メタ子、隣人の悪魔と出会う。
その日メタ子は一切身体を動かす事なくベッドに寝転がっていた。
相変わらず休日というのは幸福そのものだ、課長の怒号に怯えたり終わらない数字の羅列に目を血走らせることも無い…全てを己の為に使える時間なのだ。
「……このままベッドと同化してしまいたい…」
時刻は午後二時を回ったところ。
このまま夕方まで動かずに惰眠を貪ろう、そんな考えが頭を過ぎる中突如として部屋の外から大きな振動音がメタ子の耳に届いた。
──ズズン、ガタガタガタッ………
「ん……?」
聞き慣れない音に眉を顰めるが、音はどんどん大きくなり何かを運んでいる様な人間達の声まで聞こえてくる。
「よしストップ!後ろ気をつけろ、角ぶつけないように運ぶんだぞ!」
「了解っす!そっちの段ボール先に上に上げちゃいますね!」
「……なにごとでしょうか?やけに騒がしいですね…」
重い身体を持ち上げ窓の外をそっと覗き込んでみると、アパートの駐車場に引っ越し用のトラックが止められているのが見えた。
そこからダンボールなどを運び出す作業員達の姿も確認できる。
「なるほど、どなたかが越してきたのですね」
彼女が暮らしているこのアパートは築年数もそれなりに経過しており、エレベーターすら設置されていない古びた物件だ。
設備の新しさを求める若者には見向きもされず住んでいる住人も顔を合わせることの少ない単身者ばかりで、普段は不気味なほどに静まり返っている。
そんな場所に新しく誰かが入居してくるなどメタ子がここに住み始めて以来初めての出来事だった。
「……音の位置からすると隣の部屋ですか」
しかも場所はメタ子の部屋のすぐ隣、今までずっと空き部屋だった場所らしい。
「隣に人がいるというのは気恥ずかしい気もしますが……作業が落ち着いた頃にでもご挨拶くらいはしておきましょう」
ただでさえ休日はゆっくり過ごしたいのに隣人と無用なトラブルを起こしてしまう事はメタ子にとって最も避けなければならない出来事だ、良好とまではいかなくとも当たり障りのない関係を築いておくくらいは必要である。
そう考えたメタ子は作業が終わるまでの間に食事を済ませてしまおうとキッチンに向かい、外からの音を聞きながらレンジに食品を放り込んだ。
それから何時間経ったのか、気付いた頃にはトラックのエンジン音が遠ざかっていくと共にアパートにいつもの静寂が戻り始めていた、どうやら大掛かりな搬入作業は無事に終わったらしい。
そろそろ挨拶にでも出向こうかと服に手をかけたその時………
コンコンッと微かなノック音が玄関から響いた。
もしかしたら隣人が先に訪ねてきたのかもしれない、その場で軽く髪を整えてからゆっくりとドアノブを回す……するとそこに立っていたのは一人の少女だった。
その少女は緊張で固まっているのか視線をあちこちに泳がせながら出てきたメタ子に頭を下げると上擦った声で話し始めた。
「あ、あああの!は、初めまして!?きょ、今日こちらの隣に引っ越してきましたあもんと申します……!よ、よよよろしくお願いします!!!」
そう言って持っていた紙袋を勢いよく手渡してくる。
(とても真面目で良い子そうな方ですね)
ひとまず怖い人だったり危なそうな人ではないと安心したメタ子は内心ほっとしながら笑みを浮かべて返事をした。
「いえいえ、わざわざご丁寧にありがとうございます。私は十六夜メタ子といいます、こちらこそこれからよろしくお願い───」
「………………」
だがメタ子が話し始めた瞬間、あもんの目が大きく見開かれ驚いた様に固まった。
…彼女の瞳の奥からは激しい動揺と混乱が混ざり合った感情が伝わってくる。
「あの…あもんさん?私の顔に何か付いていますか?」
やがて目の前の彼女は小刻みに震えだすと、恐る恐るといった様な小声で言葉を紡ぎ出した。
「……も、もしかして」
「はい?」
「もしかして……メタトロン様…ですか……?」
「………………」
今度はメタ子が驚く番だった。
(……はい?)
一瞬にしてメタ子の頭は警戒一色に染まる………メタトロン、今あもんが口にしたその名は彼女が天界にいた頃の真名でありこの世界において知る者などただの一人として存在してはならないはずの秘匿事項である。
ならば何故それを目の前の少女は知っている?
ただの人間では無いのか?
「あ、あの…ええと人違いでは……?」
一度は誤魔化そうとしたメタ子だったが、あもんはむしろ確信に満ちたような表情を浮かべると深く息を吐き出し目を瞑った。
そして──、ゆっくりとその瞼が再び開かれた瞬間。
「っ!?」
メタ子は思わず息を呑み後ずさってしまった。
何故なら……あもんの瞳からは人間らしい色彩が完全に消失し、少女の額の両脇から二本の角が姿を現したからだ。
おまけに背中には小さな二対の翼まで生えている、それはどこからどう見ても"アレ"としか言えない存在そのもの………。
"悪魔"
紛れもない本物の悪魔がそこに立っていた。
メタ子の背筋には本能的な緊張が走る、何故悪魔がこの世界にいるのか?敵対勢力の急襲か?どうして自分の元に現れたのか?
