メタ子、天界の同僚と再会する。
平日の昼過ぎ。
他の会社員達が束の間の解放感を味わおうと足早に定食屋やカフェへと向かう中、メタ子は一人コンビニの袋を片手にトボトボと歩いていた。
「はぁ....私の貴重な昼休みが…」
袋に入っているのはメタ子自身の昼食ではない…僅かばかりの昼休みとなった直後、課長から『ちょっとコンビニ行って俺の昼飯買ってこい』と無慈悲に命じられたものだった。
おまけにその注文もいちいち細かく間違えたら許さんとお叱りまで受けてしまう始末…自分の足で行けば済むものをなぜ部下の休憩時間を潰してまで買いに行かせるのか、おまけにお金も渡されずメタ子が一時的に立て替えている状態だった。
「もしこのまま課長が精算を忘れたらどれだけの損失になると思っているのでしょうか.…いえ、きっと明日の朝には綺麗さっぱり忘れてるでしょうね……」
誰にも聞かれない文句をぶつぶつと呟きながら信号待ちの交差点の手前に差し掛かった──その時。
「あー!メタメタ〜!」
背後からやけに明るく間の抜けた声が飛んできた。
「…え?」
メタメタ、そんな奇妙なあだ名で自分を呼ぶ者などメタ子の会社はおろかこの地上には一人も存在しない。
だがメタ子はそう呼ぶ存在を知っている、聞き間違いかと思いながらも後ろを振り返った瞬間...彼女の思考は完全に停止した。
「いや〜やっぱりメタメタだ!久しぶりだね〜元気にしてた?」
ひらひらと手を振りながら小走りで駆け寄ってきたのは動きやすそうなデニムジャケットにスニーカーというラフな格好に身を包んだ一人の女性。
一見ただの一般人にしか見えないその人物を見てメタ子は思わず袋を落としかけながら口を開いた。
「が、ガブリエル!?何故あなたがここにいるのですか!?」
「しーっメタメタ声が大きいよ、ここでは一応『ガブ子』って名前で通してるんだからさ」
「名前の問題ではありません!それより本当にどうして人間界に!?天界の業務はどうしたのですか!?」
混乱のあまり矢継ぎ早にまくし立てるメタ子に対し、ガブリエルと呼ばれた女性はあっけらかんとした表情で答えた。
「ん?ああそういえばメタメタには言ってなかったっけ?実はさ、最近は結構こっちに遊びに来てたんだよ〜」
「あ、遊びに?」
「そうそう仕事の息抜き?ってやつ。ほら、天界の業務ってずっとだから疲れるでしょ?それに最近は何も問題起きてないし暇だったんだよね〜、だから部下には簡単な業務だけ押し付けて地上に休みに来てたって訳!」
そう言ってガブリエルは気持ちよさそうに欠伸をした。
息抜き、遊び…今のメタ子の辞書から完全に抹消された甘美な単語の数々が目の前の同僚の口からポンポンと飛び出してくる。
「そ、そうですか…それは素晴らしいですね……」
「そっちは確か人間界の社会勉強だっけ?なんだか見るからに大変そうだね〜」
「まあそうですね……人間の社会の仕組みをそれはもう骨の髄までたっぷりと学ばせていただいておりますよ…ところであなたは普段は一体何をしているのですか?」
「ん〜?最初は名所巡りとかもしてたんだけどさ、最近はもうすっごく楽しい趣味にドハマりしちゃって!もう頭の中ではずっとそればっかり!」
「すっごく楽しい趣味ですか……?」
天界にいた頃の彼女といえば真面目なメタ子とは対照的に、いつもどこかマイペースで掴みどころのない性格ではあったが、ここまで何かにのめり込むタイプではなかったはずだ。
その彼女が毎日そればっかりと語るほどの娯楽がこの人間界にあったというのだろうか。
「そうだ!今度メタメタも一緒に行かない?一人でやるのも楽しいけどメタメタと一緒なら絶対もっと盛り上がるよ!ね、休みの日いつ?」
「えっ、私ですか!?いえ、その…私の勤めている会社は休みが必ずカレンダー通りに取れるとは限らないと言いますか……」
「え〜なにそれブラックじゃん、じゃあ直近で休めそうな日は?」
「…一応大きなトラブルさえ起きなければ今週の日曜日は公休の予定ですが…」
「よし、じゃあ今週の日曜日で決まりね!はいスマホ出して!連絡先交換しよう!」
ガブリエルは有無を言わさぬ勢いでポケットからスマホを取り出すとあっという間にメタ子と連絡先を交換していく。
「よしバッチリ!じゃあ日曜日の朝十時に駅前で待ち合わせね!詳細はまた連絡するから!」
「あ、はいわかりました…もし急な出勤が入った場合はご連絡しますね」
「そんなの気合で断りなよ〜!それじゃ午後もお仕事頑張ってね〜!」
ガブリエルは笑って手を振ると踵を返して横断歩道の方へと歩き出した。
