第35話「禁止漢字リスト」
王都の中心にそびえる白亜の王城。
軍務局長官執務室は息が詰まるほどに空気が乾燥し、埃一つ舞っていなかった。
チク、タク、チク、タク。
壁に掛けられた大きな振り子時計の冷たい秒針の音だけが、等間隔に部屋の空気を刻んでいく。
「君の持つ、その『文字』の技術のすべてを国家に委ねろ。そうすれば君に破格の待遇を約束する。……なぜサインしない?」
初老の軍務卿イザーク・ヴァンデミオンは、白手袋に包まれた指先で、机の上の辞令書を軽く叩いた。
アキルがペンの置かれた机に手を伸ばさないのを見て、イザークは感情の抜け落ちた爬虫類のような冷たい目のまま、机の引き出しから漆黒の分厚い革で装丁されたバインダーを取り出した。
ドスン、と重い物理音が黒檀の机に響く。
「君の懸念は理解できる。自分の生み出した技術が、単なる殺戮の道具として悪用されることを恐れているのだろう。我々も無軌道な破壊は望んでいない。だからこそ、これを用意した」
イザークはバインダーをアキルの前へ滑らせた。
分厚い革の表紙には、金色の箔押しで『標準魔法字制定案・付則』と無機質に刻まれている。
「開きたまえ」
アキルは泥だらけのブーツを踏みしめ、硬い革の表紙を開いた。
真新しい紙とインクの匂いが鼻をつく。
ページをめくった瞬間、アキルの目が限界まで見開かれた。
そこには、この世界で彼自身が前世の記憶から書き記してきた何百という漢字が、見開きごとに整然と印刷されていたのだ。
『水』『土』『光』といった、まだ学院の演習場でも見せていない文字の数々。
(……なぜ、これがここにある!?)
アキルは血の気が引くのを感じた。
これらの文字は、彼が学院から支給された分厚いノートに密かに書き溜め夜な夜な検証を続けていたものだ。
誰にも見せたことはない。
チク、タク。
冷たい時計の音が響く。
(……あの、一週間か……!)
野外演習場の激闘の後、学院側から強制された「絶対安静」という名目の入院治療。
外部との接触を一切断たれ、病室に軟禁されていたあの不自然な一週間の間に、軍部は彼が不在となった部屋へ侵入し、大切なメモの内容を根こそぎ盗み出していたのだ。
ページをめくるアキルの指先が小刻みに震える。
無断で盗用されただけではない。
その半分以上の文字の上に、血のように赤いインクで暴力的な「×」印が引かれていた。
めくっても、めくっても、赤い斜線の引かれた文字が続く。
「『禁止漢字リスト』だ」
イザークが抑揚のない声で告げる。
「君のノートを軍の解析魔法具にかけさせてもらったよ。君の論理構造は見事だった。だからこそ危険なのだ。『崩』『壊』『裂』といった直接的な破壊を想起させる文字はもちろんのこと、『愛』『悲』『怒』などの感情に強く結びつく抽象的な文字もすべて使用を禁ずる。解釈の幅が広すぎるからだ。これらは兵士の心にノイズを生み、出力のブレを引き起こす」
アキルの視線が許可されている文字の欄を滑る。
そこには、「出力等級」と「使用手順」だけが一行で記されている。
たとえば『風』の欄には、「推進力の確保のみ。切断への転用不可」とだけ書かれている。
「この字はこういう結果を出す。それ以外の意味は持たないし、持たせてはならない」
イザークは白手袋の指でバインダーのページをツントンと叩いた。
「文字に複数の意味を持たせ、各人が自由に解釈して勝手な行動をとればどうなるか。……君はすでに、その痛ましい結果を知っているはずだが?」
その言葉にアキルは鋭く顔を上げた。
イザークの爬虫類のような冷たい目が、アキルを真っ直ぐに射抜いている。
「君の故郷の辺境の村が、盗賊団に襲撃された事件の記録を読ませてもらった。村の報告では『魔法によって強化された家で難を逃れた』となっているが……現場に残されたひしゃげた扉の惨状を見ればわかる。一歩間違えば、君の家族全員が皆殺しにされていたはずだ」
アキルの胸の奥で、どす黒い怒りの火種がチリッと音を立てた。
「君が家族に漢字魔法の理論などという知識を与え、各々に勝手な判断を委ねたからこそ、あのような致命的な綻びが生じたのだ。もし君が彼らにマニュアル通りに動くことだけを求めていれば、あそこまで危険な事態には陥らなかっただろう。大衆に過剰な思考を強いるのは、あまりに無責任で残酷なことだ」
「……」
「大衆は、安全で平穏な暮らしだけを望んでいる。彼らが勝手な解釈で命を落とす前に、我々が完璧なマニュアルで彼らを保護し、導いてやる。それが国を預かる者の『責任』であり、大衆にとって最も優しい統治なのだよ」
息苦しい沈黙が、執務室を満たした。
アキルは、泥だらけのブーツを踏みしめ、うつむいたまま胸元の『赤い袋』を強く握りしめた。
分厚い布地越しに伝わってくる、いびつなオークの木片の感触。
静かな、しかし確かな激怒が、アキルの全身を駆け巡り、体温を奪っていく。
暗闇と土埃が舞う新月の夜。
パニックになりかけた妹のミナが、恐怖に泣きながらも自らの頭で考え、赤い袋の中から『欠けた角』の手触りだけで正解の札を選び出し、死の恐怖に立ち向かって自らの足で扉へ走った。
父ゴルドが体を張り、母リーナが窓を守り抜いた。
あの夜、家族が理不尽な暴力から生き延びることができたのは、彼らが上から命じられたマニュアル通りに動く無機質な歯車だったからではない。
「上の角が欠けた形は、屋根で覆って守る意味だ」というアキルの説明を、家族全員が自ら噛み砕き、理解し、その繋がりと勇気をもって絶体絶命の危機を乗り越えたのだ。
彼らの血の滲むような絆と、ミナの必死の勇気を。
安全な部屋から書類だけを眺めるこの冷酷な官僚は、自らの支配の論理を正当化するためだけに「マニュアルの欠陥」として極解し、泥で汚そうとしている。
「……意味を奪われた言葉は、ただの記号だ」
アキルの低く、震えを帯びた声が執務室の空気を切り裂いた。
彼が顔を上げると、その瞳にはこれまで見せたことのない静かで激しい怒りの炎が燃えていた。
「記号に従うだけの人間は想定外の事態が起きた時、自分では何も判断できない。ただシステムが壊れるのを待つだけの無力な部品になる」
「だからこそ、我々国家が完璧に管理するのだ」
イザークは表情一つ変えずに即答する。
「サインしたまえ。君の家族のような悲惨な被害者を二度と出さないために、君はこの規格を受け入れる義務がある」
窓の外では、王都の空を覆う灰色の雲がさらに分厚くなり今にも冷たい雨を降らせそうだった。
目の前の黒檀の机には、アキルの部屋から盗み出された検証の結晶を切り刻んだ漆黒のバインダーと、国家の意志を代弁するように冷たく光る一本のペンが置かれている。
チク、タク、と無機質な秒針の音が部屋に重く響く中、アキルは決して机の上のペンには手を伸ばさず、家族の勇気と繋がりが詰まった胸元の『赤い袋』だけを、己の魂を護るように強く握りしめていた。




