メタ子、居酒屋で飲む。
初投稿です。
拙い文章かもしれませんが、楽しんで頂けると幸いです。
──天使。
それは古今東西、あらゆる神話や伝説に登場する高位の存在である。
その役割は時に神の意思を地上に伝えるメッセンジャーであり、時に迷える人々へ知恵を授ける導き手であり、時に傲慢な人類への容赦ない罰を下す代行者など、時代や文化によって常に形を変えて語り継がれてきた。
しかしいかなる伝承であっても共通しているのはその気高く清らかな神聖さである、信じる者は誰もがその神々しさに息を呑みその足元に跪くだろう。
…そんな天使がもしもこの現代社会に実在しているとしたらどうなるだろうか。
神の存在を信じる者達が雲霞のごとく押し寄せるだろうか?
それとも天変地異の前触れだと大騒ぎし世界中のメディアが色めき立つのだろうか?
だが現実は───、
「おいメタ子!これ明日の朝イチまでに頼むな!」
……蛍光灯の光が冷たく照らすオフィス内に圧のある男の声が響き渡り、同時にデスクへと放り出されたのは分厚い修正指示書の束。
「は、はい…!」
男の声にびくりと背中を跳ね上がらせそれを受け取ったのは1人の女性だった。
「課長、あのこれ…夕方に提出した企画書の修正分でしょうか……?」
「ん?見りゃ分かるだろ、クライアントの専務が急に方針を変えたいって言い出してきてな。デザインのレイアウトも全部やり直し、おまけに関連データのグラフも最新の四半期ベースに差し替えておけだとさ」
「全部…ですか?あの、それを朝までに………?」
「だから朝イチって言ったろ?明日の九時には先方の役員会議なんだから八時半には製本まで終わってなきゃ困るんだよ、文句言ってる暇があるなら手を動かせ!何言っても結果が全てなんだからな!」
課長はそう言い捨てると自分のデスクへと戻り、早々に帰宅の準備を整え始める。
「じゃ、俺はこれから大事な接待があるから帰るぞ。あ、鍵は最後に帰る奴が閉めとけよ」
「お、お疲れ様です……」
やがて課長の足音がフロアの外へと消えていくのを見届けながら、紙の束を手にした女性は深い溜息をついた。
彼女は十六夜メタ子──その正体は人間界の勉強のために天界から派遣された天使である。
一年ほど前に地上に降り立ちこの会社に入社した当初の彼女はまだ希望とやる気に満ち溢れる天使であった。
人間達の社会システムを内側から学び彼らを深く知ることで、より良き天使へと成長する…そんな尊い試練となるはずだったのだ。
『天界の記録業務に比べれば人間界の仕事など造作もないことです!』
ここで働く前はそんな眩しい程の決意すら抱いていた彼女だったが、入社して一ヶ月、二ヶ月と時間が経つにつれ初めの頃にあった使命感ややる気はとっくに消え去ってしまっていた。
美しかった容姿も今では常に目の下にクマが刻まれ、凛としていた姿勢はすっかり猫背に固まり、髪すらも切るのを面倒くさがり適当に束ね誤魔化している有様……。
立派な天使であった筈の彼女は今ではすっかり組織の歯車の一員と成り果てていたのだった。
「はぁ……」
「メタ子ちゃん大丈夫?」
渡された指示書を見て途方に暮れていたメタ子だったが、不意に隣の席の先輩社員が心配そうに彼女に声をかけてきた。
「あ、佐藤さん…」
「課長ったらまた無茶振りしていったわね…手伝ってあげたいのは山々なんだけど、私これからどうしても外せない私用があって……」
「いえ、お気遣いありがとうございます。元々佐藤さんの担当分ではありませんし大丈夫です、いつものことですから」
「本当にごめんね、無理しすぎたら駄目よ」
「はい、佐藤さんもお疲れ様でした」
そう言って小走りでオフィスを出ていく佐藤を見送った後、とうとう残されたのはメタ子を含めてほんの数人…フロア内に聞こえてくるのは乾いたキーボードのタイピング音と時折漏れ聞こえる誰かの重苦しい溜息だけである。
メタ子達が業務を終えて退社できるのは奇跡が起きれば夜の十時、普段は深夜十二時過ぎが基本だ。