「ええ、また日曜日に……」
メタ子が小さく手を振り返しその後ろ姿を見送っていた……まさにその瞬間。
昨晩降った雨の名残か、車道の路肩のくぼみに茶色く濁った大きな水たまりが残っていたのだが、そこへ猛スピードで走ってきた一台のトラックが減速することなく突っ込んできた。
そしてバシャァァァッ!!という凄まじい水音が響き渡り泥水が宙を舞うと同時にその全てがガブリエルの頭上から綺麗に降り注いだ。
「えっ!?が、ガブリエル!?大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄るメタ子だったが、当のガブリエルは髪や服が泥だらけとなってしまっている。
ところが彼女はポケットからハンカチを取り出すと顔を軽く拭うだけでケロッとした笑顔を見せた。
「あはは、びっくりした〜!大丈夫大丈夫こんなのいつものことだから!」
「い、いつものことって…全身ずぶ濡れではありませんか!」
「すぐ乾くから本当に大丈夫だって!じゃあねメタメタ、日曜日楽しみにしてるよ〜!」
それだけ言い残しガブリエルは自身の状態を気にすることもなく水音を鳴らしながら雑踏の向こうへと去っていってしまった。
「…相変わらず嵐のような人ですね……」
そして手元の時計を見上げ昼休みの残り時間が十五分を切っていることに気づいたメタ子は顔面を蒼白にして慌ててオフィスへと猛ダッシュしたのだった。
それから数日後の日曜日。
幸いなことに休日出勤の命令は下されず、その日メタ子は指定された駅前に立っていた。
休日に誰かと待ち合わせをする……人間界に降り立ってからそんな経験など一度も無かったメタ子にとっては新鮮な時間。
「いつもならまだ惰眠を貪っている時間ですが…たまにはこうして過ごすというのも人間らしくて悪くありませんね」
周囲を見渡せば同じように待ち合わせをしているカップルや友人同士のグループが楽しそうに会話を交わしている姿が見える。
いったいガブリエルが言っていたすっごく楽しい趣味とは何なのか?少しだけ期待に胸を膨らませていたその時、ロータリーの向こうから聞き覚えのある声が響いてきた。
「お〜いメタメタ〜!お待たせ〜!」
「あ、ガブリエル。おはようございま──」
笑顔で振り返ったメタ子だったが、視界に飛び込んできた彼女の姿を見てその場で凍りつく。
何故ならガブリエルが着ている白いパーカーの腹から裾にかけて見事なまでに黒々とした泥の跳ね返りがべったりと付着していたのだ。
更には肩から下げたトートバッグは何かで引っ掻いたように端がほつれ、髪に至ってはバケツの水を頭から被った直後のようにびしょびしょに濡れていた。
「何があったのですか!?事件にでも巻き込まれたのですか!?」
「いや〜ここに来る途中の公園を歩いてたらさ、急にスプリンクラーが故障して水が噴き出してきて、それを避けようとしたら花壇のぬかるみに足を取られて一回転しちゃってさ!いつものことだよいつものこと!」
「どう考えても異常事態でしょう!先日の水たまりといいさすがに運が悪すぎるのではありませんか!?」
「細かいことは気にしないの!ほら、そんなことより早く行こう!第一レースに間に合わなくなっちゃう!」
「だ、第一レース……?」
不穏な単語にメタ子が眉をひそめる間もなくガブリエルはメタ子の手首を掴み改札口の方へ引っ張っていく。
「あのガブリエル、一体どこへ行くつもりなのですか?とりあえずまずはその服を着替えるか乾かすかした方が……」
「移動してる間に乾くから平気だって!行き先は着いてからのお楽しみ!メタメタも絶対感動するからさ!」
結局何も話す気は無いらしく、メタ子は一抹の不安を覚えながらもその勢いに押されるまま電車へと乗り込んだ。
そうして電車を乗り継ぎさらに専用のシャトルバスに揺られること三十分あまり………バスを降りた大勢の乗客の流れに乗って暫く進んだ辺りでガブリエルが突然両手を広げ叫んだ。
「さあメタメタ!ここが地上の楽園だよ!」
メタ子はゆっくりと視線を上げ目の前に聳え立つ巨大な建造物とその入り口に掲げられた看板の文字を見つめ、そのまま固まった。
「け、競馬場…?」
「そう!競馬場!」
何と目の前に広がっていたのは巨大なスタジアムのような施設だった。
(…まさか)
メタ子の脳裏を数日前のガブリエルの言葉が駆け巡る。
『最近はもうすっごく楽しい趣味にドハマりしちゃって!もう毎日ずっとそればっかり!』
(いつもやっていると言っていた趣味というのは賭け事だったのですか!?)
