メタ子、同じ部屋で悪魔と過ごす。
ゴォォォォォッ!───、
「…………」
現在メタ子が見つめる窓ガラスには、今にも砕け散るのではないかというほどの衝撃音と共に大粒の雨が叩きつけられていた。
「凄い勢いですね…明日までに治ってくれるといいのですが……」
空はまだ昼間だというのに黒ずんでおり、視界は白い雨のカーテンでほとんど遮られている。
テレビの気象情報では朝からアナウンサーが『不要不急の外出は控え安全な屋内で過ごしてください』と繰り返し呼びかけている程だった。
「今日が休日で本当に良かったです……」
もしも今日が出勤日だったなら一体どうなっていたか……想像するまでもない、あの課長が『台風だから休んでいいぞ』などと慈悲深い言葉をかけるはずがないのだ。
『何が何でも来い!』『傘が折れたらカッパを着て走れ!』『自然災害に負けるような気合で営業が務まるか!』
そんな狂気の沙汰としか思えないメッセージが飛び交い冷え切った部屋で唇を震わせながらキーボードを叩く羽目になっていただろう。
「うちの会社には天候という概念が存在しませんからね……今日が休みであることをこれほど神に感謝した日はありません」
自分が神に仕える身であることは棚に上げメタ子はぬくぬくと乾いた部屋着の袖を揺らして微笑んだ。
一応食料は昨日のうちに買い込んであるし一歩も外に出る必要はない、このまま嵐が過ぎ去るまで布団の中でゴロゴロするかテレビを見て過ごすかすればいい筈だ。
そんなのんびりとした計画を頭の中で描いていたその時、
──コン、コン……
暴風の唸り声に混じって玄関の方から控えめなノック音が響いてきた。
「……?」
こんな猛烈な台風の中一体誰が訪ねてきたというのか、不審に思いながらも玄関へと向かいドアチェーンをかけたまま少しだけ扉を開けた。
「はい、どなたでしょうか…って、あもんさん?」
外廊下に吹き込む風雨を避ける様に小さく縮こまって立っていたのは隣人のあもんだった。
彼女の顔色はやけに青白く瞳は不安げに揺れている……
「あ、あのメタ子様…っ!お休みの日に本当にすみません……!」
「どうしたのですか?こんな時に外廊下になんて出て」
「あの、その…か、風と雨の音があんまりにも凄くて…怖くなってしまって……」
「……怖くですか?」
「はい……ひ、一人でいるのがどうしても不安で…」
ガタガタと小刻みに震えながら訴えるあもんの姿を見て、メタ子は一瞬目を丸くさせた。
(…まさか悪魔が台風を怖がるのですか?)
目の前にいる少女の正体は仮にも悪魔である。
地獄や魔界といえば業火が吹き荒れ雷鳴が轟き、血の雨が降るような過酷極まりない環境のはずだ。
そんな世界の住人がたかが人間界の低気圧と風雨ごときでここまで怯えきっているとはどういうことなのか。
メタ子の顔に浮かんだ疑問を察したのかあもんは顔を赤くして俯きながらもごもごと弁解を始めた。
「あ、あの……悪魔なのに情けないって思われましたよね……で、でも私魔界にいた頃もずっと隅っこに引きこもっていまして…拷問の部署とか怖い先輩たちの仕事場は近づかないように生きてきたんです……」
「…ああ、なるほど」
「こんな凄い風を体験するのも生まれて初めてで……テレビをつけたら『これまでに経験したことのない暴風』とか怖いことばかり言うし、心細くなってしまって……」
そう呟き更に縮こまるあもん。
言われてみれば彼女は『悪魔としての才能がなくて人間界に島流しにされた落ちこぼれ』だったのだ、彼女の言う通り荒々しい現象や暴力的な環境とは無縁のままひっそりと暮らしていたのだろう。
そんな彼女からすれば、このマンションを揺らす大型台風など未曽有の恐怖に違いない。
「事情は分かりました、とりあえずそんなところに立っていたら風邪を引きますから……台風が落ち着くまでしばらく私の部屋にいますか?」
「えっ!?い、いいんですか!?ご迷惑じゃありませんか!?」
「一人で震えているよりはマシでしょう、どうぞ入ってください」
「あ、ありがとうございます……!」
あもんの顔がパッと明るく輝き彼女は脱兎のごとく玄関の中へと滑り込んできた。
そうしてメタ子はあもんを居間へと案内しローテーブルの向かい側に座布団を敷いて座らせる。
