メタ子、冬の洗礼を受ける。
冬という季節は子供にとって大変喜ばれる時期なのかもしれない。
雪が降る光景を見れば声を上げて庭へと飛び出し駆け回る、積もった雪を見れば仲のいい子達目がけて投げ合う雪合戦が始まり、雪をかき集めれば家や壁の前に雪だるまを作り始める……子供達からすればそれはそれは楽しいことだらけだろう。
──しかし、どこかロマンチックな冬の幻想は社会人という過酷な人々にとってはただの地獄絵図でしかなかった。
「……寒いです」
午前6時40分。
メタ子は現在ダウンジャケットに首をすっぽりと埋め、追加でマフラーを鼻の上まで巻き付けた状態で会社までの道のりを歩いていた。
大人の世界において雪や氷は何一つとして歓迎されない。
ひとたび雪が積もれば電車のダイヤは乱れに乱れる可能性があり駅のホームには人で溢れかえる。
自家用車を所有している者は車を出す為だけに腰を痛めながら毎朝の雪かきに追われる。
歩行者からしても道を歩くだけで常に転倒の恐怖と隣り合わせなのだ。
そんな過酷な冬の中、何故人間達は暖かい部屋をかなぐり捨ててまで外を歩いているのか……会社へ行くためである。
「冬の朝は路面が凍結して危険ですから安全を考慮していつもよりゆっくり出社してくださいね──などという夢物語は一体どこの異世界の話なのでしょうか……」
メタ子はコートのポケットからスマートフォンを取り出しそこに表示された文章を見ながら溜息をついていた。
それは昨晩社内連絡ツールに届いた課長からの全体通知……『明日は今季最大の寒波が襲来する見込みだ!公共交通機関の乱れも予想されるが冬の寒さに負けてはならん!遅延を見越して全員普段より三十分早く出社するように!』
それを見た時は思わず画面を叩き割ってやろうかと思ってしまった。
安全を配慮して出勤時間を遅らせるのではなく遅延のリスクを全て社員の努力によって相殺しようというあまりにも凶悪なロジックである、ただでさえ普段から始業時間よりも早く出社する空気が出来ているのにも関わらず、それよりももっと早く来いだなんて帰宅の往復時間を考えれば会社が家の様な感覚になってしまう。
「気合で寒さが吹き飛ぶならかつての地球上に氷河期など訪れるはずがありませんよ……」
メタ子はぶつぶつと文句を並べ立てながら凍っている部分をに避けて歩いていく、これだけ防寒を整えているのに関わらず顔は冷気によってヒリヒリとしだし指先も段々と感覚が無くなってきていた。
早く、一秒でも早く屋内に逃げ込みたい……たとえその屋内が理不尽で満たされた牢獄であったとしても………。
オフィスビルの重いドアをくぐり抜けるとようやくメタ子を暖房の熱気が包み込んできた。
そして営業部のフロアへと足を踏み入れた瞬間メタ子は立ち止まり深い溜息を吐き出す。
カタカタカタカタ……
プルルルルッ!
そこにはいつもと何一つ変わらない殺伐とした光景が広がっていたのだった、鳴り響く電話のベルに激しく叩かれるキーボード、そんな彼らのデスクから立ち込めるコーヒーやエナジードリンクの匂い。
そして少し離れた席に座る同僚の姿を見て思わず足を止めた。
「…鈴木さん?」
「あ、メタ子さんおはよう……」
デスクに向かって背中を丸めている鈴木の顔色は青白いを通り越すレベルに濁っていた。
膝にはブランケットが何重にも掛けられており、彼のデスクの上にはティッシュペーパーの山と風邪薬の箱が転がっている。
「鈴木さん、もしかして風邪を引かれましたか?」
「うん、そうみたい……」
「そうみたいではありませんよ!もしかして熱があるのですか!?」
「ええと、今朝家を出る前に測ったら三十八度二分だったかな……」
「三十八度二分!?」
メタ子は鈴木の発言に思わず声を裏返らせる。
完全に風邪だ、だというのに彼は今も出社している……今すぐ早退して病院へ行く案件ではあると思うのだが…。
「今日夕方に大手クライアント向けの修正見積書を提出しなきゃいけなくてさ…僕が抜けると代わりに対応できる人が誰もいないんだよ……」
「だからって熱がある人を働かせる会社がどこにありますか、課長には相談したのですか?」
「うん、朝イチで電話したら『鈴木、熱がある時こそ人間の真価が問われるんだぞ!気合を入れれば平熱に戻る!』って言われてそのまま電話切られちゃったんだよね」
「あの課長本当に一度天罰を受けた方が良さそうですね……」
休む必要があるのに無理やり出社させる、そんな時ほど頑張るべき…そんな根性論としてまかり通っているこの空間はもはや狂気の沙汰としか言いようがない。
