メタ子、クレーム対応に勤しむ。
どんよりとした空気が漂う平日の午後二時過ぎ…どこか重い倦怠感がオフィス全体を重たく包み込む時間帯に突如としてけたたましい程の電話音が鳴り響いた。
プルルルルルッ!、プルルルルルッ!!
その電話を担当したのは今では立派な社畜予備軍と化していた宮本。
「はい株式会社〇〇、営業部でございます……えっ、あ、あの…先日の納品データの件でしょうか?はい…はい、申し訳ございません。ですがそちらの仕様書に関しましては事前に先方の担当窓口である〇〇様にご確認をいただいておりまして……」
宮本の声が目に見えて震え始めた、受話器のスピーカーからは周りにまで聞こえる程の怒声が聞こえてくる。
『事前に確認したから何だって言うんだよ!現場で実際に使うこっちの手間を考えてねえだろ!上が勝手に判子押した書類なんか知るか!だいたいお前さっきから声が小さくて何言ってるか全然聞こえないんだよ!新人を電話口に出して適当にあしらおうって魂胆か!?』
「め、滅相もございません!そのような意図は毛頭……あの、至急確認をいたしまして折り返し──」
『折り返しっていつだよ!今すぐ答えろって言ってんだろ、責任者を出せ責任者を!』
「あぅ…も、申し訳ありません……」
浴びせられる言葉の刃はもはやただの個人攻撃へと変貌していた。
彼女はだんだんと言葉が途切れ完全にフリーズしてしまう……それを見ていたメタ子はフロアを見渡すが、課長は知らん顔でパソコン画面のネット記事を眺めており、他の先輩達も自らのタスクに追われてキーボードを叩き続けている。
おそらく誰も助けに入らない、このままでは彼女の心が壊れてしまう。
「……宮本さん、受話器を貸してください」
「え、十六夜先輩…でも……」
「大丈夫です、私が代わりますから。宮本さんはお茶でも飲んできてください」
メタ子は震える宮本の手から受話器を引き取ると電話越しの相手へ口を開いた。
「大変長らくお待たせいたしました、お電話代わりました営業部の十六夜と申します……弊社の納品データにつきましてご不便をおかけしており誠に申し訳ございません」
『あぁ!?誰だお前?さっきの奴はどうした!都合が悪くなったからって別の奴に押し付けて逃げたのか!?』
「先程の担当は新人ゆえに詳細な経緯を把握できておらず大変ご不快な思いをおかけいたしました、案件の担当者として私十六夜が責任を持ってお話を伺いますので……具体的にどのデータのどの部分に不備が生じているのかお聞かせ願えますでしょうか」
『どの部分だと!?そんなもん全部だよ!フォーマットが見づらいわ行の間隔も狭いわフォントも気に入らない!こんなもん納品して金取ろうなんていい度胸じゃねえか!お前らの会社はどういう教育してんだ!』
「…………」
理不尽にも程がある、今指摘された事は全て先方企業が指定してきた厳格なガイドラインに従って作成したものだ。
相手の物言いは完全に常軌を逸した言いがかりだった。
できることならこの無礼極まりない輩に言い返してやりたい衝動に駆られる。
だがここで感情的に怒鳴り返してしまえば火に油…今度は自分が社内で叱責を受ける羽目になるのは目に見えていた。
「………ご指摘の点は重々承知いたしました。先方と取り交わした仕様書に則った規定のものでございますが現場で作業される皆様にとって視認性が損なわれていたのであれば弊社の配慮が至らなかったと深くお詫び申し上げます……至急調整したデータを本日の十七時までに再送いたしますのでそちらをご確認いただく形でお時間を頂戴できますでしょうか」
非を認めすぎずに相手の言い分を適度に受け流し実行可能な代替案を提示する……電話口の相手は激しい反論を期待していたのかメタ子の返答に一瞬言葉を詰まらせたようだった。
『……チッ、少しでも過ぎたら承知しねえからな!』
そう言い捨てるとガチャンッ!と電話が切られた。
「ふぅ…」
疲れからか溜息を吐いたメタ子、そんな彼女に戻ってきていた宮本が頭を下げた。
「十六夜先輩……本当にありがとうございました…!私頭が真っ白になってしまって全然対応出来なくて…」
「いいんですよ、あそこまで感情的になられたら誰だって対応に困りますから。仕様書の微調整も私がやっておきますので宮本さんは自分の作業に戻ってください」
「はい…本当にすみません……」
ひとまずこれで一件落着だ…その時のメタ子はそう信じて疑っていなかった。
───翌日。
プルルルルッ!