「どうぞ、ただのお茶ですが」
「ありがとうございます、いただきます……!」
あもんは何度も頭を下げながら湯呑みを包み込みふぅふぅと息を吹きかけながら一口啜った。
メタ子もその向かい側に腰を下ろし自分のマグカップを手に取る。
そして───。
「…………」
「…………」
部屋の中には妙に張り詰めた沈黙が降り立った。
(……さて、勢いで部屋に入れてしまいましたがどうしましょうか)
彼女が隣の部屋に引っ越してきてからというものの、廊下で顔を合わせて挨拶を交わしたり、お裾分けをもらったり、深夜のコンビニで客と店員として言葉を交わしたりすることは何度かあった。
しかしこうして部屋の中で二人きりで過ごすのはこれが初めてのことだったのだ。
メタ子の視線の先では相変わらずあもんが背筋をピンと伸ばしたまま完全に固まっている姿が見える、彼女自身もどうしたらいいのか悩んでいるのか目が激しく泳いでいた。
(……何か話題を振った方がいいのでしょうか、とは言え私も会社では業務連絡か愚痴くらいしか会話をしていませんし……)
雑談のスキルが著しく退化している社畜の頭脳が適切なトークテーマを探して空転を始める。
そんな息の詰まるような沈黙に耐えかねたのか先に口を開いたのはあもんの方だった。
「あ、あのっメタ子様!」
「はい、何でしょうか」
「め、メタ子様の好きな食べ物って何ですか!?」
「…え?」
唐突すぎる質問にメタ子は思わず瞬きをする、だがせっかく相手が振ってくれた話題を無下にするわけにもいかない。
「そうですね……やはり唐揚げなどでしょうか、ビールと一緒にいただくお料理なら基本的に何でも好きですよ」
「そ、そうなんですね!」
メタ子の答えにあもんは大きく頷き……そのまま再び石像のように固まった。
「…………」
「…………」
会話が終わった。
掘り下げるでもなくただ一問一答が完了しただけで気まずい静寂が部屋を支配する。
それから数秒後あもんが焦ったように再び口を開いた。
「え、ええとじゃあ……ご、ご趣味はなんですか!?」
「いや、どうしてお見合い風になっているんですか」
メタ子は思わず半眼になってツッコミを入れる。
「ひゃっ!?す、すみません!何を話せばいいか分からなくなってしまって……!ええと、ええと…きょ、今日はいい天気ですね!」
「悪天候ですけどね」
窓ガラスには今も豪雨が叩きつけられている、どう贔屓目に見てもいい天気とは対極にある空模様だった。
あもんは見る見るうちに肩を落としテーブルの上に突っ伏すように丸くなってしまう。
「うぅ、す、すみません……私こういうプライベートな空間で天使様とちゃんとお話したことなんて一度もなくて……」
「まあそうですね…私だって悪魔の方を自分の部屋に招いて話すなんて初めての経験ですから」
メタ子は苦笑いを浮かべながら肩をすくめた。
本来の立場を考えればこうして向かい合って話す事自体が奇跡のような事態なのだ、緊張するなという方が無理がある。
しかし台風が治るまでこのぎこちない空気のまま過ごすのはお互いにとって居心地が悪すぎる。
「……あもんさん、天界だの魔界だのということは一旦忘れてとりあえずお互いの仕事の話でもしますか?」
「……え?お、お仕事の話ですか?」
「はい、考えてみれば今のこの世界での私とあもんさんの共通話題といえば働くことくらいですからね。あもんさん、コンビニのアルバイトを始めてから少し経ちましたがもう慣れましたか?」
「あ…バイト、ですか?」
馴染みのある話題を振られたことであもんの肩からすっと余計な力が抜けたのか、少しずつ語り始めた。
「はい、最初の頃に比べればだいぶ慣れました……!レジの打ち間違いもなくなりましたし、おでんの仕込みとか、ホットスナックの揚げ方も店長さんに褒めてもらえたんです…」
「それは素晴らしいですね」
「えへへ、ありがとうございます……あ、でもですね、深夜のコンビニって本当にいろんなお客さんが来るんです。夜中の三時頃にパジャマの上にコートだけ羽織ったおじいちゃんが来て、アイスクリームをまとめ買いしていったり…スーツを着たサラリーマンの人がレジの前で立ったまま半分寝てたり……」
「立ったまま寝ているサラリーマン…明日の我が身を見るようで胸が痛みますね……」