病原体をオフィス中に撒き散らしながらフラフラの人間をディスプレイの前に縛り付け、効率の落ちた作業を延々と強要している……もはや悪魔よりも非人道的で非合理極まりない。
「鈴木さん、せめて水分だけはしっかり取ってください。あとどうしても無理だと思ったら私に言ってください」
「ありがとうメタ子さん…はは、何だか天使に見えるよ……」
「元から天使ですから…あ、いえなんでもありません」
とにかく無理はしない様鈴木に伝えたメタ子は自分のデスクに向かうと早速今日のタスクを確認する、だがそんなタイミングを見計らったかの様に課長の声が響いた。
「メタ子!昨日の営業日報のまとめ午前中までに仕上げとけよ!そっち優先な!」
「……はい、ただいま取り掛かります……」
心の中で舌打ちをかましながら、メタ子は今日もまた激務の渦中へと沈んでいった。
…………気がつけば窓の外は完全な闇に包まれていた。
延々とパソコンを叩き電話のクレームを処理し、何度も倒れそうになる鈴木にスポーツドリンクを差し入れ課長の思いつきの追加業務を片付け続けた結果───、
夜中の十二時。
「お疲れ様でした……」
メタ子は抜け殻のような声を残しオフィスの重い扉を閉める、今日は中々早く帰れる日であったが精神的疲労でいえばいつも以上だった。
「ひゃうっ!?」
ビルの外へ足を踏み出した瞬間昼間の暖房地獄から一点、皮膚に突き刺さる寒さが身体を襲う。
「骨まで凍りつきそうです……」
あまりの寒さに身を縮こまらせながら小走りに歩道を歩き始める、だがメタ子は今人影一つない街の中を進みながら寒さや疲れとは別のものに悩まされていた。
「………お腹が空きました……」
手をお腹に当ててみると情けない腹の虫が鳴く、昼休みにサンドイッチを口に放り込んで以来何も胃袋に入れていない。
けれどもこんな時間から開いている定食屋など近所にはないし、いつもの居酒屋へ寄る気力すら残っていなかった。
「……そうだ、冷凍庫にあれがありましたね」
先週末特売のスーパーで買い込んでおいた『クラストピザ』…直径二十センチほどの冷凍ピザである。
手頃に食べられて美味しくお腹も満たせる、今この空腹を紛らわすにはピッタリの代物だろう。
「いいですね…今夜のメニューは冷凍ピザで決まりです、熱々のチーズを流し込んでそのままお布団に飛び込みましょう……」
空腹だった胃袋がチーズの幻影に歓喜の声を上げた、あと十分も歩いて我が家に着けばピザが待っているのだ。
楽しみを前に足取りがほんの少しだけ速くなりマンションまであと五十メートルほどの地点まで来た──その時だった。
普段なら何気なく通り過ぎるはずのその場所には昼間に溶けた雪が再び固まりブラックアイスバーンが出来上がっていた、だが頭の中がチーズピザで満たされていたメタ子はその危険なトラップに気づかない。
そしてとうとう彼女の足が何のためらいもなく氷の上へと踏み出された瞬間
ツルッ、
「あっ」
あっという間に身体がひっくり返り空中に投げ出され、そのまま重力に従い落下……その結果。
ドゴォッ!という音と共にメタ子の腰が氷の上に叩きつけられた。
「ぐふぅっ…!?!?!?」
あまりの衝撃に頭がチカチカと混乱し、凄まじい激痛が肉体に走り出す。
「あ…がっ……!い、痛い痛い痛い痛い痛い……ッ!!!」
メタ子はその場に横になりながら激しく身悶えする。
激痛、圧倒的な激痛……骨にヒビでも入ったのではないかと言っても過言では無い衝撃だ。
「うぅ…息が……息ができません…っ」
呼吸すらもままならなくなり魚の様に跳ねることしか出来なかった。
……どれだけたっただろうか、ようやく落ち着いてきたメタ子はプルプルと両腕を震わせながらゆっくりと上半身を起こしていき、やがて彼女の目に大粒の涙がじわりと滲み出した。
朝は凍える寒さの中を叩き起こされ、会社では風邪を同僚を横目に課長にこき使われ、ようやく解放されだと思えば転んで痛みに悶えている。
メタ子は涙で滲む視界の中凍りついたアスファルトをこれ以上ないほど睨みつけ奥歯を噛み締める。
(……冬、滅びろ)
もしも今天使としての権能を行使することが許されていたならば迷わずこの世界全ての雪を消滅させていただろう、彼女の目にはそれほどの恨みが込められていた。
しかしどんなに心の中で呪ったところで目の前の氷が溶けるわけでも腰の激痛が消え去るわけでもない。
「うぅ…帰ったら湿布を貼らなければ……… 」
メタ子はペンギンの様によちよちした足取りで残りの道を進んでいく。
そんな彼女の頭上の夜空には皮肉な程に美しい星空が広がっており、それらが一人の天使を静かに見守っていたのだった。




