メタ子、残業する。
「──であるからにして、我が社の提示する新規プロモーション戦略は単なる既存顧客の維持に留まらず、若年層市場の開拓をも同時に達成し得る極めて画期的なソリューションとなるのです!」
大会議室に設置された大型モニターの前でメタ子の上司である課長の声が響き渡っていた、次々と切り替わるスライドを前に恐れることなく自信満々な表情を浮かべながら彼は説明を続けていく。
そんな課長の斜め後ろ……ノートパソコンの操作席に座っていたメタ子は顔の筋肉を完全に固定したまま押し寄せる溜息を喉元で必死に押し殺していた。
(……よくもまあこんなに堂々と発表出来るものです)
モニターに映し出されているのは洗練されたレイアウトでまとめられた提案資料である。
現状の市場動向の推移、競合他社との比較グラフ、費用対効果のシミュレーション、そして緻密なロードマップ……一見完璧とも言えるスライドではあるが、そのすべてを作成したのは他でもないメタ子だった。
昨晩の九時過ぎ、退勤の準備をしていた最中に『明日の朝イチで他社プレゼンが入ったからそれ用のスライド作っておいてくれ』と唐突に振られた無慈悲なタスク。
折角早めに帰れそうと幸せ気分だったメタ子のその時の絶望は言い表せない……結局退勤時間が延長され軽く仮眠をとった後に再度作業を行い、血走った眼を擦りながらプリンターと格闘…文字通り死に物狂いで間に合わせた苦労の結晶が今まさにモニターの上で輝いているスライドなのだ。
そのおかげか、課長の正面に座る提携先企業の役員や担当者達は感心したように頷いている姿が見てとれた。
「なるほど…非常に分かりやすい、それに昨晩急遽お願いした方針転換が見事に反映されている。御社のフットワークの軽さと熱意には心底驚かされましたよ」
「はっはっは!いやあ過分なお言葉をいただき光栄でございます!我が営業部は常にクライアントファーストがモットーですからね!私の長年の現場経験と勘が今回のスライドの結果を導き出したと言っても過言ではありません!」
課長は彼らからの賛辞に胸を張りさも自分がすべてのデータを精査して一人で作り上げたかのように雄弁に語り始め、それを黙って聞いていたメタ子の手元のクリック音がほんのわずかだけ強くなった。
(長年の勘ですか…さぞ素晴らしいものなのでしょうね……)
とはいえここで反論できるはずもない…その後の質疑応答も滞りなく終わり先方の専務が満足げな表情で立ち上がるとメタ子の課長と固く握手を交わす。
「大変素晴らしいご提案でした。社内に持ち帰り前向きに検討させていただきます」
「ありがとうございます!良いお返事を心よりお待ち申し上げております!」
深々と頭を下げ会議室から出ていく彼らの見送りをする課長、やがて先方の足音が完全に消え扉が閉まった瞬間メタ子へと振り返った彼の顔はこれ以上ないほどの上機嫌だった。
「おいメタ子!」
「は、はい……」
「見たかあの専務の食いつきよう!完全に手応えあったぞ、これ大型受注間違いなしだ!」
「ぐふぅ…!ゲホッゲホ…」
高笑いを上げる課長の手がバシバシとメタ子の背中を叩く、あまりの加減の無さに思わず咳き込んでしまうが課長は特に気にする様子もない。
「やればできるじゃないか!まあ俺のプレゼン技術が神がかってたからこその大成功だがな!お前のスライドも及第点ってことだ、まだまだこれから頑張っていけよ?」
「あ、ありがとうございます……課長のお力添えがあってこそです……」
悲しきかな、"それを全部作ったのは私ですよね"などと答えられる訳もなく、メタ子はメタ子は引きつった愛想笑いを浮かべるしか無かった。
「お、よく分かってるな!じゃあ俺は上に報告行ってくるから……あ、そういや今日の夕方までに提出の月次報告書を作っておいてくれ。あと来週の定例用の議題まとめも今日中にきっちり終わらせとけよ!」
「…わかりました」
「おう、それじゃあな!」
それだけ言い残した課長は鼻歌交じりに会議室を出て行く……
「……及第点、ですか…そうですか……」
一人残されたメタ子は静かに項垂れそう呟いた。
それから時間はあっという間に過ぎ去り、現在の時刻はすでに夜中の十一時。
オフィスには相変わらずキーボードの音が絶え間なく響いている、その中でメタ子は昼間に課長から押し付けられた追加の業務は勿論、突発的に入ってきた他部署からの問い合わせ対応などを一気に進めていた。
メタ子を含め、オフィスに残っている社員達の姿はおよそ生きている人間のそれとは言い難い……彼女の向かい側の同僚に至ってはキーボードの上で意識を手放している始末。
(ここは地獄ですね…)
そんな事を考えながらメタ子は自分の腹部をそっと押さえる。
ぐぅぅぅ……。
休憩も無しにずっと作業を続けているのだ、当然身体は足りない栄養を寄越せと騒ぎ出していた。
最後に口にした固形物といえば片手で流し込んだパサパサの栄養食品一本のみ、そんな状態では頭もろくに回らず作業のスピードもどんどん落ちてきている……
(このままでは駄目です、何か栄養補給をしなくては……)
そう決意したメタ子は同僚を起こさないよう静かに立ち上がりオフィスを出るとある場所を目指してビルを出た。
そこは会社から徒歩二分ほどの距離にあるコンビニエンスストアである、辿り着いたメタ子は早々に店内へと足を踏み入れ黙々と目的のコーナーへと向かっていく。
「あれ、メタ子さんも買い物?」
