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メタ子、繁忙期に地獄を見る。

会社という組織には必ず周期というものが存在する。

普段通りに淡々とルーティンワークをこなし大抵は定時を少し過ぎたあたりで適当に切り上げられる平穏な時期、そして──全ての社員から人間性を剥奪し容赦なく精神と肉体をすり潰していく災厄の時期。


すなわち、繁忙期と呼ばれる悪夢の期間である。


……当然メタ子が身を置くこの会社にもついにその地獄の期間が襲来していた。


ジリリリリリィ!!!

プルルルッ!!!


フロア中の固定電話がまるで断末魔の如くそこら中から鳴り響き、一つの受話器を置いた瞬間に別のランプが激しく明滅しコール音が重なり大きくなっていく。

それに合わせる様に周りの社員達によって叩かれるキーボード音や大急ぎで席を行き交う革靴の足音……おまけにパーテーションの向こうからは上司達の怒号までもが突き抜けていた。


「おい!〇社への見積もりまだ送ってないのか!」

 

「すみません今すぐ確認します!鈴木さん、承認印まだですか!?」

 

「待ってくれ、今部長の決裁待ちで止まってるんだ!誰か部長の居場所知らないか!」


「お待たせして申し訳ありません!はいっ、はい…それが今渡辺は席を外しておりまして…!」


「そちらの件については前回申し上げた通り……!」


まさにこの世のものとは思えない程の荒れっぷり、平穏などという言葉はとうの昔に吹き飛びフロア全体が慌ただしさに包まれていた。

そんな混沌の中心でメタ子はディスプレイに血走った両目を張り付け猛烈な勢いでマルチタスクを処理していた。

 

「十六夜さん!内線三番クライアントの制作部長から至急代わってくれって!」


「は、はい、ただいま代わります!……お電話代わりました、十六夜でございます…はい、はい、大変申し訳ございません!其方はただいま最終確認を行っておりまして…ええ、本日の夕方までには必ずや初校を……はい!失礼いたします!」


「メタ子ちゃんごめん!こっちの原稿文章の言い回しがおかしくないか大至急見てくれない!?」


「拝見します!……佐藤さん、ここの主語と述語がねじれてます!あと前回のリリースとパーセンテージの桁が一つズレてます!」

 

「うわっ本当だ!ありがとうメタ子ちゃん!」

 

「おいメタ子!」

 

「は、はい課長!」

 

「明日の朝の役員報告用資料、専務から追加の指示が入ったぞ、競合三社の直近半期の売上推移とうちのシェア拡大の予測シミュレーション、それぞれのグラフを別パターンで作って差し替えとけ!」

 

「い、今すぐにですか!?現在他社向けの納品データも作成中なのですが…!」

 

「文句言ってる暇があったら手を動かせ!いいな?お前に任せたからな!」


「か、かしこまりました……」

 

指示書をデスクの上に叩きつけるように置いて去っていく課長の背中を見送りながらメタ子はキーボードへと再び視線を落とす。


(……これが地獄なのですね)


天界にいた頃、彼女は何度か悪魔達と激しい口論や小競り合いを演じたことがあった。

お互いの領地問題や魂の契約を巡り相手の屁理屈に対して何日も論戦を交わしたものだ、だが今になって思えば──。


(あの悪魔たちとの論争などこれに比べれば天国そのものでした…!)

  

悪魔達はどれほど邪悪であっても契約の文言は遵守していた、理屈の通らない無茶振りで納期を二時間前倒しにしたり、一度決めたデザイン案を『やっぱり気分が変わったから』などという適当すぎる理由で白紙に戻したりは決してしなかった。

悪魔には悪魔なりの厳格なルールと法秩序が存在していたのだ、それに引き換えこの会社はどうだ?

法も道理もへったくれもない、ここにあるのは底なしの強欲と下請けに対する無慈悲な搾取と思いつきで部下を振り回す理不尽だけである。


悪魔よりも人間の方がよほど邪悪で無秩序で理不尽の化け物なのは間違いなかった。


「メタ子さん……これさっきの追加分…」

 

「置いといてください!すぐチェックしますので!」

 

「頼む神様……!」

 

「神なら今優雅に聖水でも飲んでますよ!祈るよりも手を動かしましょう!」

 

メタ子はただ一心不乱に画面と格闘していた。

余計な事に気を向ける時間など無い…一つでも多く一秒でも早く目の前のタスクを終わらせる、それだけが今の彼女に許された行為だった。


やがて夕日が沈み夜が訪れ、街の明かりが一つまた一つと消えていく時間となる。

だがこのオフィスの蛍光灯だけは皮肉な事に変わらない光を放ち続けていた。


壁の掛け時計が指し示している時刻は深夜四時二十分……

 

「…………」


もはやここまでくると電話のコール音すら鳴り止んでいる。

あれだけ怒号を飛ばしていた課長も応接室のソファに倒れ込んだきり戻ってこない、そして他の同僚達の姿もまた凄惨を極めていた。

デスクの上に突っ伏し腕を垂らして完全に意識を失っている者、椅子の背もたれを限界まで倒し口を開けて天井を見つめたまま固まっている者、何もかかってきていない電話口にぶつぶつと声を発している者…通路の片隅で横たわり全く微動だにしない者……。


「……皆、頑張ったのですね…」

 

掠れた声でそう呟きながらメタ子は自分の両目を強く擦る…瞼の奥には変な熱を感じ、手首は重く痺れ腰はガチガチに固まっていた。

 

