メタ子、家庭料理を食す。
隣に悪魔が引っ越してこようがメタ子の日常は何一つとして変わらない。
朝早くに鳴り響くアラームに叩き起こされれば顔に冷水を叩きつけ、食事と着替えを終わらせアパートを出る。
疲れた身体を引きずりながら会社へ向かえばそこから地獄の作業の始まりだ。
理不尽な修正指示に頭を下げ突発的なクレームの矢面に立ち、終わりの見えないデータ入力を続け深夜まで椅子に縛り付けられる………そんな魂を削り取られるような毎日。
だがそんな変わらない日常の中に確実に変化してしまったものがあった。
それは四月の初旬…メタ子達の元へやってきた二人の新入社員──近藤と宮本である。
彼らは今や見事なまでにメタ子達の仲間入りを果たしていた………立派な『社畜仲間』としてだが。
「…う……あ……」
午前十一時のオフィス、メタ子の近くの席から近藤の呻き声が聞こえてきた。
初めの頃はあんなに快活だった青年の姿はどこにも見当たらない、糊の効いていたはずのワイシャツはシワだらけで彼の瞳も今やすっかり光を失いどんよりと濁りきっている。
「…近藤さん大丈夫ですか?さっきからずっと同じセルをクリックしていますよ」
「あ、十六夜先輩……す、すいません!昨日の夜課長から競合売上データを洗い出せって言われまして……気がついたら朝の四時半で……」
「……もしかして家に帰っていないのですか?」
「一応会社のソファで仮眠して顔洗ってそのまま席に戻りました……」
メタ子が深い同情の溜息を吐き出していると、その隣の方から宮本の乾いた足音が聞こえてきた……彼女も初めの頃と比べて大きく変貌してしまっている。
綺麗に揃えられていたはずの髪はあちこちから毛束がほつれ、彼女の額には冷却ジェルシートが貼り付けられていた。
「宮本さん、熱があるのですか?」
「いえ、熱はないんですけど……こうして冷やしておかないと頭が回らなくなるんです…」
少し前まで彼らは希望に満ち溢れた社会人の卵だったのだ、それが今では残業に肉体を削られ精神を摩耗させられすっかり感情の死んだ歯車へと成り果てている。
(これが現実……)
実は以前あまりにも目に余る状況にこっそりと二人を呼び止めたことがあった。
『あの、近藤さん宮本さん…差し出がましいことを言うようですが、本当に限界なら別の道を考えてもいいのですよ?世の中にはきっと労働環境の整った会社もたくさんありますから……』
同じ理不尽に晒される人生の先輩として心から告げた言葉、だがその時の二人の返答はあまりにも悲しいものだった。
『……お気遣い本当にありがとうございます十六夜先輩。でも僕就職活動で何十社も落ちてて、内定が出たのがここだけだったんです……ここを辞めたって僕を拾ってくれる会社なんてどこにもないんですよ』
『私も同じです…今辞めたらすぐに逃げ出した根性のない新卒扱いですよね…?ここで耐えるしか私には選択肢がないんです』
その言葉を聞いた時はそれ以上何も言えなくなってしまった。
(………なんと世知辛い世界なのでしょうか)
天界であれば過酷な試練に耐えかねた魂には救済の手が差し伸べられ別の平穏な階層へと導かれる慈悲が存在する、だがこの世界の社会はどうだ。
一度足を踏み外せば二度と這い上がれないかもしれないという恐怖を作り出し、その恐怖を燃料にして若者達の命をすり潰している。
悪魔の契約よりもタチが悪い、悪魔ですら魂と引き換えに富や快楽を前払いで提供するというのにこの会社は搾取するだけで何も与えはしないのだ。
(……どうか強く生きてほしいです……)
今のメタ子にできることといえばせいぜい彼らに回される理不尽な雑用をこっそり引き受けたり、栄養ドリンクを忍ばせておくことくらいだった。
そんな日々を過ごしていたある日……なんと夜の十時二十分というとんでもなく早い時間に帰ることが出来ていた。
『おいメタ子!俺はこれから部長と一緒に他社との接待だからな!適当なところで上がっていいぞ!』
そう言って先程課長が足早にオフィスを出て行ったのだ。
明日は早朝からの出勤が確定しているものの、部長と課長は明日一日大手クライアントの重役陣を交えた大規模な親睦ゴルフコンペと料亭での接待にかかりきりになるらしい。
つまり──明日の社内には理不尽の権化たる課長が不在ということになるのだ。
「……奇跡ですね」
メタ子は素早くパソコンの電源を切ると帰る用意を進めていく、近藤と宮本も今日は日付が変わる前に帰れそうだと安堵の表情を浮かべながら片付けを始めているようだった。
「お二人とも今日はゆっくり寝てくださいね」
「はい……!十六夜先輩もお疲れ様でした!」
幸せそうに出ていく二人を見送りメタ子も外へと出る、こんなに早いと居酒屋に寄って楽しむ事も考えたが、今日は店に寄るよりも一秒でも早く帰って身体を休めたい気分だった。
やがて自室に到着し中へ入るとすぐに鞄を手放し寝巻きに着替えようとしたその時、唐突に玄関のドアが何者かに叩かれた。
「……誰でしょうか?」
荷物は特に頼んでいないし、そもそもこんな時間に来るとは思えない。