「はい、営業部でございます……あ、十六夜ですか?少々お待ちください………メタ子さん、指名なんだけど…昨日クレーム入れてきた人からみたいだよ」
「え?」
メタ子は眉をひそめながら受話器を受け取り対応を始める。
「…お電話代わりました、十六夜でございます。昨日の修正データご確認いただけましたでしょうか」
『あぁ、十六夜さん?届いてるけどさぁ…今度はデータのファイル名が気に食わないんだよ、なんで日付が西暦なんだ?和暦で統一しろ!あと添付ファイルがわざわざ二つに分かれてるのも鬱陶しい!一つにまとめられないのか?』
「…左様でございますか、ファイル名の形式につきましては社内規定により西暦表記となっておりますが……どうしても修正が必要なのであれば今回に限り変更いたします、ファイルの結合に関しても対応可能です」
『じゃあすぐやれよ、お前昨日言ったよな?誠意を持って対応するってさあ!』
何重もの屁理屈と揚げ足取り、メタ子は胃がキリキリと痛むのを感じながら言われた通りの修正作業を淡々とこなしていった。
………だが電話はそれで終わらなかったのだ、件の相手からの電話は午後にも入った。
『十六夜さんを出せ!十六夜さんじゃないとこの話は通じないから!』
……さらに翌日も。
『あ、十六夜さん?昨日の件だけどさぁ、やっぱり最初のフォントの方が良かった気がするわ、戻せる?』
……そのまた翌日も。
『十六夜さんいる?ちょっと聞きたいことがあるんだけど』
気がつけばその執拗なクレーマーからの電話は一日に何度もかかる程となっていた。
そして恐ろしいことにフロア内ではいつの間にかそのクレーマーの相手はメタ子が行うという暗黙の了解が形成されてしまったのだ。
同僚からの申し訳なさそうな視線と課長からの無責任極まりない丸投げ……連日の激務に加え突発的に起こる理不尽な通話対応にメタ子の神経は限界まで擦り減っていく。
おまけに電話を受けるたびに作業が中断され、今ではその分の皺寄せが残業として跳ね返ってきていた。
そして五日目の午後……。
会議用の資料を印刷していたメタ子の元に近藤が慌てて駆け寄ってきた。
「十六夜先輩!あのクレーマーの人から電話です!今席を外しているって伝えたんですけど全然納得してくれなくて……」
「またですか…」
近藤の困り果てた顔を見てメタ子の胸の奥底でとうとう何かがプツンと冷たく弾けた。
席を外すことすら許されないのか、今の作業すらあの身勝手な人間の機嫌を取るために放棄しなければならないというのか。
「……わかりました、すぐ戻ります」
印刷途中の資料を置きオフィスへと戻ったメタ子は保留ボタンを解除し受話器を耳に当てる。
「大変お待たせいたしました、十六夜でございます」
『遅い!何分待たせるんだよ!お前、まさかわざと出なかったんじゃないだろうな!?』
「…………」
…これ以上下手に出て受け流す必要はない、このまま理不尽な要求に付き合い続ければ自分だけでなく周囲の同僚達の業務まで完全に滞ってしまう。
「…………恐れ入りますが」
『あぁ!?なんだよ!』
「先週から本日までに頂戴いたしましたお電話の回数はすでに十五回以上になります、そのいずれにおきましても弊社は毎回指定通りの修正を行いそのご要望に誠心誠意対応してまいりました………しかしながらこれまでの様な過度な暴言を繰り返される行為は既に正当な業務上の問い合わせの範疇を大きく逸脱しております」
『なっ何を偉そうに……!そんな口を利いていいと思ってんのか!』
「度を越した業務妨害は許されません、もしこれ以上業務に支障をきたすような不当なご連絡が続くようであれば───弊社としても顧問弁護士と協議の上相応の法的措置を検討せざるを得ません…私どもの対応にも明確な限界がございます」
一切の感情を交えない最後通告、きっと受話器の向こうからは激しい怒鳴り声が返ってくるのだとメタ子は身構えた……だが。
『……………』
電話の向こうは嘘のように静まり返っていた。
怒声も舌打ちも何も聞こえない、そのまま重苦しい沈黙が流れるのみ。
『……あ…』
やがて漏れ聞こえてきたのは先程までの傲慢な声とは似ても似つかない酷く掠れた弱々しい男の声だった。
『…すみま…せん……』
「え?」
『すみません…本当に申し訳ありませんでした……』
男の声は今にも消え入りそうに震えていた、まるで張り詰めていた仮面が剥がれたような変貌ぶり。