「?……ああ、鈴木さんでしたか」
その時突然かけられた声に顔を上げるとそこには同じ部署の同僚である鈴木が立っていた、彼の手にはすでに缶コーヒーや栄養ドリンクなどの眠気覚ましの為の飲み物が握られている。
「メタ子さんもまだ残ってたんだね」
「はい…課長から午後にいただいた案件がなかなか手強くて……」
「あーやっぱり…今日のプレゼン凄く上手くいったって噂では聞いてたから少しは仕事手加減してくれるかと思ったんだけど……相変わらず容赦ないね」
「鈴木さんの方こそこんな時間まで……本当にお疲れ様です」
「ははっ…僕の方はやっと折り返しだよ、今日中に仕上げなきゃいけないクライアント向けの企画書が三本あってさ、今やっと一本半が終わった所。これから戻って朝までに残り半分を片付ける予定かな」
「もはや終電諦めコースですね……」
「諦めたも何も始発で帰ってシャワー浴びてまた出社する気満々だよ、笑うしかないよね…」
鈴木はそう言いながら力なく笑う、彼の淀んだ目にはもはや諦念と狂気しか宿っていなかった。
「じゃあ僕は戻るよ、メタ子さんもあんまり無理しないでね」
「はい、鈴木さんも…どうかご無理をなさらず」
「うん、お互い頑張ろう…じゃあお先に」
鈴木はレジに向かうと手早く会計を済ませコンビニを後にする、自分も大概だが周囲の同僚達もまたこのブラック企業の激流に呑み込まれ精神を削り取られているのだとメタ子は改めて自覚させられていた。
(私も早く買い物を終わらせてしまいましょう)
同僚は心配だが今はやるべき事をやらなくては…メタ子は商品棚に向き直るとコンビニカゴへ次々と商品を放り込んでいく。
大袋のスナック菓子やサラミなどの味の濃いツマミ、唐揚げなどの油もの……普通であれば健康を考えて躊躇するようなラインナップであるが今はそんな事を気にしていられる状況では無いのだ。
そして外せないものがもう一つ…メタ子の手が伸びたのは"冷却ジェルシート"だった。
熱があるわけではない風邪の兆候もない、だがオーバーヒートを起こしている頭を物理的に冷やし意識を手っ取り早く覚醒させるにはこれこそが最高の武器になる。
「袋はどうされますか〜?」
「お願いします」
「ではお買い上げ〇〇円になります〜……はい、丁度お預かりしますね〜。ありがとうございました〜」
やがてパンパンに膨らんだ袋を手に再びオフィスへと帰還したメタ子は購入したものをデスクに並べ始める、相変わらず周りは静まり返っており先程よりも眠っている同僚の数が増えているようだった。
メタ子は彼らを起こさない様静かに冷却ジェルシートの箱を開けると中身を取り出しそれを一息におでこへと貼り付ける。
「っ……!」
瞬間、突然伝わってきた冷たさに背筋が伸びながらも先程まで曇っていた視界が一気にクリアになるのを感じた。
「ああ……これです、この感覚です…!」
メタ子は歓喜の声を溢しながらも続けて栄養補給に取り掛かろうと袋の中からスナック菓子を取り出し中身をまとめて口へと放り込んでいく、そこから間髪を入れずに唐揚げも追加し悪魔の様なコンボを繰り出した。
舌の上に広がる圧倒的な油分と塩分、今自分は確かにカロリーを取っているのだというのが嫌でも伝わってくる。
「んん……!堪りません…!」
メタ子は身震いしながらどんどん食べ進めていく。
スナック、唐揚げ、フランクフルト…それらをついでに買っていた炭酸飲料で流し込む。
「………幸せです…」
過酷な現実の中で手に入る幸福、それをメタ子は全身で感じていた。
「…よし、脳が騙されてくれている内に終わらせます!」
メタ子は再びディスプレイに向き直ると猛スピードでキーボードを叩き始める、欲を満たした事による一時的な興奮状態…それを味方につけた今の彼女に敵はいなかった。
時計の針が静かに進んでいく。
一時を過ぎ──、二時を過ぎ──、そして深夜二時半を回った頃……
「…………」
メタ子から発されていたタイピング音が完全に途絶えた。
スナックの大袋は潰されフランクフルトの串や包み紙と共に纏められている、冷却ジェルシートは半分近くが消費されデスクに放り投げられていた。
そんなデスクの上で──
「………………」
彼女は他の同僚達とまったく同じように顔面から突っ伏していた。
作業は全て終わった、それと同時にこれまで持ち堪えていた気力が完全に消え去ったのだ。
「…あ…ぅ……」
半開きの口からまるで魂のような溜息が細く吐き出される、もはや指先一つ動かない……瞼を持ち上げることすら億劫だった。
(………このまま魂が天界に向かってしまいそうです……)
瞼の裏にかつて自分がいた天界の様子が映し出される、今彼らは何をしているのだろうか。
もうこのまま何も考えずに意識を失ってしまいたい…だがそうすると目を覚ました後待っているのは地獄のような首と肩の激痛である。
「ん、んぅ……っ!」
メタ子は限界を迎えた肉体を必死に動かし立ち上がる、それからゴミを袋に押し込みオフィスのゴミ箱へと投げ入れるとそのまま階段を降りて行った。
「……お疲れ、様…でした…」
誰に聞かせるわけでも無くそう呟きながら深夜の街に出て、寒さに身を縮こまらせながら自宅のマンションを目指す。
フラフラと何度も倒れそうになりながらも必死に足を動かすメタ子………彼女は『少しでもいいからベッドで休息を取りたい』という切実な願いを抱きながら、ただひたすらに己の足を動かして行った──。