そこから家へと帰りまたすぐに出勤、あまりに余裕が無い時は会議室の椅子を並べて仮眠を取り泊まり込みで勤務をする……彼らはそんな事を何度も経験してきた戦友だった。
「……愚痴を言っても仕事は終わりませんね…」
メタ子は小さく頬を叩き気合いを入れ直すと猛烈な勢いでキーボードに指先を走らせる。
数字の照合、レイアウトの調整、グラフの差し替え…今日の昼に作り上げた苦労の結晶をひたすら手直しし続けた。
時計の針が刻一刻と進んでいく、夜中の十時を回り残っていた他の社員たちも一人、また一人と力尽きたようにフロアを去っていく。
そして──
「……終わった?」
最後のページを保存し終えた瞬間メタ子の口からか細い呟きが漏れ、思わず時計を見上げる。
そこに示されていた時刻はなんと十時四十分。
「十一時前に終わりました…!」
まさかの十二時前に仕事が片付いたのだ、こんな時間に退社できるなど異常事態であり奇跡だった。
「帰れます…!今夜は人間らしい時間に帰れます……!」
パソコンを素早くシャットダウンしたメタ子はデスクの上の書類を整えるとロッカーから鞄を掴み取り、オフィスの鍵を閉め逃げる様にビルの外へと身体を投げ出した。
…こんな早い時間に退勤出来た日の行き先は決まっている。
「やはりここしかありませんよね」
そう呟いたメタ子の視線の先にあるのは一軒の居酒屋。
大衆居酒屋"つるかめ"。
会社と自宅マンションのちょうど中間あたりに位置するそれは、この世界を生き抜くメタ子にとっての天国だった。
「いらっしゃい!」
厨房の奥からそんな威勢のいい声が聞こえてくる、周りを見てみると店内は他のサラリーマンや現場帰りの者達で八割程席が埋まっていた。
「お、メタ子ちゃんいらっしゃい、カウンター空いてるよ!」
「こんばんは大将さん…生を一つお願いします」
「はいよ、生一丁ね!」
大将の言葉にメタ子はカウンターの端の席へと滑り込み、流れる様にビールを注文していく。
それから時間も経たない内に目の前にはキンキンに冷えたジョッキが運ばれてきた。
「お待ちどうさま!」
「ありがとうございます……!」
メタ子はビールジョッキを慣れた手つきで持ち上げると一気に傾け喉へ流し込んでいく。
「っ…!」
その瞬間──、喉元を通過していく痛烈なまでの冷たさと刺激……芳醇な苦みと甘みが混ざり合い一気にメタ子の口の中で弾けた。
「ぷはぁっ…!」
ジョッキをカウンターに置きメタ子は幸せそうに息を吐く、全身にアルコールが染み渡っていく感覚…それこそが自分は生きているのだと実感できる瞬間だった。
「相変わらずいい飲みっぷりだねえメタ子ちゃん、今日も大変だったかい?」
「はい…もう大変どころの話ではありませんでした……」
「そうかいそうかい、なら何かつまむかい?腹減ってるだろ」
「はい…!ええとビールのおかわりと……軟骨の唐揚げをお願いします」
「あいよ!生おかわりと軟骨揚げね!」
メタ子の注文を聞いた大将は素早く新しいジョッキを注ぎ奥の揚げ場へと向かう。
心地の良い油の音が耳を通り抜ける中、メタ子は早くも二杯目のジョッキに手をかけた。
「本当に美味しいです……」
天界の空気の中では決して味わうことのできなかった泥臭くも圧倒的な幸福感にメタ子は酔いしれる、そうしていると間もなくしてカウンター越しに小皿が差し出された。
「へいお待ち、軟骨の唐揚げね」
「わぁ…ありがとうございます!」
皿に乗っけられた軟骨にレモンを絞り、大ぶりなものを豪快に口の中へ放り込んでいく。
「んんっ……!!」
サクッとした衣の破砕音にコリコリとした軟骨特有の歯ごたえ、滲み出る旨みにレモンの酸味が口いっぱいに広がる……そのあまりの美味しさにメタ子は目を細めて唸り声を上げてしまった。
その味が消えない内にすかさずビールを流し込む…揚げ物、ビール、このループこそが至高のひと時なのだ。
「美味しい…!美味しいです大将さん…!」
「はははっ!メタ子ちゃんは本当に美味そうに食ってくれるねぇ。」
彼女の姿を見て正体が高位の天使であるなどと見抜ける者がいるだろうか?