『法的なこととか…そんな大ごとにしないでください……全部俺が悪かったんです……本当にごめんなさい…』
「あの……大丈夫ですか?」
『……もう限界だったんです』
それから男はぽつりぽつりと語り始めた。
『…先月から新しいプロジェクトのリーダーに無理やり押し込まれて……上からは連日達成不可能なノルマを叩きつけられてその度に怒鳴られて…部下からは無能だって影口を叩かれて……家に帰っても誰もいなくて……何をどう頑張っても一つも上手くいかなくて…………』
『毎日朝起きるのが怖くて…ストレスで頭がおかしくなりそうだったんです、それで誰かに当たり散らしたくて八つ当たりできる相手を探してました……』
『御社に電話したのも最初はただの言いがかりでした…自分でも最低なことをしてるって分かってたんです、でも……十六夜さんだけが僕のめちゃくちゃな文句を途中で遮らずに……真剣に聞いて答えてくれたんです。どんな理不尽なことを言っても逃げずにちゃんと向き合ってくれて…それが情けない話ですけど嬉しかったんです』
「嬉しい…ですか」
『はい…誰も僕の言葉なんか聞いてくれないのに十六夜さんだけは僕の話をちゃんと受け止めてくれるような気がして……それで、つい甘えて用もないのに何度も難癖をつけて電話してしまいました……本当にどうしようもない奴だったって事はわかってます、本当にごめんなさい………』
受話器の向こうから伝わってくるのは傲慢な悪意ではなく、過酷な社会の激流に呑まれ誰にも助けを求められず孤独と重圧の中で溺れかけていた一人の人間のもがきだった。
(この人もすり潰されていたのですね)
立場は違えど抱えている苦しみは同じだったのだ。
理不尽な組織の歯車として使われ限界まで精神を摩耗させられ、逃げ場を失って叫び声を上げていた…ただその叫びの方向があまりにも不器用で歪んでしまっていただけで。
メタ子は受話器を握り直すとゆっくりと口を開いた。
「……お辛い中お話ししてくださりありがとうございます」
『え…?』
「私自身も日々の業務の中で全てを投げ出したくなるような気持ちに襲われることが多々ございますから」
『十六夜さん……』
「ですが一つだけ申し上げさせてください、毎日そこまで必死に耐えて頑張っていらっしゃるのであれば……必ず、それを見ていてくださる方はいらっしゃいます。あなたの流した汗や耐え抜いた時間は決して無意味なものではありません、ですから……どうかご自身をこれ以上追い詰めないでください」
電話の向こうからは嗚咽のような息が漏れる、男はしばらくの間そうしていたが、やがてどこか憑き物が落ちた様な声が返ってきた。
『……ありがとうございます…本当にありがとうございました十六夜さん、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。俺、もう少し頑張ってみます』
「はい、陰ながら応援しておりますね」
『失礼いたします…』
カチャリと静かに電話が切れる。
それから受話器を置いたメタ子は深々と息を吐いた。
「十六夜先輩……あの、クレーマーの人大丈夫でしたか?」
心配そうにメタ子を見ていた宮本達にメタ子は小さく微笑んで言った。
「…もう電話はかかってこないと思いますよ」
……実際その言葉通りにあの日を境にあの男からの理不尽なクレーム電話がかかってくることは二度となかった。
きっとあの言葉の通りにどこかで頑張って生きているのだろう。
────しかし、
「おいメタ子!何をぼーっと突っ立ってんだ!休んでる暇があったら手を動かせ手を!」
「は、はい課長……えっと、これは?」
「それ明日の昼までに作り直す他社との比較表だ!あとさっき役員会で決まった新規プロモーションの企画書、骨子だけでもいいから今日中にドラフト上げとけ!いいな?」
どさっ!という音と共にデスクへ紙の束が無慈悲に叩きつけられた。
「………………」
メタ子は引きつった笑みを浮かべながら静かに天を仰ぐ。
(……あの時のクレーマーさんの対応よりも、この社内の日常の方がよっぽど凶悪で地獄でしたね………)
外の人間には理屈が通じ情が通じ、最後には感謝の言葉すら受け取ることが出来た。
だがこのオフィスの中にあるのは情も道理も一切通用しない無限の搾取と思いつきの無茶振りだけだ。
荒れ狂うタイピング音がオフィスに響き渡る、メタ子は今日また底知れぬ泥沼の中へその身を沈めていったのだった。