無意識のうちに拳を握りしめ身構える……が、あもんは角や翼をすぐに消すと再び頭を下げてきた。
「す、すみません!驚かせてしまって……あの…わ、私は敵対するつもりなんてこれっぽっちもありませんので!ちょっと身元を明かした方が話が早いかなと………」
「……貴方は一体何者なのですか?」
「そ、それはですね……」
それを聞かれたあもんは力なく肩を落とすとポツポツとその事情を語り始めた。
「……私、人間界にはお勉強に来たんですよ」
「お勉強、ですか?」
「はい……私達悪魔のお仕事って人間の魂を堕落させたり、欲望を刺激して契約を結んだりするんですけど…私、そういうの全然ダメでして。誰かを騙したり唆したりする才能が絶望的なまでに無いんです…………」
「『お前の誘惑はぬるすぎる』とか『悪魔としての基礎的な狡猾さが足りない』とか上官から散々怒られてしまって……最終的に『現場で人間の生の欲望を肌で学んでこい』って言われて地上に放り出されたんです」
「……つまり研修派遣の様なものということですか?」
「格好よく言えばそうですけど…実態はただの島流しですよ、あはは……」
あもんは自嘲気味に笑いながら言葉を続ける。
「一応人間界で生きるための戸籍とお金は最低限持たされましたけど……力の大半は封印されてますし、そもそも具体的に何をどう学べば合格点をもらえるのかもさっぱり教えてもらってないんです……なので厄介払いとして体よく追い出されただけなんじゃないかと…」
あもんから語られた話はあまりにも世知辛いものだった。
天使の教練において悪魔とは冷酷で狡猾、甘言を弄して人間を地獄の業火へと引きずり込む害悪であると教え込まれていた。
実際悪魔達と口論をしたり争いをした際には何度もその様な場面を目撃したこともある。
だが今目の前にいるこの存在はどうだ。
出来の悪い落ちこぼれとして肩身の狭い思いをしているただの不器用な少女にしか見えない。
「……なるほど、事情はよく分かりました」
目の前の相手は悪魔である、そして自分は天使である。
教義や建前から言えばここで即座に鉄槌を下すか、厳格な尋問を行い魔界へ送還する為の手続きを取るのが天使としての正しい責務ではある。
しかし。
(……めんどくさい)
それがメタ子が導き出した結論だった。
今の自分は朝から深夜までキーボードを乱打し理不尽な作業量に追われながら生きるしがない社員だ。
天使としての力などこの世界では行使を固く禁じられている、そしてあもんの方も力の大半を封印されて人間として生活する以上実害は何一つ無い。
ならばどうするかなど考える必要すら無い。
「あもんさん」
「は、はいっ!」
「私は今、この世界で十六夜メタ子という一介の会社員として生活しています。こちらとしては天界の権能を行使するつもりもありませんし、貴方をどうこうするつもりも毛頭ありません」
「えっ、ほ、本当ですか……!?わ、私を消滅させたりとかは……」
「しませんよ、貴方がこの世界の法律とマナーを守り常識的な生活を送る限り私から何かを口出しする筋合いはありませんから」
「よ、よかったぁぁぁ……!」
あもんは胸を撫で下ろすとその場にへたり込んでしまった。
「わ、私…ドアが開いてメタトロン様のお顔が見えた瞬間、本当に終わったと思いました……!」
「……まあお互い色々と事情があるということです、とりあえずお隣さんとしてこれからよろしくお願いします」
「は、はいっ!よろしくお願いしますメタトロン様!」
「…一応この世界の名前で呼んでいただけると助かります」
「あ、そ、そうですよね!すみません……で、ではまた!め、メタ子様!」
それから改めて持っていた粗品をメタ子に渡したあもんは何度も頭を下げながら隣の部屋へと戻っていった。
そんな彼女の姿を見守った後メタ子も部屋へと帰り扉を閉め、その場にしゃがみ込むと深く溜息をついた。
「はぁぁぁ……」
…まさか隣の空き部屋に悪魔が引っ越してくるとは夢にも思わなかった、きっと天界の上層部が知れば緊急の監査官を派遣してくるレベルの非常事態である。
だが………
「まあいいでしょう、魔界を追い出された悪魔など我が社の上司に比べれば無害な子犬のようなものです」
恐ろしいのは悪魔ではない。
底知れぬ強欲と無責任さで人の精神と肉体をじわじわとすり潰してくるこの世界の労働環境こそが真の地獄なのだ、それに比べれば隣室に悪魔が住み着いたところで何の影響も無い。
「………余計なことを考えるのはおしまいです」
時刻は午後六時前、休日の最後を締めくくるには丁度いい時間だ。
「今夜は大将のところへ行きましょうか」
メタ子はそう一人ごちると服を着替えて外出用のコートに袖を通し財布とスマートフォンをポケットにねじ込んだ。
隣人の正体が何であれ明日からまた容赦なく過酷な生活が始まることには変わりない、ならばこの束の間の自由を愛し、さ美味い酒と飯に溺れることこそが唯一の正義なのだ。
外に飛び出し夜風を吸い込んだそんな彼女の口元には楽しみを前にした柔らかな笑みが浮かんでいた。




