼女は椅子から立ち上がると何度も深く頭を下げる。
「本当に…本当にありがとうございました…!今度必ずお礼をさせてください……!何でもします、美味しいお酒でも、お料理でも何でもご馳走させてください………!」
「あはは、メタ子ちゃん大袈裟よ……じゃあ元気になったら居酒屋で唐揚げ奢ってもらおうかしら」
そんなやり取りの中、涙をを拭いながら顔を上げたメタ子の胸中にある記憶が鮮烈に蘇っていた。
天界に存在する古文書──、この地上へと派遣される前、天使としての教練を受けていた頃に読まされた膨大な歴史記録の一節…そこには神や天使達が人間界を監視し天変地異や審判の際に『いかなる人間を救済すべきか』という問いかけが記されていた。
祈りを捧げる者か。
罪を犯さぬ者か。
強大な力を持つ指導者か。
当時のメタ子にはその真意が今ひとつ理解できていなかった、なぜ神は不完全で愚かな人間という種族を見捨てず時に手を差し伸べるのかと。
(…ああ、そういうことだったのですね)
メタ子は目の前で笑い合う同僚達の姿を見つめながら静かにそう思いを馳せた。
理不尽に搾取され過酷な現実という泥に塗れながらも、倒れた隣人に手を差し伸べ共に生きようとする者達……。
傲慢な支配者でも冷酷な管理者でもない、この泥の底で互いの痛みを分かち合って笑う名もなき小さな命。
(……天が奇跡を与えるべき対象とはこういう人達のことだったのですね)
メタ子の胸に確かな答えが落ちてくる、長年追い求めてきた真理が今この瞬間はっきりと理解できた気がした。
「……よし!」
メタ子は小さく両頬を叩くと自分のデスクに座り直し作業に取り掛かる準備を始めた。
「メタ子ちゃん大丈夫?まだ無理しちゃダメよ?」
「いえ大丈夫です、皆さんのおかげですっかり熱も下がりました」
嘘だった、熱はまだ多少残ってはいるし身体は重い……けれども心の中を満たす力は今朝の何倍も満ち溢れていた。
「皆さんが私の仕事を終わらせてくださった分、今度は私が皆さんの残業をお手伝いします」
「えっ、でも…」
「遠慮しないでください!さあ残っているタスクは何ですか?データ入力ですか?コピーですか?」
彼女の瞳には決意の光が宿っている、そんなメタ子を見た同僚達は顔を見合わせるとやがて吹き出すように笑った。
「あはは!メタ子ちゃん何だか倒れる前より元気になっているんじゃない?」
「じゃあお言葉に甘えて、この伝票整理の入力手伝ってもらえますか?」
「喜んで……!」
カタカタカタカタッ!
そこから深夜十時過ぎのオフィスに勢いの良いタイピング音が再び響き渡り始めた。
同僚達と肩を並べ互いの作業を分担しながら進める正真正銘のラストスパート……過酷な現実は何一つ変わっていない筈だが、今この瞬間この場所だけはそんな苦しさが消え不思議な温かさが包み込んでいたのだった。