「今日はもう帰れませんね」

  

悲しい現実がメタ子の頭にすとんと落ちてくる。

今から帰宅したところで自宅に着くのはおよそ五時前…シャワーを浴びて布団に入れば五時半、そこから軽く寝たとしてもまたすぐに会社へと逆戻りだ。

往復の移動時間を考えれば下手に帰宅する方が肉体へのダメージが大きいだろうし、何より今この状態で安全に帰れる自信は無かった。

 

「お腹が減りました……」

 

何も栄養を得られていない胃袋が激しく主張してくる、ビルの外に買いに行くのも難しいと判断したメタ子は重い腰を上げ、フロアの奥にある自動販売機へと向かった。

飲料の自販機の隣にひっそりと佇むパンと菓子の自動販売機、そこにお金を投入し売れ残っていたあんパンのボタンを押し込む。

ポスッという虚しい音が響き落ちてきた袋を拾い上げると必死にデスクまで戻り食べ始めた。


「……いただきます」

 

冷たくパサついたパン生地…モソモソとした食感の奥からねっとりとした少量の粒あんの甘さが舌の上に広がっていく。

 

「んぐっ……んっ…」


乾いた感触に喉を詰まらせかけ、慌ててぬるくなったペットボトルの水で強引に胃袋へと流し込む。

やがて食べ終えた袋を丸めてデスクへと置きいたメタ子は再びパソコンの画面を睨みつけた。


「あと三ページです……これさえ終われば一区切りつきます……」


己に言い聞かせるように呟きながらマウスを操作し画面に映る文字列を確認していく。


カタカタカタ……カタカタ…ターンッ。

 

「…よし、これで一度保存を…」


苦労の果てに出来上がったスライドを保存しバックアップを完了させた瞬間、メタ子の口から安堵の溜息が漏れた。

 

『04:46』

 

「終わりました………これで何とか形に……」

 

マウスから手を離すと指先が微かに震えているのを感じる、更には全身の関節という関節から悲鳴が聞こえてくる様な軋む音が聞こえてきた。

今すぐこの場で眠りたい、だがここで眠れば起きた時の身体に深刻なダメージが加わることは間違い無い。


「休憩室…休憩室のソファへ行きましょう……」


メタ子はふらつきながらも立ち上がり、オフィスの奥にある社員用の小さな休憩室へと足を動かしていった。

そこは普段から昼休みに仮眠を取る者が数人利用する程度の狭い空間だが、幸いな事に先客がおらず使われていないソファがそこには鎮座していた。


「あぁ……」

  

それを見てとうとうメタ子は糸の切れた人形の如くソファの上へと倒れ込んだ。


(今は四時五十分程…続きの作業がある以上そんなに寝てはいられません………一時間…いえ、せめて三十分だけでも頭を冷やしましょう)

 

微睡みながらアラームをセットしようとポケットのスマートフォンに手を伸ばしかけるが、その途中で力尽きた腕がソファの座面へと滑り落ちた。


「さんじゅっぷん…ごに……」

 






外から差し込み始める光、それらがフロア全体を照らそうとする中メタ子の意識は急速に覚醒へと向かい出した。

 

「ん……」


ソファで寝ていたからか身体が変に重い、だが確かに休めたようで蓄積していた疲れは多少治っていた。

 

(……あれ?私どのくらい寝ていたでしょうか……?)

 

ぼんやりとする頭で考えを巡らせる、彼女の感覚としてはほんの十数分ほど仮眠を取った程度の手応えだった。

頭の奥の鈍痛は依然として残っているが先まで襲ってきていた睡魔の濁流は幾分か引いている。


(ふふっさすが私です、三十分の仮眠できっちり目が覚めました……これなら作業の続きも出来そうです…)


自分の体内時計の正確さを自賛しながらメタ子は体を起こしスマートフォンを取り出すと画面を確認する、そしてそこに表示された数字が彼女の両目に飛び込んできた。


『07:18』

 

「…………」


メタ子の心臓が嫌な音を立て跳ねる、目を擦りもう一度画面を凝視するもそこに映される数字は変わらない。

 

「し、七時…?」


見間違いであってくれと祈るような思いで再起動まで行うも結果は同じ、それどころかこうしてメタ子が固まっている間にも次の時刻を刻み始めている。

 

「ひっ……!?」

 

その瞬間全身の毛穴という毛穴から冷や汗が一気に噴き出した、血の気が猛烈な勢いで引いていき指先が冷たくなっていく。


「お、終わりです……!この世の終わりです…!」


かつて天界にいた頃神の怒りに触れた傲慢な都市に対し、天から容赦のない雷火が浴びせられすべてが業火に包まれるいう凄惨極まりない天罰の光景をメタ子は遠くから目撃したことがあった。

あの時彼女は神の威光に震え上がったものだったが、今の彼女の絶望はそれを遥かに超越していた。


「あぁぁ……ああああああああ!?」


メタ子は頭を激しく掻きむしりながらソファから転がり落ちるように立ち上がり大急ぎでデスクへと駆け出していく。

あまりの足音に同僚達も思わず起き上がる気配がしたがそんな事はもはやどうだっていい。


「助けてください神様………!!!!」


声にならない悲鳴と共にメタ子の指先がとんでもないスピードで動いていく。


カタカタカタカタカタカタカタッ!

カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタッ!

カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタッ!


…その後、オフィスの片隅で絶望を背負ったメタ子のキーボード音が一時間もの間鳴り響いたのだった。

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