もし今天界の上司や他の天使にこの姿を見られれば何があったのかと卒倒されてしまうかもしれないが、今のメタ子にとってはどうでもいいことだった。
天使としてだのそんな堅苦しい事よりも、理不尽な残業を耐え抜いた先に待っているこの一口こそが絶対の正義なのだ。
「メタ子ちゃん、これも食べな」
その時、メタ子の目の前に別の小鉢がコトリと置かれた。
そこにあるのは山盛りに盛られている茹でたての枝豆。
「あの大将さん?私枝豆は注文していませんが……」
「いいんだよ、サービスだ」
「サービス、ですか?」
「おう、今日も遅くまで本当によく頑張ったなと思ってよ、いいから食っときな」
大将はそう言ってカラカラと笑った。
メタ子はそんな大将の笑顔と枝豆の小鉢を交互に見つめ、ホロリと涙を流してしまう。
会社ではどれほど理不尽な要求に応えても"やって当然"という顔をされ、感謝の言葉一つかけられることは無い。
それなのにこの大将は労いの言葉と温かい一皿を差し出してくれる。
(……この人こそが、神なのでは?)
天界の主に対して極めて不敬極まりない考えが脳裏をよぎるが、今の彼女には実際遠い天の上で見守っているだけの神よりも目の前で美味い酒と料理を差し出してくれる大将の方が何百倍も神々しく見えていた。
「……ありがとうございます大将さん、いただきます!」
メタ子は頭を下げると小鉢から枝豆を手に取り早速食べ進めていく、絶妙な塩加減と豆本来の素朴な甘み…軟骨とはまた違った旨みによってメタ子の脳内は完全に幸せオーラで包まれた。
(最高です…最高です……!)
それからビールのおかわりともう何品か追加注文を行い、気づけば時刻は十一時五十分。
名残惜しいが明日の朝もまた早い、この辺りで切り上げなければ……
「大将さんお会計をお願いします」
「あいよ!体にだけは気をつけな」
「はい、ごちそうさまでした。また来ますね」
やがて支払いを済ませ店を後にしたメタ子の身体を冷たい夜風が包み込んでいく。
「ふぅ…」
ここの居酒屋から自宅のマンションまでは歩いて十五分程度、会社から直接帰れば三十分ほどの距離である。
満員電車に揉まれる必要がない立地を選んだのは正解だったが、疲れ切った足腰にとってこの徒歩の時間は決して楽なものではない。
「もう少し…あと少し歩けばお布団が待っています…」
ふとした瞬間に明日のタスクが頭をよぎるがそれを必死に追い出しメタ子は重い脚を懸命に前へと進めていく、すると次第に彼女の視界の先に見慣れた古びたマンションが現れた。
安堵の息を漏らしながらエントランスを抜け外階段へと向かう……このマンションの二階にある部屋が今の彼女にとっての城であった。
極力階段の昇降をしたくないという理由だけで選んだ部屋だったが、こうして疲れた後帰ることを考えると過去の自分を思わず褒めたくなる。
やがて手すりにすがるようにして階段を上がり、ようやく自室の扉の前に辿り着いたメタ子は鍵を回すと一目散に部屋の中へと飛び込んだ。
「ただいま帰りました……」
誰もいない室内に向かって呟きながら扉を閉めた彼女は電気をつけることも、着替えることもせずにそのまま鞄を放り出して寝室へと直行する。
「あぁ…」
そしてそこに鎮座するベッドを見た瞬間、メタ子の緊張の糸が完全に切れた。
倒れるようにベッドの上へと顔ごとダイブするメタ子……彼女の意識は柔らかな感触によって急速に落ちていく。
「っ、天国……!これこそが真の天界です…!」
枕に顔を埋めたまま全身の力を完全に抜く、もはや指先一つ動かす気力も湧いてこず押し寄せる眠気に身を任せて目を閉じる。
「明日はどうせまた別の理不尽な仕事を押し付けられるに決まっています…だからこそ今はただ、この睡眠を……じっくりと………」
限界を迎えたメタ子は急速に遠のいていく意識を手放し、やがて彼女は深い眠りの底へとゆっくりと沈んでいった。