メタ子は手を止め玄関へ向かうとドアチェーンをかけたまま少しだけ扉を開けた。
すると薄暗い廊下に立っていたのは隣に住んでいるあもんだった。
「あもんさん?どうかしたのですか?」
「あ、め、メタ子様!お疲れ様です……!」
そんな彼女の手には何やら大きな両手鍋が握られている、何故その様なものを持っているのか……。
「あ、あの……こんな遅くに突然すみません…お、お仕事からお帰りになられた音が聞こえたので……」
「あ、ああちょうど今帰宅したところですが……そのお鍋は一体?」
「あ、ええと、その…わ、私、人間界のお料理を色々と勉強してみようと思いまして……スーパーで材料を買って作ってみたんですけれど、その、一人暮らしの分量の加減がよく分からなくて作りすぎてしまって…」
「作りすぎ、ですか」
「は、はい……私一人じゃ到底食べきれそうになくて……も、もしご迷惑でなければメタ子様!これ……召し上がりませんか?勿論!変なものとかは一切入っていませんので……!」
必死に弁解するあもんが持ち上げる鍋の隙間からとても温かい香気が漂ってきた、その匂いは過酷な労働で乾ききっていた彼女の胃袋を容赦なく直撃する。
ぐぅぅぅぅぅ……
「っ…!」
メタ子は顔を赤らめながら思わず自分の腹部を手で押さえようとする。
「あの…冷めないうちにどうぞ」
「あ、ありがとうございます…お心遣いありがたく頂戴いたします……」
「じゃ、じゃあ私はこれで…!お鍋は明日以降いつでもいいので返していただければ大丈夫ですから!お、おやすみなさい!」
もはや断る理由などどこにもなかった、鍋を受け取るとあもんは嬉しそうに笑い頭を下げ部屋へと戻っていく。
「ふぅ…」
それから鍋をローテーブルに置き着替えを済ませたメタ子は期待を胸に鍋の蓋を持ち上げた。
「……わぁ…!」
その瞬間目の前には立ち上る湯気と共に見事なまでに煮込まれた肉じゃがが現れた。
しっかりと面取りされた大ぶりのじゃがいもに鮮やかな朱色を残した乱切りの人参…飴色の玉ねぎや艶やかな豚肉の細切れの数々。
「これは素晴らしいですね…」
もう我慢の限界だったメタ子はキッチンへと小走りで向かい深めの小鉢と箸を引っ張り出す、そして忘れてはならないのがキンキンに冷えた缶ビールだ。
それを手にテーブルに戻り豪快に小鉢へとよそるとすぐに口へと放り込んだ。
「はふっ、んんっ………!」
舌の上でほろりとじゃがいもが崩れ去る感触……口いっぱいに広がるのは優しい甘みと温かさだ。
素材の味をけっして邪魔しない味わいにメタ子は身体を震わせる、そうして咀嚼を終えるか終えないかのうちに冷えた缶ビールを口元へ運び勢いよく煽っていく。
温かく優しい余韻をキレのあるアルコールが包み込み喉の奥へと流し込まれる。
「……っ」
あまりの美味しさに息を吐き出そうとしたその瞬間だった。
──ツーッとメタ子の目頭から涙が溢れて出た。
「え…あれ……?」
驚いた彼女は自分の目元を拭おうとするが一度溢れ出した涙は止まらない。
「ど、もうして私泣いて…」
悲しいわけではない、辛いわけでもない………ただ圧倒的なまでの温もりがメタ子の心を優しく覆ってくれた事への感動だった。
居酒屋で食べる揚げたての唐揚げや焼き鳥は間違いなく美味しい、コンビニのスナックや食べ物だって飢えを凌ぐために毎回重宝してきた。
けれどもこれは違った、ただ一人が丁寧に時間をかけ心を込めて作り上げた本物の"家庭料理"の温もり。
「……この世界に来てからこうした手料理なんて一度も口にしていませんでしたね…」
天界からこの世界に降り立った彼女の食事は常に効率と生存の為の作業でしかなかった。
そんな日々の中に現れたこの温かな一皿、不思議なことに身体の奥底に溜まっていた孤独や疲労がじわじわと溶かされていく。
「美味しい…美味しいです……」
メタ子は鼻をすすりながら再び箸を動かす。
無心だった………肉じゃがとビールを交互に食べ進めていくうちに小鉢の中身があっという間に消え去ると、メタ子はすぐに鍋から二杯目三杯目と山盛りによそっていった。
「ふぅ……はふ……美味しい……」
大量にあった筈の肉じゃがは驚くべきスピードで減っていき、やがてビールが三本目となる頃にはすっかり鍋の中身が空となった。
「……ごちそうさまでした」
最後の一口を飲み干したメタ子は両手を合わせて深く頭を下げる、彼女の顔には満ち足りた様な笑みが広がっていた。
まさか悪魔が作った料理で天使が救われるなど天界の教義からすれば笑い話にもならない喜劇かもしれない、けれど今のメタ子にとっては目の前の善意と温かな食事こそが確かな真実なのだ。
「……よし」
空になった鍋と食器をシンクへと運び優しく洗っていく。
「明日きちんとお礼をして返しましょう、何か美味しいお菓子でも買って……」
その後満足感に包まれながら寝巻きに着替えたメタ子はベッドへと身体を投げ出した。
「………おやすみなさい、あもんさん」
それから隣の部屋の少女に向けて小さく囁くと穏やかな笑みを浮かべたまま心地よい眠りの底へと意識を手放していったのだった。




