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メタ子、有給を申請する。


有給休暇……それは労働基準法という名の聖典に記された働く者にとっての究極の権利であり砂漠のオアシスとも呼べる至高の制度である。

本来の労働日を休みとしながらも給与が一切減額されることなく支給されるという夢のような仕組みであり、世間一般においては計画的に消化されるべき当たり前の権利として機能しているらしい。

  

…しかしメタ子が勤めるこの会社においてその"有給"という二文字は完全な都市伝説と化していた。

制度としては存在しているものの、実際にそれを申請し承認を勝ち取った者の姿をメタ子は入社以来ただの一度も目撃したことがない。

在籍年数の長い先輩社員たちですら一度も恩恵に預かったことはないと言い伝えられており、その単語を口にすること自体が一種のタブーとして扱われていた。

 

だがその日の朝、タブーを犯す者が現れた。

 

「…行ってきます」

 

「ちょ、ちょっと待ってメタ子ちゃん!本当に言っちゃうの!?」


「そうですよメタ子さん!」


自席から立ち上がったメタ子の袖を佐藤と鈴木か慌てて止めようとする。


「あの課長に有給申請なんてライオンの檻の中に肉を持って飛び込むようなものよ!絶対説教を食らうに決まってるわ!」

 

「うぅ…十六夜先輩無茶です……!」

 

「せ、先輩……!去年別の部署から異動してきた人がうっかり有給の話を切り出した翌週から謎の倉庫整理の担当に回されてそのまま姿を消したっていう噂聞いてないんですか!?」

 

「皆さんご心配をおかけして申し訳ありません、ですが…」

 

メタ子は周りの同僚達を見ながら静かに首を横に振る。


「私の我慢もすでに限界なのです」

 

「げ、限界って……?」

 

「ここ数週間連日の深夜残業に次ぐ早朝出勤、更には休日すらも仕事の連絡で削り取られてきました。そして何より──」

 

彼女の脳裏にはいつしかに再会したガブリエルのあっけらかんとした笑顔がよぎった。

 

『しばらく地上でバカンスかな〜』

 

地上の競馬場で馬券を握りしめていたあの駄目天使の言葉がメタ子の胸の奥底に眠っていた"休みたい"という欲求に火をつけてしまったのだ。

 

「私は休みたいのです…週に一度あるかないかの儚い公休ではなく平日のど真ん中に……世間が働いている時間帯に堂々と布団の中で惰眠を貪りたいのです……!」

 

「メタ子ちゃん目が完全に据わってるよ……」

 

「もしこれで怒鳴られようが倉庫整理に回されようが構いません、むしろ倉庫で一人黙々と作業する方が天国かもしれませんからね」

 

もはや失うものなど何もない、死兵と化した社畜の背中には誰にも止められない凄絶なオーラが立ち昇っていた。

 

「では行ってまいります」

 

「あ、ああメタ子ちゃん…!」

 

「無事を祈ってるよ…!」

 

同僚や後輩達が泣き出しそうな程の見送りをする中、メタ子は力強く課長のデスクへと向かって歩みを進めた。

件の課長は自席で眉間に深い皺を寄せながらパソコンの画面を睨みつけている、そんな彼にメタ子は深く息を吸い込んでから口を開いた。

 

「課長…お忙しいところ恐れ入ります、少々お話があるのですが」

 

「あぁ?なんだメタ子、今立て込んでんだけど?手短に言えよ」

 

「あの……私事ではございますが、有給休暇の取得を申請したく存じます」

 

課長が動かしていたマウスのクリック音が完全に止まった。

フロア全体の空気が一瞬にして氷点下まで凍結したかのように張り詰める、周囲の社員達がキーボードを叩く音すらも消え失せオフィス中に不気味な静寂が降り立った。

 

課長は微動だにしない。

 

一秒、二秒、三秒──、何も起こらない。

 

メタ子がぎゅっと目を瞑り来るであろうに備えて身構えた……次の瞬間だった。


カチ、カチ、カタカタッ…

課長の指先が何事もなかったかのように再びマウスとキーボードの上で動き始める、そして画面を見つめたまま拍子抜けするほどの声で告げた。

 

「おーわかった、確認しとく」

 

「………え?」

 

…………まさかの了承。

用意していた反論の言葉も労働基準法を盾にした交渉のシミュレーションも全てが空振りに終わってしまった。

聞き耳を立てていた他の社員も皆驚愕しているのがわかる。

 

「あ、あの課長?今なんと……?」

 

「だから有給だろ?わかったって言ったんだよ、耳遠いのかお前?」

 