「メタ子様もいつもすごくお疲れの顔でいらっしゃいますもんね……」
「仕事の量などは大丈夫ですか?」
「は、はい!店長さんもいつも無理しないでって言ってくれてますし…!」
「私の会社とは雲泥の差ですね……うちは休めばその分仕事が倍に、それをやり切ればこなせると思われて更に倍に…こなせなかったら説教ですから」
「うわぁ…本当に大変そうです…」
「でしょう?私はいつもあの課長こそが本物の悪魔なのではないかと真剣に疑ってます」
「あはははっ!メタ子様の所の課長さんは魔界にスカウトしたらすぐに幹部になれそうですね…!」
「本当に今すぐ引き取っていただきたいくらいです……でもまあ上司はあれですが同僚や後輩達は本当に良い人たちばかりなのですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、私を含めて全員過酷な環境の中で必死に支え合って生きています、たまに彼らと一緒に居酒屋で飲むビールと唐揚げがあるからこそ私もなんとか正気を保っていられるのです」
メタ子が柔らかな表情で語るとあもんもつられたように温かな笑みを浮かべた。
そして一度言葉の堰が切れるとそこからはもう止まらなかった。
あもんがコンビニの品出しで重い飲料のケースを運ぶ苦労を語ればメタ子は複合機の紙詰まりと格闘する日常を語る。
あもんが新しいレジのキャンペーンの覚えにくさを愚痴ればメタ子はクライアントの専務の気まぐれな仕様変更の理不尽さを嘆く。
天使と悪魔という垣根などそこには完全に消え失せており、あるのはただ同じ現代社会という荒波の中で生きる為に汗を流して働く二人の労働者の姿だけだった。
やがてあもんの顔からは最初の青白さも緊張もすっかり消え去り、見た目に相応しい明るい笑顔が絶えずこぼれていたのだった。
「――それでですね、そのお客さんがポイントカードを五枚も出してきてどれが使えるか分からないって言うんですよ!」
「それはもしレジが混雑している時だったら冷や汗ものですね」
「そうなんです!もう焦っちゃって……あれ?」
楽しそうに話していたあもんだったが、ふと窓の方へと視線を向けるといつの間にか窓ガラスを叩きつけていた雨音がピタリと止んでいた。
メタ子が立ち上がってカーテンを開けてみると分厚い黒雲が東の空へと流れていき、雨上がりの澄んだ夕日が差し込んできている。
「すっかり晴れましたね…!」
「足の速い台風だったようですね、これならもう大丈夫でしょう」
「はい……!あっ、私こんなに長い時間お邪魔しちゃって……メタ子様のお休みを潰してしまってすみません!」
「とんでもありません、一人でテレビを見ているよりもずっと楽しい時間を過ごせましたよ」
「あ、ありがとうございます……あの、私そろそろ自分の部屋に戻りますね」
あもんはテーブルの上の湯呑みを丁寧に片付けてから玄関へと向かう。
ドアを開けると台風一過のひんやりとした新鮮な空気と、雨上がりの匂いが感じられた。
「メタ子様……今日は本当にありがとうございました!おかげで全然怖くなかったですし、すごく楽しかったです!」
「どういたしまして、またいつでもいらしてください」
「はい…!そうだ、今日のお礼に今度また何か作って持っていきますね!」
「ふふ、それは楽しみです。あまり無理はしないでくださいよ」
「はい!それじゃあまた!」
それからあもんは満面の笑みで手を振ると軽い足取りで隣の部屋へと入っていった。
「ふぅ……」
一人きりに戻った居間へと向かったメタ子はローテーブルのそばに座り込む。
……誰かを部屋に招きお茶を飲みながら仕事の愚痴や日常の出来事を語り合うなど、かつてのメタ子には想像もつかなかった過ごし方だ。
けれど不思議と疲れはまったくない、むしろ胸の奥がじんわりと温かな気分で満たされている。
「……まあ、たまにはこういう過ごし方もいいでしょう」
メタ子は小さく微笑みながらキッチンへと向かった。
「お腹も空いてきましたし夕食の準備にでも取り掛かりますか」
冷蔵庫を開け今夜の献立とそれ合わせる冷えたビールの銘柄を思案しながら、メタ子は穏やかな夕暮れをゆっくりと堪能するのだった。