天界に仕える天使がわざわざ地上に降り立ち連日連夜のめり込んでいた趣味がまさかの公営ギャンブル………あまりの衝撃にメタ子が困惑しているとガブリエルは慣れた手つきで入場券を二枚購入していた。
「ほらメタメタ、突っ立ってないで入るよ!」
「あ、ちょっとガブリエル!」
入場ゲートを抜け場内へと足を踏み入れると、そこはメタ子がこれまで見てきた場所とは異なる独特の熱気と喧騒に満ちた異空間だった。
床には丸められたマークシートや外れ馬券が散乱し、あちこちの柱に設置されたモニターの前には多くの人だかりができている。
「よし…まずはパドックとオッズの確認からだね」
ガブリエルは鞄から分厚い競馬新聞と赤ペン、更にはスマホを取り出すと近くのテーブルに陣取り猛烈な勢いで紙面を睨みつけ始めた。
その横顔は天界で仕事をしている時よりも百倍は真剣で、まるで別人の様なオーラを放っている。
「……今日の芝は昨日の雨で稍重…内枠の逃げ馬には厳しい展開になるはず……なら外から差してくるこの七番か、あるいは重馬場が得意な十二番を軸にして……」
「あ、あの、ガブリエル……?」
「…………」
「ガブリエル?もしもーし?」
「……んーでも騎手との相性を考えると三番も捨てがたい…いやここは手堅く三連複で流すか、それとも三連単で勝負に出るか……」
ガブリエルは完全に自分の世界に入り込んでおり、今やメタ子の声など一切耳に届いていない。
メタ子も全くついていけずただ他の客の邪魔にならない様隅の方で立ち尽くすしか出来なかった。
「よし決まった!これなら絶対当たる!」
やがて意気揚々とガブリエルは財布からお金を投入し、発見された馬券を大事そうに握りながら戻ってきた。
「ふふふ…仕込みは完了!ねえメタメタもせっかく来たんだから買ってみれば?ビギナーズラックってこともあるし!」
「いえ私は遠慮しておきます……ルールも全く分かりませんし、汗水垂らして稼いだお金を一瞬で紙切れにする勇気はありませんので……」
「つれないな〜まあいいや、私が大勝ちしたら帰りに何でも奢ってあげるからね!」
ガブリエルはそう言って胸を張りながらメタ子を連れてコースを見渡せる屋外のスタンド席へと飛び出していった。
そしてちょうどその時場内には軽快で勇壮なトランペットのファンファーレが鳴り響いた。
メタ子が周囲を見渡すとそこにいる何千人もの客全員が食い入るような眼差しでコースのスタートゲートと正面の巨大な液晶ビジョンを見つめているのが見える。
そして隣に座るガブリエルもまた祈る様に手を重ねゲートを凝視していた。
ガシャンッ!