「いえ、あの…本当によろしいのですか?」

 

「なんだよ自分で言い出しといて。で、いつだ?」

 

「えっ、あ、ええと…ら、来週の水曜日をお願いできればと……」

 

「来週の水曜な、なら勤怠システムの方で申請出しとけ、後で承認押しとくから…ほら用が済んだなら自分の席に戻れ」

 

「は、はい……!ありがとうございます…っ!」

 

メタ子はその言葉に慌てて頭を下げ自分のデスクへと引き返していく。

怒鳴られなかった、それどころか嫌味の一つすら言われずものの三十秒足らずで承認されてしまったのだ。

 

メタ子が自席に腰を下ろすなり周囲が一斉に騒ぎ始める。

 

「ちょっとメタ子ちゃん!今の聞こえてたけど本当に通ったの!?」

 

「ど、どうしてだろう…課長今日なんか変なものでも拾い食いしたのかな……?」

 

「十六夜先輩すごいです……!歴史的瞬間を目撃してしまいました!」

 

「信じられない…この会社で有給が通るなんて、明日は槍でも降るんじゃないのか……」

 

あまりにもあっけなさすぎてまったく実感が湧いてこない、まさか何かの罠なのではないか?実は来週の水曜日までに会社が倒産するのではないか?……そんな疑念が頭の中をぐるぐると渦巻きつつも結局その日一日メタ子はどこかぼんやりとした感覚のまま業務こなすことになったのだった。

   


そして翌週の水曜日…。

 

「…………」

 

現在メタ子の自室には信じがたいほどの静寂が満ちていた。

彼女は布団に首まですっぽりと包まりながらただじっと白い天井の木目を見上げている。

枕元に置かれたスマートフォンの画面を横目でちらりと確認するとそこに表示された時刻は『13:15』、そして曜日の表示は紛れもなく『水曜日』だった。

 

「……信じられません」


いつもであれば昼休みが終わって午後の業務が始まり、鳴り響く電話のベルと課長の怒声に追い立てられながらキーボードを叩いているはずの時間帯だ。

それなのに今、自分はパジャマを着てこうしてベッドの上に横たわっている。

おまけにスマートフォンの通知欄には会社からの着信も催促のメッセージも一件たりとも届いていないのだ……

 

「本当にお休みなのですね、今日……」

 

どれだけ目を擦っても途端に景色がオフィスの蛍光灯に切り替わることはない、百パーセントの現実。

あまりにも異常であまりにも幸福な事態にメタ子の頭は突拍子もない仮説を生み出し始めていた。

 

(まさかあの課長は実は本物ではなかったのでは?)

 

いつの間にか地球外生命体か何かに体を乗っ取られ人格が別人に書き換えられてしまったのではないか。

それか自分が意識を失っている間にこの人間界に大変動が起き、別の世界線に迷い込んでしまったのではないか。


そんなよくわからない事を考えながらカーテンを見つめると、その隙間から穏やかな日差しが差し込んでいるのが見えた。

この世界にはこんなにも穏やかで優しい時間が流れていたのかと胸の奥がじんわりと温かくなる。

 

「まさかこんな日が本当に来るなんて……」


するとこれまで頑なに凝り固まっていたメタ子の心の中に、ある一つの反省めいた感情が芽生え始めた。

 

(……もしかしたら…もしかしたらこの世界もあの会社も、私が思っていたほど救いようのない悪い場所ではないのかもしれません)

 

確かにこれまでは地獄と呼ぶほかない日々が続いていた。

だがそれはたまたま繁忙期や大きな案件が重なっていただけであり、その強烈すぎる記憶のせいで全てに対して被害妄想的に悪く捉えてしまっていただけなのではないか?

事実、勇気を出して「休みたい」と声を上げてみれば課長は一言も文句を言わずに有給を認めてくれたのだ、言えば分かってくれる話の通じる上司だったのかもしれない。

 

「そうです……きっとそういうことだったのでしょう、私が勝手に怯えていただけなのですね…」

 

そう結論づけた瞬間、メタ子の胸の中につかえていたものが音を立てて溶けて消えていくような気がした。

 

「ふふ、素晴らしいです……であれば心ゆくまで堪能することにしましょう!」

 

掛け布団を勢いよくベッドから立ち上がる。

それからは先日買っておいた焼き菓子の残りを皿に並べてゆっくりと味わい、撮り溜めていたテレビ番組を眺め、夕方には少し早めに買い物を済ませていく。

 