重々しい金属音とともにゲートが一斉に開き十数頭の馬達が飛び出していく。
「いけーっ!そのまま続けー!!!」
「なんだそのスタートは!出遅れるなバカヤロー!」
「いいぞ七番!!」
地鳴りのような怒号と歓声がスタンド全体を激しく揺さぶり、そのあまりにむき出しの欲望と情熱の奔流にメタ子は気圧され呆然としていた。
「いけぇぇっ!七番!そこだ!!!外から抜け出せぇぇぇっ!!!差せ!差せぇぇぇぇっ!!!」
周りに負けないほどの声を上げ顔を真っ赤にしながら馬券を振り回しているガブリエル……そんな彼女をメタ子は遠い目で見つめるしかなかった。
もはや天使の威厳も神聖さも塵一つ残っていない、彼女はもはやただのギャンブルに狂った浪費家である。
「あーっ!ちょっと待って!何あの馬!?聞いてないよそんな人気薄!止まれ!七番!七番が!!!あ、あああああー!?」
ガブリエルの悲痛な絶叫を置き去りにして馬群が一塊となってゴール板を駆け抜けていく。
直後、場内のあちこちから歓喜の咆哮とそれ以上の深い絶望の叫びが同時に立ち上ったのだった。
───数時間後。
競馬場から少し離れた駅前の喫茶店にて、メタ子は向かいに座る同僚の姿を冷めた目で見つめていた。
「…うぅ、あそこで前が壁にならなければ……」
テーブルに顔を突っ伏し魂の抜けたような呻き声を漏らしているガブリエル……彼女はあの第一レースの後「次で取り返す!」「今度こそいけるから!」と息巻いて最終レースまで馬券を買い続けた結果、見事なまでの大敗北を喫していた。
「もう少し早く外に持ち出していれば…そもそもあのタイミングで後ろからきた馬が計算外だったんだよ……最終レースもパドックで一番よく見えた馬がスタート直後に躓くなんて誰が予想できるっていうのさ……」
ガブリエルは未だに虚ろな目で天井を見つめながら延々と敗因の言い訳をぶつぶつと繰り返している。
そんな彼女に対してメタ子はお冷を一口飲みながら静かに口を開いた。
「……あの、ガブリエル」
「なに、メタメタ…」
「今日一日、あなたの行動を横で拝見していて一つ確信したことがあるのですが」
「……なにさ」
「もしかしてあなた……とんでもなく、致命的なまでに『運が悪い』のではないですか?」
先日車の水たまりを全身に浴びたこと。
今朝故障したスプリンクラーと花壇のぬかるみのコンボで泥だらけになったこと。
そして自分が買った馬だけがことごとく不利を受けたり躓いたりして惨敗していく今日のレース結果………どう考えても幸運の女神から全力で背中を向けられているとしか思えない。
しかしメタ子の指摘に対しガブリエルはガバッと上半身を起こして反論する。
「そ、そんなことないよ!今日のはたまたま!たまたま運気の巡りがちょっとだけズレてただけだから!」
「たまたまですか……ちなみに今日までトータルで勝った記録はどのくらいあるのですか?」
「…………」
「…ガブリエル?今まで何回くらい当たったのですか?」
「……い、いいんだよ細かいことは!これまでの負けは全ていつか一発デカい万馬券を当てて大逆転するための壮大な準備期間なんだから!」
「つまり一勝もしていないということですね」
「じゅ、準備期間だって言ってるでしょー!」
メタ子に詰められ涙目で机を叩くガブリエル、要するに天界から持ってきたであろう活動資金をただひたすらに公営競技場へと寄付し続けているだけのカモだったというわけだ。
あまりの救いようのなさにメタ子が頭を抱えていると店員がお盆を持ってテーブルへとやってくる。
「お待たせいたしました、ブレンドコーヒーがお二つと特製パンケーキでございます」
それはガブリエルが店に入るなり「甘いもの食べないとやってられない!」と注文したものだった。
「わぁ、美味しそう!」
目の前のパンケーキを見たガブリエルは一瞬で機嫌を直したように目を輝かせる、しかしフォークを手に取った直後彼女は動きを止め恐る恐る上目遣いでメタ子を見つめてきた。
「……ねえメタメタ〜」
「…嫌な予感がしますが何でしょうか」
「さっきの最終レースで財布の中のお札が全部綺麗な紙飛行機になって飛んでいっちゃったんだよね……」
「…………」
「だから、その…私が奢る件はまた今度にするとして……今日のこの喫茶店代メタメタが奢ってくれないかなぁなんて……えへ」
そう言いながら両手を顔の前で合わせ引きつった愛想笑いを浮かべる天界の同僚……休日にわざわざ呼び出され騒がしい鉄火場を引きずり回された挙句、最後には飲食代までたかられる。
「はぁぁぁぁ……」
メタ子は静かに目を閉じ今日何度目かになるかわからない深い溜息を吐き出した。
「……今回だけですよ」
「メタメタありがとう!持つべきものは優しい親友だね! いただきまーす!」
それから嬉しそうにパンケーキを頬張り始めたガブリエルを眺めながらメタ子は自分の分のコーヒーを一口啜った。
……苦い。
あの課長に振り回される日々と駄目な同僚に振り回される休日…一体どちらがマシなのかと真剣に悩みながらメタ子の騒がしい時間はゆっくりと更けていくのだった。