誰にも邪魔されない完璧な時間…その甘美な一日を最後の最後まで味わい尽くしたのだった。

    


───そして翌日。

 

「おはようございます皆さん!」

 

オフィスの扉を開けて入ってきたのはメタ子だった。

たっぷりと睡眠を取り心身ともにリフレッシュされた彼女の顔からはいつもの青クマが綺麗に消え去っており、肌には艶やかな血色が戻っている。


「お、おはようメタ子ちゃん…なんだか今日はすごいキラキラしているわね」

 

「おはようございます佐藤さん!はい、昨日は休ませていただきましたから!」

 

「本当にゆっくり過ごせたんだね、よかったよ……」

 

メタ子は今にも歌い出しそうな程軽快な足取りで自席へと向かうと清々しい気持ちで背筋を伸ばした……ちょうどその時だった。

 

「おー、メタ子来たか!」

 

フロアの奥から上機嫌な声を張り上げながら課長が歩み寄ってきた。

 

「どうだ、昨日は休めたか?」

 

「はい課長!おかげさまで、お気遣いいただき本当にありがとうございました!」

 

「そうかそうか!いやぁ実は前から色々と考えてたんだよ、お前にはいつも重要な仕事を優先して振ってやってるだろ?だがここ最近のお前を見てるとなんだか仕事のキレも悪いし作業ペースも微妙に落ちてる様に見えてな」

 

「あ…え、ええまあ疲労が溜まっていたと言いますか……」

 

「だよな!だから俺もどうしたもんかと頭を悩ませてたんだが、そんな時お前の方から『休みたい』って提案をしてくれたわけだ!」

 

課長は手に持っていたコーヒーを一口啜ると会心の笑みを深めた。

 

「で、試しに一日休ませてみていざ今日お前の顔を見てみたらどうだ!すっかり元気になったじゃないか!」

 

「は、はあ…おかげさまで……」

 

メタ子の返事のトーンがだんだんと下がっていき、背筋のあたりになぜかひやりとした冷たい悪寒が走り始めた。

 

「いやぁ今回で俺も一つ勉強になったよ、やっぱり馬車馬みたいにずっと走らせ続けるよりもたまにはこうして少しでも休みを与えてやった方が良いんだな!」

 

「……は、はい?」

 

「考えてみりゃ簡単な理屈だよな、一日しっかり休めば溜まってた疲れがゼロになるだけじゃなく、その分普段の倍以上の活力を得る!要するに一日休んだ人間は翌日から二倍、三倍のスピードで働けるようになるってことだ!な、そういうことだろメタ子!?」

 

「え、いや…」

 

倍以上の活力を得る、一日休んだら二倍三倍のスピードで働ける……一体どこから導き出された計算式なのか。

 

「という訳でだ!その休んで蓄えた有り余る活力を是非とも今日からの仕事に存分に当ててくれ!」

 

バサッと何かの紙がメタ子のデスクの上に広げられた。

 

「お前が休んでる間に俺の方で今後の仕事の内訳とスケジュールを新しく考え直しておいてやったぞ!それじゃ、頼んだぞー!」

 

そう言って課長はメタ子の肩をバシッと叩くと爽やかな足取りで自分の席へと去っていった。

 

「…………」

 

静まり返ったデスクの前でメタ子はゆっくりと視線を落とし、机の上に置かれた一枚の紙を覗き込んだ。

 

『未処理分データ入力および照合』

 

『新規クライアント3社分の提案書ドラフト作成(本日17時まで)』

 

『来月度プロモーション予算の再試算およびグラフ化』

 

『営業部全体の四半期実績レポート集計(来週月曜から前倒し、明日朝イチ提出)』

 

昨日休んだ分のしわ寄せがそのまま丸ごと残されているどころか来週分のタスクの前倒しされ詰め込まれていた。


完全なる死のロードマップ。

 

「……メタ子ちゃん…?」


メタ子は紙を見つめたままピクリとも動かない。

あの美しく温かい改心の記憶が頭の中で粉々に砕け散っていく音が聞こえた。

 

話せば分かる上司?

そこまで悪くない世界?

全ては獲物を太らせてから一気に狩り取る為の撒き餌に過ぎなかったのだ。

 

先程までの笑顔が急速に抜け落ちいつもの虚無を湛えた社畜の目が戻ってくる。

そして彼女は誰にも聞こえないように魂の底から静かに呟いた。


「…………この世界は紛れもない地獄です」

 

有給という名の甘美な罠の代償をその身に背負い、メタ子は終わりなきキーボード乱打戦へと両手を構えたのだった。

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